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【栃木】受け継ぐのは私たち(中) 抑留の記憶を埋もれさせぬ
中央アジアのカザフスタンに第二次世界大戦後、五万人を超える日本人捕虜がいたという事実は、あまり知られていない。 小山市の会社員味方(あじかた)俊介さん(34)は、知られざる歴史に光を当てるため、十年以上、国内外の生存者のもとを訪ね歩いている。今月初め、カザフスタンで抑留を体験した那須町の会社経営、今村真(まこと)さん(90)の自宅を初めて訪れた。 開拓を志し、故郷の長野県から旧満州(中国東北部)へ渡った今村さんは、現地でロシア語を学んだ。終戦後、ソ連軍に中央アジアへ連行されたが、語学力を武器に、一部のソ連兵や地元住民と心を通わせていたという希少な体験を持つ。 抑留中、今村さんは収容所のソ連兵から日本人捕虜を侮辱されたことに腹を立て、取っ組み合いのけんかをしたことがあった。激高した兵士に射殺されそうになった時、ロシア系の女性看護師が「私には捕虜の健康を守る義務がある」と叫んで二人の間に立ちはだかり、一命を取り留めた。 「彼女が収容所に赴任してきた時、私が馬車で迎えにいったのが縁で、言葉を交わす仲になった。危険を顧みず助けてくれたんだ」 捕虜の中には重労働に倒れる人がいた一方、余った材木で三味線を作って弾いたり、仲間同士で短歌を詠み合ったり、帰国までの日々を前向きに過ごそうとする機運もあった。そんな回想の数々を、味方さんは身を乗り出して聞き入った。 ■ 味方さんとカザフスタンとの縁は、大学時代にさかのぼる。安全保障に関心があったため、防衛庁(現防衛省)の専門試験の受験を検討していた際、語学の選択科目にロシア語を見つけた。「英語と違って話せる人が少ないし、勉強してみようか」と考えていると、知人から「ロシア語を学ぶならカザフスタンがいい」と助言され、大学卒業後の二〇〇三年に留学した。 在学中、ロシア語の弁論大会に出ることになり、日本とカザフスタンを結ぶテーマを探した。その時、当時住んでいたアパートの大家の言葉を思い出した。「この建物は日本人捕虜が造った。最近の建物よりもずっと頑丈だよ」。日本人の抑留を原稿の題材に決め、カザフスタンで暮らしている生存者を訪ねていった。 聞き取りに応じた高齢の男性は南樺太でソ連軍に拘束され、十六歳でカザフスタンへ来た。帰還が始まっても収容所に残され、釈放後は溶接工として生きた。モスクワの日本大使館に帰国を希望する文書を送ったが回答はなく、帰国を断念。現地の女性と結婚し、今は年金生活を送っていると聞き、衝撃を受けた。 「こうした人々の存在はほとんど知られていない。後世に伝えるのは今しかない」。二年半の留学を終えて帰国した後も、取材や文献調査を続け、〇八年には研究内容を本にまとめて出版。就職してからも渡航を重ね、国内外で会った抑留関係者は二十人を超えた。 ■ 現地には今も、日本人捕虜が建設した多数の建物が残り、当時の技術や働きぶりをたたえる声がある。同国も当時はソ連の圧政下にあり、捕虜に共感を寄せる空気があったのではないか、と味方さんは推測する。 今村さんとは六月、那須町を観光で訪れたことがきっかけで知り合った。戦争へ突き進んだ日本を厳しく批判することの多い今村さんだが、味方さんの訪問を心から喜び、「若い人と当時の話ができるのはうれしいね」と繰り返した。 抑留の歴史には今も未解明な点が多い。味方さんは捕虜らの人生に大きな影響を与えた数々の事件の真相を知るためにも、今後も証言を集め続けるつもりだ。 「私は戦争を体験していない。ただ、少しでも真実に近づき、抑留の歴史を正確に語り伝えていきたい」 (大野暢子) <カザフスタンでの日本人抑留> 1945年8月上旬、ソ連軍は旧満州や樺太に侵攻。60万人超の日本人が捕虜としてソ連や周辺国に連行され、強制労働などに従事させられた。当時、ソ連を構成する国の一つだったカザフスタンには約5万8900人が抑留され、約1500人が死亡したとされる。 PR情報
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