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【茨城】

<戦後70年いばらき>「青春奪った戦争」

下館飛行場の正門跡に立つ石塚哲次郎さん=筑西市で

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◆筑西・下館飛行場に配属 石塚哲次郎さん(85)

 戦時中、筑西市南部にあった下館飛行場。米軍の空爆から飛行機を隠すために土を馬蹄(ばてい)形に盛った掩体壕(えんたいごう)は見つからなかった。残っているはずの貯水池跡の施設も、夏草に覆われていた。わずかに畑の中にあった正門の礎石だけが、名残を残していた。「平地林が広がり、北側には飛行機の格納庫の建物がずらりと並んでいた。もう当時の面影はほとんどない」。筑西市の石塚哲次郎さん(85)は、今も胸に刻まれる遠い記憶をたどった。 (原田拓哉)

 旧制下館商業学校三年生だった石塚さんは太平洋戦争末期の一九四四年八月、勤労学生として下館飛行場に動員された。同級生百五十人のうち五十人の配属先が、少年飛行兵の訓練基地の下館飛行場だった。

 格納庫で飛行機の整備を担当した。少年飛行兵の訓練機は、軽合金の骨格にベニヤ板製で「赤とんぼ」と呼ばれていた。訓練から戻った飛行機の汚れをアルコールで拭き取ったり、燃料を補給したりした。作業に慣れてくると、機体を分解して再度、組み立て直すオーバーホールも任された。

 一時期、配置換えで零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の尾翼を製造していた近くの茨城精工に動員されたが、再度、下館飛行場に戻された。

 「茨城精工では最寄りの駅から軍歌を歌いながら、敷地内に向かった。下館飛行場では、四列縦隊で隊列を組んで門に入っていった。兵隊と同じ扱いだった」

 戦局の悪化で、下館飛行場は様相が一変していた。赤とんぼは少なくなり、代わって陸軍の戦闘機「疾風(はやて)」が配備されていた。特攻隊員たちの姿が目立った。少年飛行兵の訓練基地から迎撃基地へ、その役目を変えていた。

 米軍の戦闘機P51やグラマンの機銃掃射が激しくなった。空襲警報が鳴るたびに、疾風を格納庫から出して掩体壕まで手で押して運んだ。格納庫は、米軍の格好の標的だった。

 四五年五月十七日、特攻隊「第五七振武(しんぶ)隊」総勢十二人が飛び立った。日の丸を振って総出で見送った。厳粛な雰囲気の中、お神酒の杯を交わし、少年飛行兵たちは、笑顔を残して愛機に搭乗した。その光景を鮮明に覚えている。

 特攻隊は、山口を経由して基地があった鹿児島・知覧から出撃、沖縄方面の海上で若い命を散らした。

 東京都内の出版社で、長く編集に携わっていた石塚さんは三年前から「学徒勤労動員の記録」を手づくりの本にまとめている。十五人ほどの同級生が同窓会の会報などに、下館飛行場を中心にした学徒動員の約一年間の体験をつづっていた。学校再編と校名変更で、二十二期生の石塚さんたちが下館商業学校最後の卒業生となった。

 「戦争に巻き込まれ、私たちはひどい青春時代を送らなければならなかった。戦争で青春を奪ってはならない。当時、五年制だったが四年で卒業させられ、社会に放り出された」。若い人たちに、もう二度とそんな経験はしてほしくない。「学徒勤労動員の記録」には石塚さんの、そんな思いが詰まっている。

 

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