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幻の紀行文が、スマトラカレーのスパイスの中に眠っていたなんて……【藤沢周『明日、カウンターの地平線で』】

芥川賞作家、藤沢周。自身初のウェブ連載『明日、カウンターの地平線で』第二回です。前回は主人公の小説家が鎌倉のレストランで眺める人間模様でしたが、今回の主人公は古書店めぐりが趣味の女子大生。果たしてどんな物語が綴られどんな人生が交差するのでしょうか。(神保町のグルメカレー

幻の紀行文が、スマトラカレーのスパイスの中に眠っていたなんて……【藤沢周『明日、カウンターの地平線で』】

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 第一話はこちらから

 

 

明日、カウンターの地平線で 第二話

 

 

怖ろしいほどの湿度と草いきれと暑さ。そんな薄暗くうっそうとしたジャングルの奥深くで、湖底のようなサファイア色をした目の大蛇と遭遇する。


それとも、さざなみのような風紋に囲まれた砂漠の中の石窟寺院で、左肩にサソリの刺青のあるベドウィンの美青年と一夜を過ごす、のも。


本当はパッションしだいで何でもできるはずだ。可能性をはばんでいるのは、むしろ、この国に夢まで飼いならされた私自身なのだから。限界なんて設けなければいい。私は革命家にもなれて、石油王の妻にもなれて、未開部族の呪術師にもなれる。それから……。


右隣りに座るユッコに肘をつつかれて、何かと顔を上げたら、壇上の教師が私の顔を見て答えを待っていた。黒板には「年65万円の地代を得る土地の理論価値。利子率2%、一年目の地代は現在受領」とか殴り書きされている。


地代、利子率? え? 何それ? 


「基本計算だろう? 何使う?」と、痩せたカマキリを想起させる顔をした教師が、片眉だけ弓なりにあげて聞いてきた。理論価値って言われても……。と、まごついていると、ユッコが静かにメモを机の上に滑らせてきた。ユッコは私と違って理系出身だから、こんなの楽勝なのだろう。

 

『無限等比数級! 3315万円♡』の丸文字。


「はい……。無限等比数級を使います。ですから……」と、シャーペンを走らせるふり。


「理論価値は、3315万円となります」


「だな。利益の割引現在価値の合計ということだから……」


ユッコには「ありがとう♡」のメモを返したものの、経済学で使う数学の意味が私にはどうしてもよく分からない。理論価値と言ったって、その土地から温泉が湧き出るかも知れないし、縄文時代の土器が出土するかも知れないし、大体、地代も払われず夜逃げされるかも知れない。


この人間の世界には純粋な物理現象など何処にも存在しないのだから、数式はある部分で参考になるに過ぎない。ある部分で参考ということは、他のものと比べて意味を持つということだから、つまりは、もっと多くの世界を見なければならないのだ。これが私の理論価値。それゆえに、私はまた机の下に隠した、金子光晴の『マレー蘭印紀行』をむさぼり読むのだ。


不倫をした妻と一緒に、世界を流浪した詩人・金子光晴。その東南アジアでの紀行文が、どこを読んでも素晴らしい。きらめき、色彩、湿度、繁茂、獣、人、人、人……。読んでいるだけで、猥雑なエネルギーに巻き込まれて、原初というのか、都市とは違う生命の息吹が自分の中で噴き出してくるのだ。


もちろんどこにいっても自分は自分だろう。そう、「水急不流月」だ。水、急なれども月を流さず……って、これ、何だったっけ。なぜ、こんなフレーズが浮かんできたのだろうと頭の奥を探っていたら、思い出した。


彼氏につきあってもらって、鎌倉の古書店を巡った日のことだ。お坊さん、つまり雲水たちの紀行文みたいなものがないかと思って古書店を回ったけど、目ぼしいものがあまりなかった。それで、「クルベルキャン」というイタリアンバーで、ものすごく美味しいプッタネスカというパスタを食べている時に、カウンターにいた美人連れのお坊さんがいっていた言葉だ。私達は窓際にいたからよく話はきこえなかったけど、その言葉だけは覚えている。


水、急なれども月を流さず。


帰りの横須賀線で、彼氏に「いい言葉じゃない?」といってみたけど、反応は薄かった。とにかく、どこへいっても私は私で流れないけど、いろんな水に翻弄されたり、濁ったり、澄んだりして、初めて流れない自分が輝くんだと思う。だから、色んな水の流れを知るために、先人たちの書いた紀行書関係に夢中になっているのだ。もちろん、いずれは自分も、彼氏を捨ててでも旅に出てみせるから。

 

──夜の密生林ジャングルを走る無数の流れ星。交わるヘッドライト。そいつは、眼なのだ。いきものたちが縦横無尽に餌食をあさる炬火たいまつ、二つずつ並んで疾走はしる饑渇の業火なのだ。双つの火の距離、火皿の大小、光のの強弱、燃える色あいなどで、山の人たちは、およそ、その正体が、なにものなのかを判断する。ゴムの嫩葉わかばを摘みにくるしか、畑の果物をねらうモサ、鶏舎のまわりを終夜徘徊する山猫、人の足音をきいて鎌首をもたげるコブラ、野豚バビ、怖るべき豹、──それぞれに、あるものは蛍光、あるものは黄燐、エメラルド、茶金石、等々。あやめもわかぬ深海のふかさから光り物は現われ、右に、左に、方向をそらせて倏忽しゅっこつと消える。……

 

なんて素晴らしい文章なのだろう。この『マレー蘭印紀行』は、すぐ近くの神保町の古書店で見つけたボロボロの文庫本だけど、私の宝だ。ついでに、本に挟まっていたコピーの切れ端も。なんかえらい古い文体と漢字の文章なのだけど、やはり南方の探検に関するものと思えるのだ。

 

──予が渡南以来席暖まる暇もなく、各群島を旅行探検……熱帯の風餐雨宿の苦を味つたが、未だ南洋の如き楽土は世界になからうと思つた。見よ、薬料、ゴム、椰子、煙草、染料、鉱産物香料、チーク樹、タピオカ、亜麻、塗料、米、砂糖、阿片、獣皮等の無尽蔵にして天放的なるを。……あゝこの熱帯の宝庫!!

 

とかあるのだ。やはり、金子光晴の文章なのだろうか。どうも時代が違うような気がするし、文体も違うし、でもやはりワクワクする。本を探しても、ネットで検索しても分からないけれど、誰かが文庫本に挟んだそのコピーも、私だけの宝物だ。


よし、次のミクロ経済学の授業はサボッて、また神保町の古書店めぐりをして、宝の紀行書を発掘してやろう。彼氏はコンビニのバイトの時間だし、ユッコはつき合ってくれるかな。

 

 

小宮山書店、田村書店、大久保書店、十字屋書店、澤口書店……。

 


結局、ユッコは超マジメだから、ミクロは出るといって、ついでにノートも私のために取ってくれるらしい。

 


菅村書店、一誠堂書店、明倫館書店、大雲堂書店……。


本当に古書店めぐりは楽しい。これも一つの探検なのだ。松尾芭蕉の『奥の細道』も、正岡子規の『はて知らずの記』も、若山牧水の『みなかみ紀行』も、みんな古書店で手に入れた。法顕の『仏国記』、ゲーテの『イタリア紀行』、レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』、チャトウィンの『パタゴニア』も……。


今回は外のワゴンの中に、開高健の『オーパ』があって、即座に購入した。すでに持っているのだけど、アマゾン河の釣り紀行の大傑作が100円だなんてもったいない。それからたまには靖国通りの向かいを歩いてみようと思っていったら、眼に飛び込んできた文字!

 

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スマトラカレー 共栄堂。

 


神保町はカレー屋さんが多いことで知られているけど、スマトラカレーって、これは何かの縁か啓示に違いない。なにしろ私のバッグの中には、スマトラについても書かれている『マレー蘭印紀行』が入っているのだ。さっきから鳴っている私のおなかはすでにスマトラカレー用になっている。入るべし! 食すべし!

 

 

らせん階段を下りていくと、逆L字型の広めのフロアに、合理的にテーブル席が12、3席配置されている。もうカレーのスパイスの香りが満ちていて、それだけで空腹の胃袋が喜び、わななくのだ。奥から二番目のテーブルに案内されて、柔らかなソファのような椅子に座る。大学の先生だろうか、黙々とカレーを食べている初老の紳士。若いカップル。ノースリーブの黒いサマーニットを着た綺麗な人。袋から10冊くらいの漫画本が覗いている青年。後ろの席には、打ち合わせもかねてなのだろうか、編集者らしき人とライターの人が、ヒッチコックの映画について話しているのが聞こえる。


滑らかな動きで現れたウエイトレスさんに、メニューの一番上にあったポークカレーを頼んだ。ポーク、ビーフ、チキン、エビ、タン、ハヤシライス。季節限定で焼きりんごも出しているようだ。

 

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と思っているうちにも、すぐに陶器のカップに入ったポタージュスープが運ばれてくる。カレーの前にスープ。アイボリー色の濃厚なスープは、熱々なのかラムスデン現象のような皮がそよいでいて、一口啜ってびっくりする。胡椒がポタージュのうま味を引き立てて、とろりとした一口一口が疲れた体の細胞に沁みていくようだ。なんか、これだけで癖になりそう。ブイヨンの細かな金色の輪がきらめいて、さらにしっかりと体を癒してくれる感じ。


と、きたきた。すぐにも銀のソースボートに入ったポークカレーと皿にかなりの盛りのライス。そして、このルーが黒っぽいのだ。わりと粘度の低い感じのルー。そこに、細かなスパイスの粒々がふんだんに使われているせいで、黒っぽいのだ。しかも、煮込んだ野菜はすべて溶け込んでいて、ポークの贅沢な塊がゴロゴロと入っているではないか。ボートに鼻先をやって深呼吸したら、気化した香辛料のエッセンスのいきれにせてしまうくらいだ。

 

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やばい、やばい、と嬉しい声を抑えながら、スプーンでライスの上に。小麦粉を使ってないのか、スープとまではいかないけれど、かなりさらり流れるルーがライスの一粒一粒に沁み込んで、決め手のスパイスが米粒に濾過されるかのよう。さらにその上に煮込んだ豚肉が、ゴロン、ゴロンと遊ぶのだ。もう、ダメ。即、一匙。

 

もう一匙。

 

さらにもう一匙。

 

やっばーい! 30種類近い香辛料がからみ、溶け、ささやき合い、あるいはぶつかり合い、深い味覚の密生林の奥でしか味わえないような、かなり辛めの宝のルーだ。それが硬めに炊き上げたライスに沁み込んで、噛むたびにじわじわと至福の味わい。そこにまた、長時間煮込まれたポークの柔らかさと奥行きあるうま味に、思わず鼻から笑いが漏れるほどに幸せな気分になるのだ。

 


こんなにうまいカレーは初めてだ。一口食べるたびに、髪の毛根から汗がにじむような辛さだが、尖っていない。まろやかだけど、飽きがこない。どれだけでもいける。ふんだんに使われているスパイス調合の妙だ。


かなりの量なのに、あっという間に食べてしまって、まだ香ばしいスパイスの余韻にうっとりしながら、メニューをもう一度見る。

 

──明治の末、行き詰まった日本から脱出して南方雄飛を志した長野県伊那の伊藤友次郎は、広く東南アジアに遊び知見を広めて、南洋年鑑を著すなど……。

 

伊藤友次郎……? 知らない人だけど、この人からスマトラ島のカレーの作り方を教わり、日本人の口に合うようにアレンジしたのが、共栄堂のカレーらしい。


伊藤友次郎、南洋年鑑、をスマホでググってみる。


あ、出てきた。


『南洋年鑑』自体を見てみたいのだが、古い書籍の表紙写真しか出てこない。と、スクロールしているうちに、国会デジタル図書館の頁が出てきて、大正時代初版の『南洋年鑑』が全部読めるようになっている。なにげなく、写されていた頁写真を繰っていったら──。

 


「え! ウソ!」

 


あまりに驚いて、大きな声をあげてしまう。後ろの編集者たちに「お、びっくりした」とまでいわれ、「ごめんなさい……」と恐縮したふりをしたが、それどころではない。大変だ。

 

 

「予が渡南以来席暖まる暇もなく、各群島を……」とあった。『マレー蘭印紀行』に挟まっているコピーと、まったく同じ!

 

 

──熱帯の宝庫!! それにしても邦人のこの未知数の宝庫を除外にして居る其気楽さには一驚を喫せざるを得なかった……。

 

共栄堂にスマトラカレーを伝授した伊藤友次郎さんの『南洋年鑑』の文章だ。幻の紀行文がスマトラカレーのスパイスの中に眠っていたなんて……。


綺麗に食べ上げた皿のカレーの模様が、未知の国の地図に見えてきて、独りワクワクしてガッツポーズを決めた。

 

 

 

(『明日、カウンターの地平線で』第二回 了)

photos by Yasuko Yagi

 

 

小説の舞台となったお店 

共栄堂

住所:東京都千代田区神田神保町1-6サンビルB1F
TEL:03-3291-1475

 

 

著者

藤沢周(ふじさわ・しゅう)

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1959年、新潟県生まれ。法政大学文学部卒業。
書評紙「図書新聞」編集者などを経て、93年「ゾーンを左に曲がれ」で作家デビュー。
98年「ブエノスアイレス午前零時」で第119回芥川賞受賞。
『死亡遊戯』『刺青』『ソロ』『境界』『陽炎の。』『礫』『オレンジ・アンド・タール』『愛人』『さだめ』『紫の領分』『雨月』『焦痕』『ダローガ』『箱崎ジャンクション』『第二列の男』『幻夢』『心中抄』『キルリアン』『波羅蜜』など著書多数。
最新刊は『武曲』(文春文庫)、『界』(文芸春秋)。

 

                             
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