東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

美化された銃後の守り 「愛国」の母、本音語れず 戦時下の本紙靖国連載

両親の遺影を前に当時を振り返る宮本忠昌さん=東京都文京区大塚で(佐藤哲紀撮影)

写真

 太平洋戦争下、東京新聞は戦死者の遺族の姿を描く連載をした。「靖国の子 靖国の妻」(4回目から「誉れの子 誉れの妻」)。悲しみよりも銃後の守りを固める喜びにあふれ、新聞が戦意高揚の旗を振った歴史が浮かぶ。戦後70年、連載の登場人物はこれを読み何を思うのだろう。足取りを追ううちに、当時12歳だった男性に会えた。 (松尾博史)

 記事は、靖国神社に戦死者をまつる「招魂の儀」の時期に合わせ、一九四三(昭和十八)年十月から翌月にかけ二十二回にわたり掲載された。

 初回の前文には「私たちは護国の礎(いしずえ)として散った英霊とその遺族であられるあなた方に無限の感謝を捧(ささ)げる」とある。各回に記載された戦死者名と住所、家族名を手掛かりに、本紙記者が手分けして遺族を探した。空襲で焼けた地域が多く歳月もたっているため、会えたのは、東京都文京区大塚の宮本忠昌(ただまさ)さん(84)だけだった。

 住所は当時と同じ場所だった。三十五歳の記者が八月上旬に訪問。「新聞社の一員として、戦意をあおるような記事で迷惑をかけたことを反省したい」と取材の趣旨を伝えると、忠昌さんは「当時はみんながそうだった」と穏やかに話した。

 四三年十一月四日に掲載された記事は、忠昌さんの父・正さんが三八(昭和十三)年に三十一歳で中国で戦死した後、母セツさん=掲載時(33)=が、忠昌さん=同(12)=、妹の礼子さん=同(10)=を育てる姿を紹介している。

 見出しは「淋(さび)しさ知らぬ団欒(だんらん)/夫がきめたミシンは“天職”」。戦地に赴く前のある日、夫が「“ミシンを習ってはどうだね”とだし抜けにいった」のがきっかけで、セツさんは洋裁の仕事を始めた。軍服も縫った。セツさんがミシンを踏む横で忠昌さんが模型飛行機で遊ぶ描写には、こんな記述が。「忠昌君は“お母さん、僕を少年飛行兵にしてください”と思い詰めたように…」

 記事のコピーを読んだ忠昌さんは「お国のために戦争に行く。そうしないと非国民だと指導された。怖いことだ」とつぶやいた。

 記事では、少年飛行兵への志願を訴える忠昌さんをセツさんが「せめて義務教育は済ませましょう。それからでも遅れませんからね」となだめる。愛国者にして教育熱心な母親の姿が浮かぶ。

 だが、事実は違った。忠昌さんが国民学校を卒業するときに陸軍幼年学校へ行きたいと言ったら猛反対された。「教育を受けさせる、というよりも母は子どもを戦争に出したくなかった。記事ではなかなか言えないことがあった。マスコミも利用されていた」

 

この記事を印刷する

PR情報