<慰安婦生存者13人証言>「16歳で連れて行かれ、おしゃれもできなかった恨を忘れられず」(2)

<慰安婦生存者13人証言>「16歳で連れて行かれ、おしゃれもできなかった恨を忘れられず」(2)

2015年08月18日14時33分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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姜日出さんが干し柿を手にした姿。
  まだ幼く体も弱かった姜日出さんは、苦難に耐えられずいつも病んでいた。軍人を相手にしてからは常に消毒薬で下半身を洗わなければならなかった。「いくら消毒しても出血して高熱が出た。何か異常だと思ったが、ほかに方法がなかった」。そうするうちにある年の晩春、姜日出さんは腸チフスの診断を受けた。「最初は熱が出ていても軍人が入ってきた。そのうちに、これに感染するというとその時から関係させなかった」

  体の具合は悪かったが、軍人の相手をせずに済んだので姜日出さんはむしろ良かった。それもつかの間、慰安所を管理していた日本人たちが伝染病にかかった慰安婦たちを火に焼いて殺すために山に連れていった。どこかも分からぬ山に登って「もう死ぬんだな」と何度も言っていた姜日出さんを助けたのは朝鮮人のキムさんだった。「山に薪を置いて焼こうとしているところに慰安所で働いていたキムさん来て妨害をした。その時、突然わらじをはいて朝鮮服を着た人々が何人も降りてくると、私と1人の女性を連れて逃げた。後になって独立軍だと分かった」。

  彼らは姜日出を治療して近隣の洞窟で過ごす場所を用意してくれた。いくらも経たずに解放されたという消息を聞いて、おばあさんは洞窟から出た。だが故郷への道は遠かった。姜日出さんは吉林省に行った。22歳の時だった。その後30年余りの間、看護師として働いた。結婚もして子供も産んだ。慶尚道方言も忘れるほど長い歳月が流れた1997年、故国の地を再び踏んだ。だが、すでに両親や姉・兄はみな亡くなり、家の敷地だけがぽっかり残っているだけだった。

  姜日出さんにとって今でも最もおいしい食べ物は干し柿だ。幼い頃、仕事をして夜遅くに帰ってきた父は末娘の枕元にだけ干し柿を置いていたという。「夢うつつに目を開けるとお父さんが干し柿を置いていった。それで寝ないで少しずつ食べていた」。今でも家族を思い出すたびに干し柿を買い求めるが、募る思いを満たす方法はない。

  「あまりにも故郷への思いが募れば、気持ちを変えようと食べるのをやめる。そんな日は眠れなくて。夢ででも母や父に会えないだろうかと…」

  姜日出さんは話している間じゅう涙をふくのに、しばしば顔に手をやった。その瞬間、姜日出さんの爪にきれいに塗られた赤いマニキュアが目に飛びこんだ。両手には玉の大きな指輪を4つもしていた。「手が本当にきれい」だと(記者が)言った。

  「おしゃれ盛りの少女時代に慰安婦に連れて行かれ、まともにきれいにしてみることができなかった恨で、今も常にマニキュアを塗って指輪もつけてみる。花盛りのように美しいはずだった頃、私は花のように美しくなれなかったから。きれいだと言ってくれてありがとう」。

  恥ずかしそうに笑う姜日出さんに、70年余り前の少女の顔が重なった。

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