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お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

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2015年08月17日

労働党党首選でも、「北ロンドンは赤い」ことを再確認。

今年5月の総選挙で、得票数は前回2010年の8,606,517票をかなり大きく上回って9,347,304票としたものの、スコットランドで1つを残して全議席を失うなど26議席を減らして敗北した労働党は、選挙結果が出てすぐにエド・ミリバンドが党首を退いた(党首代行はハリエット・ハーマン副党首。国会での「党首討論」もハーマンがやっている)。

その党首選が(ずいぶん時間をかけているなあというのが率直な印象だが)、現在、終盤にさしかかってきている。投票は郵便投票・オンライン投票で、締め切りは9月10日だからまだ時間はあるが、投票権のある人たちに宛てて投票用紙が郵送された8月14日には、労働党系の人たちが最もよく読むとされる新聞、ガーディアンが党首候補4人の発言を並べていて、「いよいよ」感が高まっている。

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この4人の中で注目を集めているのが、ジェレミー・コービンだ。ネット上の日本語圏でも、英国政治なんかよく知らないであろう人まで語っちゃってるっぽくて、いろいろとものすごい。

コービンは「筋金入りの左翼」だ。そして党首候補としての彼の労働党内での人気は、死に絶えたと思われた「オールド・レイバー」(トニー・ブレアの「ニュー・レイバー」が叩き潰してゴミ箱に入れた労働党)が、単に「生き残りがいる」だけでなく「実は死んでなかった」ということを示すものだと私は思う。トニー・ベンが生きていたらめっちゃ面白かっただろうに、残念だ。(実際、ケン・ローチとか、めっちゃ面白い。ほかにも、「ブレアのおかげで労働党辞めたけど、コービンのために戻る」という言葉はけっこうよく見かけている。)

何せ、モーニング・スターがこれだから(笑)。(「デイリー・スター」じゃないっすよ。モーニング・スターは社会主義者のメディア)




コービンは1983年以降ずっと、ロンドン北部のイズリントン・ノース(有権者数6万人台)の議席を保持している。「北ロンドンは赤い North London is red」というのはサッカーでの常識であり前提だが(ええ、常識です)、政治的にも北ロンドンは赤い。というか、西ロンドンから東ロンドンにかけて、ロンドンは基本的に赤くて、青いのは郊外部のお金持ちエリアと、中心部のシティ&ウエストミンスターといくつかのチェルサポ地域くらいだ(詳細はロンドン市内の選挙区選出議員と次点の一覧を参照)。

下記のマップは今年、2015年の選挙結果のもので、黄色のLDがほぼ完全に溶けてしまっているが、この選挙まではLDはロンドンに7議席を持っていた(それらのうち3議席は労働党、3議席は保守党に行き、残ったのは1議席)。

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30年以上にわたってずっと議席を保持しているということで、どんだけ高齢なのかと思うかもしれないが、1949年生まれの66歳である。日本の感覚では政治家としては「まだ若い」とさえ言えるかもしれない。

「ジェレミー・コービンとはどんな人か」については、デイリー・ミラーの記事がとても把握しやすいのではと思う。使われている写真が2003年のイラク戦争反対デモのときのものと、2003年だっけ、2004年だっけ、とにかくそのころのアハメド・ザカーエフ(チェチェン)の英国亡命(政治的庇護申請)の支援運動のときのもの(ヴァネッサ・レッドグレイヴと一緒)。そして1984年に反アパルトヘイトのデモに参加せよと呼びかけるプラカードを首から提げた状態で警官にむんずとつかまれて連行されている写真(最近の労働党の政治家には、この運動に参加してた人はほかにもいる。例えば、もう引退したが、ピーター・ヘインがそうだ)、など。

保守党が「極左」呼ばわりしていたこともわかる。

というか現に保守党が忌み嫌っているものを含め、いくつもの人権・反戦系の運動運動に主体的に関わってきた人だ。

A member of the Socialist Campaign Group, the Palestinian Solidarity Campaign, Amnesty International, the Campaign for Nuclear Disarmament and the Stop the War Coalition
https://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Corbyn







私がこの人について知ったのは何がきっかけだったか、記憶にない。が、インターネットを使うようになってからある「歴史上の出来事」について見たときに「あ、イズリントンのあの議員だ」と思ったので、ネットを使う前になぜか認識していたのだと思う。

その「歴史上の出来事」とはこれである。

He is also a committed supporter of a United Ireland. Corbyn took on significant criticism when he and Ken Livingstone invited Sinn Féin leader Gerry Adams to speak in London in 1984.

http://www.politics.co.uk/reference/jeremy-corbyn


これについては保守党系の言論誌、Spectatorの7月21日記事を参照。当時の写真(変わったネクタイ……何か言われのあるものかもしれないけど)も、アンドルー・ニール(保守党系のジャーナリスト)によるコービンに対するインタビューもある。いかにも80年代の、「テロリストはテロリストです」調で味わい深い。こっからの路線転換を実現させたのは何だったのか、振り返りたくなるほど味わい深いが、今はそんなことをするよりコービンだ。

つい10日ほど前にコービンは北アイルランドに行って(「北アイルランド、夏の大文化祭」みたいなイベントでのパネル・ディスカッション出席)、誰にでも予想のつくような発言をしているということ(&IRAのテロを非難しなかったこと)でベルファスト・テレグラフの記事になっているのだが、その前の7月にシン・フェインの人たちがロンドンに行ったときに……




……言われなければジェレミー・コービンがいるとは思わないほど、目立たない。アダムズがいかに他を圧倒して勝手にオーラを放っているかがよくわかって実に興味深い写真である。

と、どうしても話がずれてしまうのでいったん切ろう。

そうそう、デイリー・ミラーはアンディ・バーナム支持。穏当な判断だと思う。著名人では、俳優・コメディアンのスティーヴ・クーガンがバーナム支持だ。




ブラウン政権で文化・メディア・スポーツ大臣をつとめたバーナムは、本人は熱狂的なエヴァトン・サポだが(下記参照。前回、2010年の党首選のときの発言)、リヴァプールFCのサポーター96人が亡くなり、警察が一切の過失を認めず「自己責任(自業自得)」と言い募った1989年4月の群集事故、「ヒルズバラの悲劇」の真相究明(最終的に警察の過失が認められた)の実現において、非常に大きな役割を果たした。秘匿されてきた警察の資料の全面開示が決定されたときの下院でのスピーチ(2011年10月)は、ネットで中継で聞いていて涙が出てくるようなすばらしいスピーチだった(Twitterでは同じように聞いていた人たちが同じように心を揺り動かされている言葉がたくさん流れてきていた)。




ガーディアンはイヴェット・クーパー支持。




ひとまずここまで。

※この記事は

2015年08月17日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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なお、ここに貼ってあったZenbackは2015年2月19日にコードを外しました。今後は検討中です。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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