国際報道2015

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[BS1]月曜〜金曜 午後10時00分〜10時50分

特集

2015年3月4日(水)

埋もれた激戦「マニラ市街戦」 70年後の語り継ぎ

太平洋戦争末期の1945年2月、フィリピンの首都マニラで日米両軍による激しい戦闘が繰り広げられた。フィリピン市民10万人が犠牲になったとされる「マニラ市街戦」だ。あまりの凄惨さにこれまで口を開く人は少なく、現地でも広く知られてこなかったが、戦後70年のことし、当時の記憶を後世に伝えようとする動きが出てきた。フィリピン大学のリカルド・ホセ教授は公文書の分析や体験者の聞き取りをもとに、各地で講演会を実施。一方、日本でもNGOが元日本兵への聞き取りを続けていて証言記録の上映会などが行われている。知られざる悲劇を未来に伝えようとする日比両国の人々の思いを伝える。
出演:石山健吉(マニラ支局長)
   中村万里子(国際部記者)

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有馬
「今年(2015年)は戦後70年。
8月15日をはじめ、さまざまな節目の日が意識される年です。」

徳住
「昨日、3月3日もその1つです。
フィリピンの首都マニラで、アメリカ軍と旧日本軍が1か月にわたって激しい戦闘を繰り広げた『マニラ市街戦』が終結した日でした。
10万人の市民の命が奪われたとされていますが、その凄惨(せいさん)さゆえ体験者は多くを語らず、日本でも広くは伝えられてきませんでした。」

有馬
「戦争の体験者が少なくなる今、フィリピンと日本で歴史を見つめ直す取り組みが進んでいます。」

マニラ市街戦 次世代に記憶を

先月(2月)、フィリピンの首都マニラで行われた追悼式典。
70年前の市街戦で犠牲となった人たちを悼みました。

遺族団体 代表
「私は母と親族13人をなくした。
日本人は自分たちが何をしたのか認めてほしい。」


太平洋戦争末期の1945年2月、日本が占領していたマニラを奪還するため、アメリカ軍の攻撃が始まりました。
「マニラ市街戦」です。
市の中心部が戦場と化し、およそ1か月もの間、銃撃戦と砲撃にさらされ、およそ10万人もの市民が犠牲になったとされています。



フィリピンの歴史学者、リカルド・ホセ教授です。
子どものころ、祖母や親族から戦争体験を聞いて育ちました。
なぜ、多くの市民の命が奪われたのか。
その実態を明らかにしたいと研究を続けてきました。

歴史学者 リカルド・ホセ教授
「戦争の実態を理解し記録していきたい。
そうすれば記憶を風化させず、未来の世代にこの地で起きた戦争の実態を伝えられる。」

戦争の体験者を訪ね歩き、証言を聞き取ってきたホセ教授。
この日、8歳の時に市街戦に巻き込まれたという男性を訪ねました。
市街戦が始まって1週間ほどたった時、男性は、ある事件を目撃していました。
旧日本軍が大学の構内に住民を集め、多くを殺害したというのです。

マニラ市街戦 体験者
「電灯が黒いカーテンに覆われた部屋に連れてこられた。
そこに兵士がやってきて手りゅう弾を投げ、機関銃を撃った。」

アメリカ軍に追い詰められる中、旧日本軍による民間人の殺害が相次いでいたとホセ教授は指摘しています。

歴史学者 リカルド・ホセ教授
「日本兵はゲリラの襲撃や、アメリカ軍に居場所を告げられることを恐れたのだろう。
だから、フィリピン人を殺したのだ。」

40年近く研究を続けてきたホセ教授。
日本語も学び、当時の日本軍やアメリカ軍の記録を集めて分析してきました。
掘り起こした資料から明らかになったのは、アメリカ軍による市街地での激しい砲撃でした。
自国の兵士の犠牲を抑えるため、接近戦の前に砲撃を繰り返していたアメリカ軍。
これが市民の犠牲が拡大したもう1つの大きな要因だとホセ教授は考えています。
長年にわたるホセ教授の研究。
集めた証言や資料から浮かび上がってきたのは、日米両軍の長引く消耗戦に多くの市民が巻き込まれた実態でした。

戦後70年となる今年(2015年)、ホセ教授が力を注いでいるのが、若い世代との対話です。
学生たちのほとんどは、マニラ市街戦について多くを知らないと言います。

歴史学者 リカルド・ホセ教授
「6歳の子どもは母親にかばわれて生き残ることができたが、母親は日本兵に銃剣を向けられ即死だった。」


学生
「私たちが次の世代へと記憶を引き継ぐことで、社会全体の記憶となり、過去に起きた過ちを避けることができる。」





歴史学者 リカルド・ホセ教授
「私は日本、フィリピン、アメリカそれぞれの立場を理解しようとしている。
理解できれば、なぜ人々があのような行動を取ったのか気付くはずだ。
70年経った今こそ過去の過ちを知り、二度と繰り返してはならない。」




徳住
「フィリピンでの戦争の記憶を引き継ごうという取り組み。
日本でも今、若い世代によって始まっています。」


マニラ市街戦 若者たちは

フィリピンでの戦争を記録する活動に、10年以上にわたって取り組んできたNPOの代表、神直子(じん・なおこ)さんです。
戦争を経験した世代が少なくなる今、一刻も早く証言を集めなければ記憶が永久に失われてしまうと考え、全国の元日本兵を訪ねています。
この日、フィリピンに兵たん部隊として送られたという93歳の男性を訪ねました。
男性の部隊は、マニラ市街戦の直前、アメリカ軍の猛攻にあって多くの仲間を失い、山中に撤退しました。

NPO代表 神直子さん
「戦争のことを思い出すことは?」

元日本兵 伊藤猛さん(93)
「戦争というと非常識なこと。
今から思うと考えられないようなばかげたことを、へっちゃらでやるようなことになる。
(集落の家に入って)“泥棒し放題”という感じ。
何か食うものはないかと探す。
ああいう心理状態になるんだなと思って。」

NPO代表 神直子さん
「『戦争反対』と声高に叫ばなくても、『戦争はいやだ』ということに尽きると思う。
同じ体験をしたくない、させたくないという気持ちを受け止め、できることを考えていきたい。」




神さんが活動を始めたきっかけは、15年前。
大学の勉強の一環で、フィリピンの人たちの戦争体験を聞くために現地を訪れたことでした。
ところが、現地の人たちから浴びせられたのは、思いもよらない言葉でした。

“日本人なんて見たくなかった。
なんで来たんだ。”


憎しみを抱えて生きてきた遺族の言葉に、衝撃を受けた神さん。
あの時いったい何があったのか。
元日本兵260人以上に話を聞きました。

元日本兵証言
「軍命でやったと言っても、軍命で殺人したと言っても私は『実行犯』だった。」

元日本兵証言
「2度とあってはならない事だ。
代が変わってもそういう話には乗らないでほしい。」

神さんの取り組みには、フィリピンの人たちからも信頼の言葉が寄せられるようになっていったと言います。

フィリピン人証言
「彼らは心の傷を話す事ができたんですね。」

フィリピン人証言
「私は、彼らを赦したいと思います。」

平和が当たり前という時代に生まれた神さん。
今年8月、若者が平和について見つめ直すイベントを開催しようと考えています。
自分と同じ世代の人たちに戦後70年の歩みをもっと知ってもらおうというのです。

NPO代表 神直子さん
「戦後世代はもう平和な時代が当たり前の世代が増えてきたと思うが、当たり前が、戦争になると一気に崩れることを戦争体験者の方たちから教えて頂いた。
改めて、心に刻む年にしたい。」





フィリピン人の思いは

徳住
「ここからは、マニラ支局の石山支局長に聞きます。
本当に多くの市民の方が犠牲になったフィリピンですけれども、フィリピンの人たちは今、日本に対してどのような思いを持っていらっしゃるんでしょうか?」

石山支局長
「今回、私、取材でマニラ市街戦の生存者、あるいは遺族の方々に多く話を聞いたんですけれども、印象に残っていますのは、戦後70年がたった今も、その苦しみ、悲しみというのは深く記憶に刻まれたまま、まったく消えていないということです。
中には、目の前で両親を殺されるなど、極めてせい惨な経験をした人もいまして、そうした人たちは、今でもその話はしたくないと口を閉ざしていました。
その一方で、戦後、日本との国交が回復し、日本人と交流を重ねる中で、かつて抱いていた憎しみというのが和らいで、許せるようになったという人もいました。
フィリピンというのは、戦時中、日本・アメリカ双方の戦略的な要衝という場所にあったがために戦場と化して、その結果として、多くの罪のない人が犠牲になったわけです。
その体験をした人たちが口をそろえて言いますのは、今一度、その歴史を思い起こしてほしいと。
そして、そのような苦しい悲惨な歴史を二度と繰り返さないように、教訓を学び取ってもらいたいということでした。」


次世代どう向き合う

有馬
「歴史から学んでほしいと、その思いに応えるように今、日本とフィリピン双方で次の世代に伝え継ごうという取り組みが始まっていると。
意義深いですよね?」

石山支局長
「そうですね。
VTRの中でも紹介しましたけれども、ホセ教授が指摘していましたのは、戦後70年の今年こそ戦争の記憶を紡ぐ上では極めて重要な年だということでした。
と言いますのも、戦争を知る世代がますます少なくなっているわけですが、その記憶が、戦争を知らない世代にきちんと広くは伝えられてきていないのではないかと感じているからなんです。

かといって私たち戦争を知らない世代が、戦争そのもの、あるいは過去・歴史に向き合うことに対して無関心であるというわけではないと思います。
事実、私も今回、若い人たちに取材をしましたし、先生の授業も見させていただきましたけれども、その中で、きっかけさえあればそこから何かを学び取ろう、感じ取ろうとする生徒は多くいました。
ただ、そのきっかけが少ないということなんです。
このため今フィリピンでは、そのマニラ市街戦の記憶を語り継ごうと、例えば映画の上映会ですとか、あるいは展示会、そして戦争の体験者の話を聞く講演会というのが各地で開かれているんです。
今回、取材を通して非常に印象に残ったのは、各地で今も戦争が行われていると、ただ、その悲惨な歴史は二度と繰り返してほしくないという生存者たち、体験者たちの強い言葉でした。
そのためには、その教訓・事実・歴史というものをどんどん紡いでいく、次々に語り継いでいくということが何よりも重要だということなんです。
戦争を知らない世代がほとんどになってしまった今こそ、そのことを強く意識していかなければならないのだと感じました。」

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