先月(2月)、フィリピンの首都マニラで行われた追悼式典。
70年前の市街戦で犠牲となった人たちを悼みました。
遺族団体 代表
「私は母と親族13人をなくした。
日本人は自分たちが何をしたのか認めてほしい。」
太平洋戦争末期の1945年2月、日本が占領していたマニラを奪還するため、アメリカ軍の攻撃が始まりました。
「マニラ市街戦」です。
市の中心部が戦場と化し、およそ1か月もの間、銃撃戦と砲撃にさらされ、およそ10万人もの市民が犠牲になったとされています。
フィリピンの歴史学者、リカルド・ホセ教授です。
子どものころ、祖母や親族から戦争体験を聞いて育ちました。
なぜ、多くの市民の命が奪われたのか。
その実態を明らかにしたいと研究を続けてきました。
歴史学者 リカルド・ホセ教授
「戦争の実態を理解し記録していきたい。
そうすれば記憶を風化させず、未来の世代にこの地で起きた戦争の実態を伝えられる。」
戦争の体験者を訪ね歩き、証言を聞き取ってきたホセ教授。
この日、8歳の時に市街戦に巻き込まれたという男性を訪ねました。
市街戦が始まって1週間ほどたった時、男性は、ある事件を目撃していました。
旧日本軍が大学の構内に住民を集め、多くを殺害したというのです。
マニラ市街戦 体験者
「電灯が黒いカーテンに覆われた部屋に連れてこられた。
そこに兵士がやってきて手りゅう弾を投げ、機関銃を撃った。」
アメリカ軍に追い詰められる中、旧日本軍による民間人の殺害が相次いでいたとホセ教授は指摘しています。
歴史学者 リカルド・ホセ教授
「日本兵はゲリラの襲撃や、アメリカ軍に居場所を告げられることを恐れたのだろう。
だから、フィリピン人を殺したのだ。」
40年近く研究を続けてきたホセ教授。
日本語も学び、当時の日本軍やアメリカ軍の記録を集めて分析してきました。
掘り起こした資料から明らかになったのは、アメリカ軍による市街地での激しい砲撃でした。
自国の兵士の犠牲を抑えるため、接近戦の前に砲撃を繰り返していたアメリカ軍。
これが市民の犠牲が拡大したもう1つの大きな要因だとホセ教授は考えています。
長年にわたるホセ教授の研究。
集めた証言や資料から浮かび上がってきたのは、日米両軍の長引く消耗戦に多くの市民が巻き込まれた実態でした。
戦後70年となる今年(2015年)、ホセ教授が力を注いでいるのが、若い世代との対話です。
学生たちのほとんどは、マニラ市街戦について多くを知らないと言います。
歴史学者 リカルド・ホセ教授
「6歳の子どもは母親にかばわれて生き残ることができたが、母親は日本兵に銃剣を向けられ即死だった。」
学生
「私たちが次の世代へと記憶を引き継ぐことで、社会全体の記憶となり、過去に起きた過ちを避けることができる。」
歴史学者 リカルド・ホセ教授
「私は日本、フィリピン、アメリカそれぞれの立場を理解しようとしている。
理解できれば、なぜ人々があのような行動を取ったのか気付くはずだ。
70年経った今こそ過去の過ちを知り、二度と繰り返してはならない。」
徳住
「フィリピンでの戦争の記憶を引き継ごうという取り組み。
日本でも今、若い世代によって始まっています。」