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【栃木】

受け継ぐのは私たち(上) 亡き祖父の記憶を伝えたい

大野さん(左)の自宅を訪れた田代さん。戦争や人生をテーマにした話は3時間にわたり、熱心に耳を傾けた=宇都宮市で

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 おじいちゃんが生きた幼少期は、どんな時代だったんだろう。

 宇都宮市立陽西(ようさい)中学校三年の田代凪(なぎ)さん(15)は、今月出場する「少年の主張発表大会」の地区大会で、祖父の隆一(たかいち)さんの目線から見た戦争を題材にしようと決めた。

 第二次世界大戦中、東京・小石川から茨城県村田村(現筑西市)へ疎開した隆一さんは戦後、会社員として各地を転勤し、宇都宮に定住した。七十年前の戦争を経験した身近な存在だったが、八十歳で昨年亡くなった。隆一さんは生前、書き残した当時の日記があると言っていた。どこにあるかは分からない。

 戦争を遠い過去の歴史と受け止める世代にとって、生の記憶を耳にする機会は確実に減っている。「知らないまま時間が過ぎていくのはよくないと思って。私たちが知らなかったら、次の世代、その次の世代も知ることはできない」

 思いを巡らせながら、小学校の授業で宇都宮空襲の話を語ってくれた一人の男性が思い浮かんだ。七月初め、その男性の自宅を思い切って訪ねた。

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 「平和の語り部」の活動を続ける大野幹夫さん(83)=宇都宮市=は、笑顔で田代さんを迎えた。「祖父の代わりに戦争の話を聞かせてください」。市民団体をたどり、自ら電話してきた中学生に心打たれ、喜んで引き受けた。

 田代さんの祖父隆一さんとはほぼ同世代。中学生のとき、当時住んでいた市中心部が爆撃を受けた一九四五年七月の宇都宮空襲について、大野さんはさまざまな角度から語り始めた。

 大野さん自身が題材になり、絵本となった「少年とハト」という作品がある。市街地の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社の近くで育った少年と、幼少期の「遊び仲間」だった神社のハトとのエピソードが描かれている。

 自分の手に乗ってくるハトの足の感触を、大野さんはよく覚えている。だが、戦争の激化とともに餌をやる人は減り、徐々にハトもいなくなった。食糧難の時代、神社に戻ったハトを捕らえる人もいた。いつからか、ハトは決して手に乗らなくなった。

 言葉こそ語らないが、ハトは身をもって、戦争の忌まわしい記憶を語り継いでいるように見える。「身近な生活に目を向けて、勉強していくことが大切」。大野さんはそう助言した。

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 田代さんは帰宅後、同居する祖母に隆一さんの日記を探してもらいたいとお願いした。日記は、押し入れにあった山のような遺品から見つかった。

 原稿用紙を束ねた手作りの日記を開くと、戦時中、小学生だった隆一さんが空襲を逃れるため茨城へ疎開した様子や、子どもながら農作業に従事したり、体が弱くて東京に帰ったりした様子がつづられていた。

 日記は終戦の一年前の四四年八月十三日に始まり、四五年七月二日が最後になっていた。その後は破られた跡もあった。

 生きているうちに、おじいちゃんから話を聞ければよかった。悔やまれる気持ちはあるが、大野さんに話を聞き、「空白のページ」を埋めることができたとも田代さんは感じる。

 「未来に進むには、過去のことを絶対に忘れちゃいけないし、それを教訓にしていかなきゃいけない。それを次の世代につなげていかないと」

 「少年の主張」に向け、四百字詰めの用紙四枚分にまとめた原稿には、祖父の戦争体験に交えて、語り部からの伝言も盛り込んだ。タイトルは「記憶をつなぐ」。地区大会は二十一日に行われる。 (後藤慎一)

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 戦争を直接知らない私たちだけど、戦争を知り、語り継ぎたい。そう決意した県内の若者たちがいる。戦後七十年の夏、戦災の記憶とともに生きてきた人々と、将来を担う若者たちとの交流を通して、世代を超えて共鳴する平和への思いに迫った。

 <少年とハト> 宇都宮市在住で元小学校教員の絵本作家、小板橋武さんが制作。宇都宮空襲を描いた3部作の最初の絵本「宇都宮大空襲」を出した2007年夏、絵本を題材にした紙芝居を披露するため、市内で開催された「宇都宮空襲展」を訪れた際、語り部の大野さんから聞いた少年時代の体験談を10年に絵本化した。市内の一部の小中学校で蔵書にもなっている。

 

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