こんにちは。
ふくにゃんよ。
今日は都内にあるカフェに来てるの。
なんと定食300円!安いでしょう。
こんにちは。
こんにちはどうも。
三色丼を。
ここで働いているのは精神障害のある方たち。
25人の仲間がいるのよ。
お客さんともいい感じね。
実はこちらのスタッフさん病気がよくなってたのに20年以上病院で暮らしていたんだって。
ほかにも同じような人が大勢いるの。
何でそんな事になるかは戦後の歴史と深い関係があるのよ。
過去の歴史をひもとき未来へのヒントを探る「シリーズ戦後70年」。
第4回は精神障害のある人たちです。
終戦直後その多くは自宅に閉じ込められていました。
その後経済成長の陰で危険な存在と考えられ病院に隔離収容されていきます。
劣悪な環境に置かれた患者たち。
職員の暴力で命を落とす事件も相次ぎました。
当たり前の自由や尊厳を守るために声を上げてきた精神障害者たち。
そのあゆみを振り返ります。
こんばんは。
「ハートネットTV」です。
「シリーズ戦後70年」。
今回は精神障害のある人たちの戦後を振り返っていきます。
スタジオには精神障害者の権利を守る活動をされている山本深雪さんにお越し頂きました。
ご自身も20代の時にうつ病を発症し精神科病院に入院された経験があります。
どうぞよろしくお願いします。
そして今日も福祉の戦後70年に詳しいふくにゃんと一緒に番組を進めてまいりたいと思います。
ふくにゃ〜んよろしくお願いします。
よろしくね。
よろしくね。
さて日本の精神障害者を巡る現状は世界と比べて特殊な状況となっています。
こちらをご覧下さい。
精神科病院の入院患者の数です。
32万3,000人。
そのうち1年以上入院している人が20万人以上。
更に同じ病院に10年以上入院している人が7万人もいるんですね。
長期入院者が突出して多いという現状です。
この中には入院治療の必要がなくなったにもかかわらず地域の受け皿がなくて退院ができない人たち。
いわゆる社会的入院の人たちも数多くいるんですね。
(サヘル)実際もっと長い間入院生活をさせられてらっしゃる方っていらっしゃるんですか?40年50年という方もいらっしゃいますね。
そうなんですね。
50年ですよ…。
人生のほとんどですね。
地域で暮らすという当たり前の事ができていないと。
それはなぜなのか70年の歴史をひもときながら見ていきます。
こちらの年表をご覧下さい。
それぞれの時代を象徴するキーワードがあります。
(サヘル)まずこちらから。
(サヘル)この3つのキーワードで見ていきます。
まずは最初のキーワード。
日本で最も古い精神科病院の一つ…その一角に日本の精神医療の歴史的資料が展示されています。
これは戦前の精神科病院で使われていた道具です。
こちらの写真は終戦直後まで精神障害者がどんな状況に置かれていたかを示しています。
当時は自宅の一部で監禁される私宅監置が一般的でした。
精神医療の歴史を研究する医師の岡田靖雄さんです。
戦後医療や福祉の制度が整えられていく中精神障害者への対応も変わります。
国は…私宅監置を禁止し病院で治療をする事を基本としました。
その4年後初めての全国調査を実施。
多くの精神障害者が治療を受けられていない事が明らかになりました。
当時放送されたNHKの番組です。
病院が危機的に足りないと伝えています。
つまり100人のうち97人の精神障害者が自宅で専門的治療も受けず放置されているという実情なのです
こうした状況を受け国は精神科病院を増やすためにさまざまな施策を打ち出します。
その一つが精神科特例。
内科などに比べ精神科の医師の数は1/3看護師は2/3でよいとしました。
これにより少ない人手で大勢を入院させる病院が次々と生まれます。
鍵で患者を閉じ込めるなど治療よりも収容の色が濃いものでした。
更に隔離収容が進んだのが高度経済成長のさなかです。
60年代東京オリンピックを控え町並みが整備されていく中ある事件が起こります。
統合失調症の少年が当時のアメリカ大使を刺したいわゆるライシャワー事件です。
メディアは一斉に「精神障害者を野放しにするな」と報道。
病院に隔離すべきという風潮が更に強まりました。
その結果地域で暮らせるはずの精神障害者までも自由の制限された病院の中に押し込められていったのです。
あの…普通病院に入ったりとかという時には治すために入るものじゃないですか。
でも収容して1か所に全員を集めて…やり方も犯罪者のような。
でもそういう罪を犯した人たちじゃないじゃないですか。
ちょっとちょっと。
サヘルちゃん。
ふくにゃん。
はい。
このデータを見て。
(サヘル)何ですか?精神科病院のベッドの数なんだけど日本では1960年代にグ〜ッと増えていってるでしょう。
その後はほとんど変わってないの。
でもねほかの国では逆にこのころからどんどん減っていったのよ。
(サヘル)ほかの国これだけ減ってる。
グラフのラインがず〜っと。
どうしてこの結果なんですか?欧米ではずっと1990年とかに向けて進んできていたノーマライゼーションの動きというのがある訳ですね。
ところが日本ではそういう一人一人を大事にするっていうまなざしがなくて結局隔離して閉じ込めておけばいいというふうな安上がりの管理っていうか。
私たちからすれば怖い作法で対応されてきてしまったという気がしますよね。
…で失われたのは中にいる人たちの人としての当たり前の権利。
そこが大事にされなかったなというふうに感じますね。
1970年代に入りますと一部でこうした精神医療の在り方を変えていこうという試みが始まったんです。
続いてのキーワードです。
全国に先駆けて改革に乗り出したある病院の取り組みです。
群馬県太田市にある…1968年日本で初めて全ての病棟に鍵を掛けない開放型の精神科病院として作られました。
三枚橋病院を記録した映画です。
この病院には精神病院に付き物の鍵と鉄格子がない。
鍵を掛け閉じ込める事が心病む人を癒やすによいはずがない。
問題はどうすれば鍵が外せるかである
入院患者は病室から出て思い思いの場所で過ごす事ができます。
週末には病院内でディスコが開かれ多くの患者が地域の人と一緒に踊りに興じました。
山の斜面で…。
この病院を作った…鍵や鉄格子を取り払い自由を増やす事で患者自身の力を引き出せると考えました。
よっ!どうだ?ジャイアンツ勝ってるか?実際に患者たちの自由を認めていくと病棟の雰囲気が変わっていったといいます。
更に家族と疎遠になるなど退院後の行き場がない患者の支援にも取り組みました。
病院が近くに家を借り患者たちが暮らす共同住宅を作ったのです。
6畳1間に一人ずつ。
病院スタッフが毎日訪問し慣れない退院後の暮らしを支えました。
当時病院の職員だった…患者たちはここで暮らす中で一人一人にその人らしさが出てきたといいます。
しかしこうした取り組みに国や自治体の補助はありませんでした。
費用は全て病院の持ち出し。
精神医療全体の体質は変わりませんでした。
石川さんの言うように「ここにも人がいる」ってすごく印象的な言葉でそうなんですよね人なんですよ。
だから人と人は触れ合う時に心と心でつながると皆さんすごくいい表情されてたじゃないですか。
ディスコを開いていたりビリヤードやったりっていうね。
もう笑顔になって大きな変化ですよね。
人として大事にされると人間誰でもそうですけど心も膨らんでくるしほっこりしてきたらいろんな力が湧いてくる。
そういうものを大事にしていけるつきあいをしていこうって思っていかれたんだろうなと思いますね。
その当事者の皆さんが地域に出るっていう事はこれどんな意味があるんですか?ごく普通に散歩したいとかいう気持ちが本当は持ってるんですね。
それが出せる…できた事で自信につながっていくっていうか。
私も閉鎖病棟から外に出れた時っていうのはすごくほっとしましたね。
安心して明日からも歩いていけるっていう気持ちがしました。
この動きがなぜ全国に広がらなかったんでしょうか?それはやっぱり安上がりな診療報酬で努力している事が評価されないという事だったと思いますね。
地域が持っている偏見。
マスコミが作り出してきてしまった差別の目。
そういうまなざしを変えてまなざしと対じしながら地域での暮らしっていうのをサポートする必要があるのでそのための人手というのは予算化される必要があったなと思います。
だから精神科病院だけのせいにはできないなと。
最後のキーワードです。
こうした精神科医療の体質を変えようとついに当事者たちが立ち上がります。
きっかけとなったのは相次いで明るみに出た患者への暴力事件でした。
1984年精神医療を問う衝撃的な事件が起こります。
栃木県の病院で看護職員の暴行によって2人の患者が死亡したのです。
病院内での日常的な暴力や患者を強制的に働かせていた事などが明らかになりました。
更に80年代から90年代にかけて全国でも同じような患者の人権侵害が相次いで発覚。
国際的にも大きな非難を浴びました。
こうした中で精神障害者たち自らが立ち上がります。
・はい大阪精神医療人権センターです。
山本深雪さんが活動するこのNPOでは患者や家族からの電話相談を開始。
すると暴力や虐待プライバシーの侵害など閉ざされた病院の体質が浮き彫りになりました。
山本さんたちは大阪府内の精神科病院に実態調査を申し入れます。
渋る病院を説得し実現にこぎ着けました。
トイレに囲いがないなど人としての尊厳を損ねるような設備には改善を促しました。
患者のプライバシーが守られるようカーテンやついたての設置も要望。
電話や面会にすら厳しい制約のある病院には患者の自由を尊重するよう働きかけました。
一つ一つ病院を回り調査結果を公表。
今では大阪府内にある60全ての精神科病院が訪問を受け入れています。
病院を変えるっていう事はこれとっても大変な事ですよね。
管理の厳しい病棟なんかに行くと空気が凍りついたみたいにピ〜ンと緊張感が高くて皆さんが沈黙していますね。
黙ってしまっている。
病棟に行った時に「あれ?おかしいな」と思ったらどうしてこの公衆電話はこんな2メートルもある高い所に置いてあるんでしょうとか…。
2メートルですか!?ありえない。
2メートルある所に公衆電話が置いてあったり。
それわざと連絡をさせないようにしてるって事ですか?病院の方のおっしゃるには刺激のカットが治療上大事なんだというふうに言われます。
でも刺激のカットっていうのもし過ぎるとやっぱおかしなもので必要な情報というのはちゃんと提供されないと寂しいものですし未来を描く事もできないものですし家族の声も聞きたいという当たり前の気持ちすらも踏みにじられる環境にあったりする訳ですね。
当事者だからこそできる事というのも当然ある訳ですよね。
そうですね。
力を持ってない者が持つ言葉っていうか伝達方法っていうのをスッと体で分かるのでその方々の目で合図される言葉でトイレに行ったら話すよという事を目で合図される。
そしたらそこでスッと行ってトイレでじかにお話したい事を聞くとかキャッチボールをしていける関係っていうのを外部の第三者が作っていく事というのを私はやっぱりとても大事だったなと思います。
お互いの事を知る事ができる。
病院の方としてもいろんな関係が積み重なってきてますね。
それでだいぶ努力して変わっていかれていった医療機関らしくなってきた所というのは増えてきたなというふうには思ってますね。
病院の中を改善していく事に加えてもう一つ大切な事があります。
それは治療を終えた患者さんがなるべく早く退院して地域で暮らせるようにしていく事です。
ここでも当事者の力が注目されています。
都内の精神科病院。
月に2回ここを訪れる人たちがいます。
こんにちは。
こんにちは。
NPOこらーるたいとうのメンバー。
ここに入院している患者たちに会うのが目的です。
長い入院で単調な生活を繰り返していると退院したいという意欲を失いがちです。
メンバーが患者に話をする事で希望を引き出し勇気づけるのです。
実はこらーるたいとうのメンバーも入院経験があります。
同じ境遇にいた者同士だからこそ本音で話せるといいます。
(拍手)退院後の具体的なイメージを描けるよう住まいや仕事の相談にも乗ります。
(加藤)いっぱい来てますよ。
これから退院していこうという方たちにとってはどんな心強さっていうのがあるんでしょう?地域に出たらあんなふうに暮らしていけるんだなっていう自信とかが湧いてくるだろうなと思いますね。
困った時にあの方々にお尋ねする事ができるんだなという安心感にもつながってるだろうし添え木になると思いますね。
添え木になる?弱った時にどうしようと思った時に「あっあの人たちに相談してみよう」って思い出す事ができたらちょっとした添え木にはなると思いますね。
そういうよりどころになる方々が本当はもっともっとたくさん増えて足を運ぶっていう事も大切なんですね。
多分それを待ってる方々がたくさんいらっしゃりそうですもんね。
ちょっと失礼。
ふくにゃん。
ニャッ。
こんなふうに心の病気を経験した人たち同士が支え合う事をピアサポートっていうのよ。
最近では全国各地で生まれていてようやく国や自治体も支援に動き始めたの。
もっと広がるといいわね。
まあ戦後70年精神障害のある方たちの歴史を見てきましたけども私たちここからどんな事を学ぶ事ができるんでしょうか?精神障害って言うと分かりにくい言葉になってしまいますけど私たちが…まあ私でもそうですけども。
悩んだ時に持つ心の弱さっていうかゆらぎのようなもの…それを逆に悩む力っていうふうに捉えて関わりっていうのを人が持っていく事ができればああいう閉鎖空間に閉じ込めるんじゃなくて地域の人の見守りの中で見守っていける関係というんですか。
そんな関係が出来てきた事が大事だったのかなというふうには思いますね。
自分も正直向き合い方が分からなくてやはり専門の方に任せた方がいいんだっていうふうにどうしても思っていたのが事実です。
でも今のお話でしたりとかVをいろいろ見てやっぱり同じように会話をする事で薬ではなく…
(サヘル)自分たちにもできる事がちゃんとあるんだなと。
「シリーズ戦後70年」明日はハンセン病の戦後70年を振り返ります。
今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
明日もあるわよ〜。
2015/08/18(火) 13:05〜13:35
NHKEテレ1大阪
ハートネットTVシリーズ戦後70年 第4回▽精神障害者の戦後〜病院か地域か[解][字][再]
精神障害者の長期入院が大きな問題となっている日本。その背景には、戦後の「隔離収容」の政策があった。どうしたら地域で暮らせるのか、精神障害者の歴史をたどり考える。
詳細情報
番組内容
戦後70年の日本の福祉を振り返り、未来への提言につなげる年間シリーズ。第4回は精神障害者がどう生きてきたのか。日本では精神科病院に1年以上入院している人が20万人にのぼり、症状が良くなっても病院にとどまる「社会的入院」の多さが問題となっている。その背景には、患者の人権より治安を重視し精神障害者を「隔離収容」してきた歴史がある。どうしたら地域で暮らせるのか、立ち上がった当事者の動き等を見つめ考える。
出演者
【出演】NPO法人 大阪精神医療人権センター…山本美雪,サヘル・ローズ,【解説】佐田明,【司会】山田賢治
ジャンル :
福祉 – 障害者
福祉 – 社会福祉
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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