2014年7月の閣議決定から1年が過ぎ、その合憲性に関して多くの議論が交わされてきた安全保障法案。政府は集団的自衛権行使の要件について、あくまで憲法9条の許容範囲内と主張し、前文の「平和的生存権」、13条の「生命・自由・幸福追求の権利」にも言及した。国民の人権が武力行使の根拠とされることの問題点について、武蔵野美術大学の志田陽子教授が指摘する。
11本の法案とそれぞれの憲法問題
――今国会における安全保障法制案については、さまざまな論点があり、議論を整理するだけで大変です。
まったくその通りです。2015年5月に国会に提出された安全保障関連法案は、10本の法(改正)案を含む「平和安全法制整備法案」と、新しく創設される「国際平和支援法案」の合計11本の法案を内容としています。
今必要なことは、主権者である市民に判断材料を提供するために、何がしかの知識を持っている学究者たちが、それぞれの立場から話を整理して伝えることだと思います。私も、多岐にわたる問題点のうちのごく一部を取り上げて整理させていただこうと思います。
まず今回の法制案の大まかな骨組みをいうと、1951年以来、日米安全保障条約が対象としてきた《日本の自衛と米軍との関係》という問題系と、1992年以来、国連PKOへの協力として行われてきた《国際平和への貢献》という問題系があります。
2015年8月現在審議の対象となっている安全保障関連法案(以下「法案」といいます)は、このすべての問題系で、自衛隊および日本国全体の軍事的協力のあり方を変更するものとなっています。(図1)
図1
これまで日米安保条約では、「有事」は「日本有事」と「極東有事」の二つの線でとらえられてきました(日本国民向けに自衛隊の必要性と合憲性を説明するさいにはもっぱら「日本有事」が強調されてきましたが)。今回の法案では、これを①日本有事、②日本と密接な関係にある他国と共通の有事、の二つに編成しなおしています。これがこれまでの論理と同じ線上で成り立つ再編成なのか、まったく異なる筋のものを導入した無理な制度改変なのか、が問題になっているわけです。
日本の「個別的自衛権」が発動される日本有事については、事態が深刻度によって、「武力攻撃発生事態」、「武力攻撃切迫事態」、「武力攻撃予測事態」に分けられ、武力攻撃発生事態では防衛出動と武力行使が行われます。これらについては「武力攻撃事態対処法」、「自衛隊法」の改正が提案されています。
次に他国との「集団的自衛」が具体化された場面では、事態の深刻度によって、日本と密接な関係にある他国への武力攻撃により日本国民の生命や自由が脅かされる「存立危機事態」、周辺事態の概念を廃止し新たに採用する「重要影響事態」に分けられています。 「存立危機事態」では防衛出動と武力行使が可能となり、「重要影響事態」では他国軍後方支援が行われることとなっています。
この「重要影響事態」は、これまで「周辺事態」と呼ばれているものですが、ここから地理的制約が取り払われました(政府の説明では、これまでの「周辺事態」もすでに地理的な概念ではなかったので、より誤解のない表現に改まったとのことです)。これらは「重要影響事態安全確保法」、「米軍等行動関連措置法」、「海上輸送規制法」、「国家安全保障会議設置法」といった法(改正)案が関わることになります。
さらに、「有事」とまでは言えないけれども、外国の武装集団の離島への上陸や外国軍艦の領海侵入など、警察や海上保安庁で対処しきれない「グレーゾーン事態」も想定され、自衛隊が後方支援活動を行う方針となっています。今回の政府法案にはこれは法案化されず、電話による閣議決定で自衛隊の行動を認める方針が説明されましたが、法律ルールがないことで行政権の独断に陥ることが懸念されています。野党からは領域警備に関する法案が提出されていましたが、衆議院で否決されました。
これらの後方支援では、米軍以外の外国軍(具体的にはオーストラリア軍)も支援する方針になっています。
これらのうち図の②と③の局面で、米軍等と自衛隊が軍事的に協働・共働することが「集団的自衛権」の行使です。今回の法案では、これを認めることそのものが最も大きな憲法問題です。多くの人が「入り口論」と言っているのがここのところです。私自身は「入り口論で議論が止まっている」という言い方は正確ではなく、法制度と憲法の関係は、建物と土台の関係に当たるというイメージでとらえてほしいと思います。
建物の1階部分でさえ、土台(根拠)は憲法外のところにあり、文言上は無理があるところを、国際的に認められてきたルールと道理に基づいて憲法が黙認できるかどうか議論されてきました。そこへ、「ここから先は違憲」と政府自身が認めてきたところに張り出す形で二階を増築することが提案されているわけです。これに対して、もしもそういう増築をしたいならば「土台を変更していいかどうか」について国民が判断をする憲法改正の手続を経るべきではないか、という話にもなるわけです。(図2)
図2「安全保障法制と憲法の関係」
そして次に、建てようとしている建物の案に立ち入ってみたとき、武力行使を行うとされる「存立危機事態」、「弾薬」提供を含む後方支援を行うとされる「重要影響事態」、法案でルール化されないことでかえって行政権の独断にならないか懸念されている「グレーゾーン事態」、そして新しく創設される「国際平和支援法案」で規定されている活動(とくに治安活動と武器使用ルールの緩和と「弾薬」提供の解禁)のそれぞれについて、それぞれの憲法問題があって、今、激しく議論されているわけです。
自衛隊は「軍隊」か?――「武力」「戦力」「実力」
――現在の安全保障法制案の中で、憲法問題となるのはもっぱら「集団的自衛権」の問題だ、ということですか。
そういう見解もあります。私自身はそうは考えていないのですが。①の「個別的自衛権」もそれ自体の憲法問題性をはらんでいます。従来の政府見解は、《①だけは憲法を超えた主権国家としての固有の権利(一種の正当防衛)として認められ、憲法もこれを禁止してはいないはずだが、②はその論理を超えるものなので認められない》という趣旨のものでした。
これに対して、昨年7月の閣議決定で《憲法は①の固有の権利を守るためならば②も許容している》という解釈変更が行われ、これを具体化するための法案が今年の国会で審議されているわけです。少なくとも、これがあまりにも重大な変更であるために、そのことが議論の中心となっています。
しかし「①の個別的自衛権は合憲だ」という解釈が日本国において共有され定着したと見ることができるかどうかは別問題です。これについては、憲法研究者の間でも見解が分かれています。私自身は、民主プロセスにおいても司法においても情報を共有し精査した上でクリアしなければならない問題がたくさん、手つかずのままうやむやになっていると感じます。
司法によるコントロールは1950年代から60年代にかけて封じられ、民主的コントロールもこの数年で大きく後退させられています。この状況の中で、国民のコンセンサスが確立したとは言い難い、つまり、建物の1階の下にある土台は、泥地のようなものだと思います。しかし、この問題について、現在の日本の自衛隊を丸ごと指して「違憲か、合憲か」と問うのは、問い方が粗すぎます。災害救助のように合憲の部分と、戦闘型軍事と見るしかない部分とが、同じ組織の中に混在しているからです。
私は、まずは同じ自衛手段の中でも戦闘型軍事とは異なる純粋な「専守」といえる手段と、「専守」の名はついていても戦闘型の軍事というべきものを分けるべきだと思います。前者は、外交的努力や情報収集や自国内で出た被害者の救助、国民への避難支援と救護、シェルターの確保、日本領土内に持ち込まれた危険物や化学物質の無害化処理などのことです。これらは原則として合憲です。他方、後者については、原則として違憲、つまり厳格な違憲の疑いをもって、前者の手段ではどうしても回避できないことの説明責任が個々具体的に政府に課されるべきでしょう。
政府見解では、1954年の自衛隊創設以来、戦闘型軍事にあたるものでも、自衛のための反撃とその装備は「武力・戦力」とは異なる「実力」だから合憲だ、と説明してきました。が、2003年制定の「武力攻撃事態法」とこれを受けて改正された自衛隊法で、自衛隊は「武力を行使する」という言葉が定められましたので、「必要なときには武力そのものを行使するが、それは合憲だ」という論理に代わったと見ることができます。
「武力の行使」を禁じている憲法のもとで「武力を行使する」と言っている法律が存在するのですから、百歩譲っても原則違憲である(違憲性が推定される)ところを、個々具体的に正当防衛の論理に準じる正当事由が証明されてはじめて合憲と認められる、と考える以外にはないと思います。少なくとも、「自衛隊は国際的には軍隊とみなされる」ということを認めた今年4月の閣議決定を機に、自衛隊が行使・保有するのは武力・戦力とは異なる「実力」だから合憲だ、という説明の無理は、きちんとリセットして、その軍事性を直視した議論をすべきでしょう。
そして、残念ながら現時点の私たちの技術力ではどうしても非戦闘的な手段では対処できない事態がある場合、これに対して戦闘型の手段と実行ルールを備えておくことは現時点では致し方ない、と認めるとしても、それは「致し方ないからいいのだ」「いいのだから合憲だ」ではなく、「現在の私たちにはまだ憲法の要請に見合う実力がない」「この状態は違憲だから、一歩ずつでもこの矛盾状態を解消するべく努力しなくてはならない」という論理をとるべきでしょう。
つまり、百歩譲って「今は致し方ない」ということを認めるのであれば、それと同時に、非戦闘型の手段を開拓する「不断の努力」(憲法12条)の具体的義務と、その手段の進展に合せて後者の戦闘的軍事を縮減する義務を負っていると考えるべきです。この考えを確認・共有できない中で、戦闘型軍事に頼る方向になし崩し的に道を開け、「仕方ない、だから合憲だ」と言うことはできないと思います。
抽象的な「国民」には解消できない人命リスク
――今提案されている集団的自衛権行使ルールの内容の憲法適合性については。
現在提案されている安全保障法案のセットは、憲法違反となる内容だと思います。これについて取り上げるべき論点はたくさんあり、多くの研究者がすでにいろいろなところで論じています。私はここでは、その中のごく一断面の話として、法案の根拠として国民の人権――「平和的生存権」と「生命権」と「幸福追求権」――が挙げられ、国会答弁でも何度も繰り返されていることの問題を取り上げたいと思います。
私は、「集団的自衛権はいかなる内容もすべて違憲」という立場ではなく、個別的自衛権も集団的自衛権も、その軍事的要素については最も強い違憲の疑いをもってその正当性・必要性・他の手段の不存在、用いられる手段・装備が過剰でないこと、などを見なければいけない、という考えを持っています。
まだ憲法論にはならずサイエンス・フィクションの話だとは思いますが、人類が純粋な非戦闘型の専守防衛を実現できるような技術を手にする日が来て、これを複数の国家で共有する機構を「集団的自衛」と呼ぶような日が来たら、そのような機構に参加し貢献することはこの「疑い」のもとでも違憲とならない可能性がある、と思っています。
しかし、現在の法案の内容は戦闘的軍事そのものですから、巻き込まれる可能性のある人々のリスクの観点から、もっとも強い違憲の疑いをもって見るべきです。違憲の疑い、という言い方はアメリカの憲法訴訟理論からヒントを得ていますが、アメリカでは軍事についてこのような考え方はとられていません。
これは、日本国憲法が9条で武力行使・戦力保持を禁止し、条文全体を見ても軍事に関する権限規定を置いていないことと、前文で平和的生存権を明記していることから、日本型立憲主義のあり方として言えると思います。ここで侵害のリスクにさらされる人権は、国民の生命・生存という最も重要なものであるため、「人権を守るための方策だから政府を信頼せよ」という説明が通る領域ではないのです。
もっとも、最高裁は自衛隊や日米安保条約や米軍基地について、このような厳しい違憲の疑いをもって審査をする姿勢を見せたことはなく、《一見きわめて明白に違憲》でないかぎりは憲法判断そのものをしない、という姿勢をとっています。しかし今回の法案に限っては、そのようにかぎりなく立法者に甘い姿勢で内容を見たとしても、それでも違憲となるのではないだろうか…、とも思うのですが…。
国会の答弁では、国民の「平和的生存権」と「生命・自由・幸福追求の権利」を守るための方策として提案されている法案が、同じ「平和的生存権」と「生命・自由・幸福追求の権利」を侵害する可能性を濃厚に持つという反論を受けています。あるいは、「この法案は国民の権利を侵害する可能性が高い」という指摘に対して、「この法案はまさにその権利を守るために必要な法案なのです」という応答が返されて、議論は拮抗してしまいます。
ここでは、抽象的・集合的「国民」の権利としては、それらの権利は拮抗し、相殺し合うことになり、法案の賛否どちらの側にとっても決定的な根拠とはならないように見えます。相殺したあとに残るのは自衛隊員や基地周辺住民など、具体的な諸個人の権利としての「平和的生存権」と「幸福追求権」の問題です。
だから、抽象的・集合的な「国民」の権利を守るという名目のもとに、具体的な諸個人の権利を剥奪することは、正当化されないことになります。これについては、抽象的な「国民」の人権を目的に掲げさえすれば、そこでとる手段が結果的に具体的な人権侵害を引き起こす可能性については、「考慮済み」として通過してよい、ということにはならないはずです。が、そこに誤解があるのではないか…、ということがまず問題です。
「平和的生存権」を前文で保障し、「生命…の権利」を13条で保障している日本国憲法のもとでは、結果的に起きる具体的な権利侵害として、巻き添えによる人命被害を出すことは絶対に回避すべきことです。とくに憲法前文の「平和的生存権」は、自国民の権利としてだけでなく、「全世界の国民」の権利として宣言されています。【次ページにつづく】