戦争
敗北するように、日本は明治維新のときから仕組まれていた
「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭
2007年の書である。
鬼塚氏の書を読んだのは久々である。いつものように他作家の書を数多く引用しながら独自の見解を進めていくという得意の手法がとられている。
本書の主題は、終戦発表直前の1945年8月15日の宮城事件が偽装クーデターであったことの立証である。映画にもなった「日本のいちばん長い日」は、「日本のいちばん醜い日」だったとの主張を展開されている。以下、一部引用する。
*偽装クーデター計画を真実に近いクーデターにすべく、三笠宮は木戸と、そしてあえて書かざるをえないが天皇と協議した。天皇と木戸が納得した。どうしてか。事件を起こし、阿南と田中の自殺と森の惨殺で、御聖断に反逆する軍人たちを迎えうると計算したのである。不敬であろうとなかろうと、私は真実を追究したい。もし不敬と思う人がいるならば、私の説を論破し、しかる後に私の不敬を論ずればよかろう。
バーガミニは、偽装クーデターが、できるだけ現実的に見せかけなければならない理由まで追求している。彼の意見に心を開かれよ。
しかしながら今やそのクーデターは、できるかぎり現実的に見せかけなければならないが、もはや戦争を長びかせる真の努力をめざすものではない、擬(まが)いもののそれでなければならなかったのだ。すべては外側の観察者、特にアメリカ人に、神聖な天皇は日本軍国主義の首魁であるよりはむしろ犠牲者であったのだということを、信じこませるゼスチュアであった。午後の忙しい会議、裕仁の侍従武官長の警戒せよとの言葉、裕仁自身の吹上御苑での散歩~すべてがこの最後のゼスチュアの必要を伝える腹芸として仕組まれたのである。
*私はこの劇場を説明する前に、一つだけ、単純な疑問を投げかけて、読者の心に問わねばならない。それは次のようなものだ。
あなたは8月14日から15日にかけてのあの宮中事件で、近衛師団の誰ひとりとして知らない一陸軍少佐が、「軍中央を見限って、“少数精鋭”によるクーデターという暴発に向かって奮闘を続ける」ことができたと思いますか。
この問いを発しないまま、日本現代史の本は8.15宮城事件をなんらの疑問も呈さず語り継ぐのである。その典型的な例が半藤一利の「日本のいちばん長い日」である。少しだけ懐疑的なのが角田房子の「一死、大罪を謝す」である。後はほとんんど半藤一利よりである。
このような単純な疑問を心の中に発しないからこそ、半藤本、あるいは秦本のようなものが、あたかも真実を伝える書として大手を振ってまかり通っているのではないだろうか。
*私はこの惨殺事件を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である。彼は集団自殺をあおった張本人であったが、自決しなかった。そして「井田手記」を残した。この手記をもとに、「日本のいちばん長い日」他が書かれたことは間違いない。彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵中佐が戦後電通に入社すると、岩田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」となり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。「日本のいちばん長い日」は一面、日本の憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、「この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。これは私の取り越し苦労ではないであろう。
*井田正孝中佐の著書「雄誥(おたけび)」(1982念、西田雅との共著)がある。どうも「日本のいちばん長い日」を中心に、ほとんどの終戦史はこの本や井田が残した「手記」や「談話」に影響されている。
この井田中佐の手記に、吉田鈞は「責任は死よりも重し」の中で反論している。貴重な意見である。
然し乍ら、指揮権のない一少佐や中佐がどうして最古参大佐の芳賀に撤兵措置を命ずることが出来るか、それは不可能な事である。また、正門の司令官室までの乾門から銃前哨に到る5箇所の歩哨線を、どのようにして突破して行ったのか、然も乾門から車で入ったということなのでそれは通常皇族並みではないか。
また、守衛隊司令官や大隊長などの巡察の目をどのように潜り抜けて、椎崎、畑中、井田の3人が会談出来たのか、守衛を経験した近衛兵の実情からは理解出来ない疑問である。なお、指揮権のないものが撤兵を命ずることは出来ない。然も、恰も近衛歩兵第二連隊を宮城占領軍の如くに表現しているが、それは事実に全く反するものである。故意に畑中らの妄想を補強しているにすぎない。軍旗を奉じて守衛隊に指揮に当っている連隊長が、若い少佐や中佐に頤使されるようなことは、日本の軍隊では到底考えられないことである。
*14日午後11時ごろの時点で、阿南は森赳の惨殺事件を知らなかったかもしれない。しかし、15日零時ごろには、森惨殺事件を知っていたことは間違いない。「戦いは放棄された。あとは自分にまかせて欲しい」という若者たちへの阿南の言葉は、次の行動を暗示しているのではなかろうか。陸軍省に残って阿南を待っていた若き将校の期待に応えるべく阿南は「三宅坂の陸相官邸に帰って行った」のではなく、本当の意味での“決着”を三笠宮とつけるべく、三笠宮の住む防空壕に車を向けたのである。
では、どのような話がかわされたのか。私は「『神聖悲劇』が森赳を惨殺した」の項で書いた阿南の自刃直前の言葉の続きを書かねばならない。ノンフィクションの手法を無視して、阿南の死霊をよび出し、その死霊をして私のペンに書かせよう。
~私は森中将が惨殺されたことを知った・・・。若手将校たちの無念の声を聞いた。「戦いは放棄された。あとは俺にまかせて欲しい」と若手将校たちに約束した。なにがなんでもニセモノのクーデターだけはやめさせたかった。
三笠宮がすべてを動かしていた。俺は三宅坂の陸相官邸に向かうように見せかけて、運転手に「三笠宮のところに行け!」と言った。そこに畑中たちがいた。俺は怒鳴った。「どこへ行くのだ。そのピストルは何のために使うのだ・・・」と。それから俺は三笠宮に言った。「詔書の承認を受けるべく枢密院を開くべきだ。法を無視してどうなるのだ。東郷外相も鈴木首相も無視してかまわない、と言っている。平沼枢相の主張が理にかなっている・・・」と言ったんだ。
三笠宮は承知しなかった。問答どころではなかった。三笠宮の妻が電話したのではなかったか。そこに木戸が入ってきた。木戸も三笠宮も法を無視してもかまわないというわけだ。
俺は怒鳴った~「そうか、お前たちは俺たち軍人のせいにして、お前たちが戦争を仕掛けたのではないという神話を創り出すために、こんな汚い芝居を創ったのか・・・」と。
三笠宮は怒りだした。ピストルを手にし、俺を撃とうとした。三笠宮の妻が俺と三笠宮の間に入ってきた。俺は背を向けた。そして三宅坂に帰っていたんだ・・・。
俺は酒を飲み始めた。と銃声が聞こえた。「なんだ、あの銃声は・・・」と思った。
そうか、今頃になって森が殺されたことを知らせようとするのか、なんという姑息な手段なんだ、畑中がピストルで殺したことになったのか、畑中よ椎崎よ古賀よ、お前たちに死ぬな、とあれほどいったのに・・・お前たちは欺されてしまった。
それほどまでに軍人を悪人に仕立てて、平和天皇を演じたいのか・・・よし、天皇が袖を通したシャツを着て、天皇からもらった短刀で我が身を血だらけにしてやるぞ・・・国体護持だけが目的ではなかったのか・・・そこまで軍人たちを悪者にしなければならなかったのか・・・
*この「朝日新聞」に出た二重橋前を描写した文章はとても長い。藤田尚徳はそれを全文掲載している。ここでは一部分のみを記す。
溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙。ああけふ昭和20年8月15日、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との大詔を拝し、大君の存します宮居のほとり、壕端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつ、またかみしめつ、道行く兵隊の姿を見ては胸かきむしられ、「作れ飛行機」の貼紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流し続けた私であった。<略>
泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、寂(せき)として声なき浄域の中に思はず握り締める玉砂利、拳(こぶし)を握って私は「天皇陛下・・・」と叫び、「おゆるし・・・」とまでいって、その後の言葉を続けることが出来なかったのである<略>
新聞各社はおそらく14日夜遅く、終戦の詔書が出るのを知る。それまでは書くことができない。朝刊を昼すぎにするよう指示を受けた。それなのに、どうして、このような記事が正午の玉音放送の直後から出てくるのか、奇々怪々の始まり、始まり、である!
直宮(じきのみや)や天皇族からデータを戴き、あの「天皇家の戦い」を書いた加瀬英明さえ、この記事にはあきれている。「文藝春秋」(2005年2月号)に、「捏造された『宮城前号泣記事』を加瀬英明は書いている。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表2ページだった。当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前に刷りあがって、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達することに決っていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた。捏造だったのである。
*益田勝実は長州の国家老益田弾正(だんじょう)の一族である。彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる「てんのうはん」のことを書いている。続ける。
天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。彼らが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、・・・激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。
わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は、謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。
大室寅之祐は田布施町の生まれ。私は2006年10月、この田布施を訪れた。光市と柳井市に挟まれた寒村の風景がそこにあった。私は知人と大室寅之祐について学びはじめていた。私の手元に知人が作成した一枚の系図がある。簡単に記すと、伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎の門事件」を起こした難波八助(なんばはちすけ)は一族である。また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之祐の生家の近くに岸信介一族の生家もある。この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後の内務大臣安倍源基(げんき)も大室寅之祐の生家の近くである。これは偶然とはいえない何かがあるだろう。
*鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔は田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は上京して小泉又次郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二代の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。
*イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末に活躍した。アーネスト・サトウは天皇になる前の大室寅之祐と会っていた可能性が大である。彼は上司のハリー・パークス公使から日本の政情を調べるよういわれ、鹿児島の苗代川に行く。ここは、慶長3年(1598年)、朝鮮から虜囚として連れてこられた43人の男女が、島平の浜辺に遺棄されたように、維新後、苗代川の住民は、創成期の近代日本のただ中に遺棄された。「東郷茂徳伝記」と同書の「解説」(萩原延壽のぶとし)に、この間の歴史の闇が詳述されている。
いわば270余年のサイクルが廻って、この村のひとびとは、再び島平の浜辺に立ち、今度はあのとき他郷に連れ去られた同胞と同じように、母国の姓名を捨て、その言語を忘れ、その風俗を改めて、あたらしく移住してきた土地に同化しようとする<略>。
東郷茂徳は明治15年(1882)12月10日、朴茂徳としてこの苗代川で生まれた。<略>なお、東郷という姓は鹿児島ではとくにめずらしいものではなく、朴家が「入籍」した東郷家と、提督東郷平八郎の家とは関係がない。
こうして、5歳の時から、朴茂徳は東郷茂徳を名乗るようになった。
私はどうして終戦時の外相、東郷茂徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。
その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。もう一つは、終戦内閣にどうして東郷茂徳が外相として迎えられたのか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷茂徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。
さらにもう一つ、東郷茂徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠蔽する役を東郷茂徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。この財宝隠蔽工作は後述する。
*私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。
どうして「南進論」なのか?私はそれが、日本の進路となるように仕組まれたと書いてきた。日本の運命だった。敗北するように、日本は明治維新のときから仕組まれていた、と書いてきた。エドワード8世がシンプソン夫人と結婚しようとしただけで王位を捨てなければならなかったように、日本の天皇家も知られてはならない“秘めごと”が多すぎた。
私はフランス大使クローデルの本国外務省宛ての至急電報を紹介した。あの電報は、大正天皇の死が迫るなかで、秩父宮を天皇にせんと、宮中の奥深くで策謀があることを伝えている。大正天皇は唯一といっていい味方の原敬首相を暗殺される。そして、牧野伸顕が宮内大臣になると、死に至らしめる政策の渦の中に入れられる。はっきり書こうと思う。私は少しずつ、ある毒薬を飲まされて殺されたと思っている。
宮中某重大事件がその背後にある。秩父宮の天皇工作がかさなったなかで、大正天皇は病気になっていくのである。貞明皇后は長州閥に、少女のときからのスキャンダラスな過去の人生をすべて握られている。山縣有朋を失脚させるために、ヨハンセン・グループの首魁の牧野伸顕と組み、杉浦重剛(じゅうごう)と頭山満(とうやまみつる)をその仲間に入れる。彼らが「南進派」の一味でもあった。
マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」の続きを読んでみよう。
確かに、天皇は通常の外交手段、つまり外務大臣を通じてすべての情報をスターリンに伝えることができた。しかし、天皇はスターリンがソ連のスパイが盗み、秘密の経路を通じて送ってきた情報だけを信用することに気づいていたのである。
日本の官憲はゾルゲの動きをすべて知っていた。そして知らぬふりをしていた。ゾルゲは野坂参三がアメリカに行き、ゾルゲが工作要員をさがしていた頃、モスクワに行った。スターリンは、日本と中国を戦争状態に突入させるべく、日支闘争計画案を国際金融同盟から受けていた。ゾルゲはスターリンから新しい任務を与えられた。フランクフルト新聞の日本特派員になりすましベルリンに行く。そして、ユダヤグループの準備工作で日本にやってくる。ソ連軍の少将待遇である。
野坂参三が日本に送りこんだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳の仕事とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味~天皇一族が日本共産党をつくった~を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。ヨハンセン・グループの首魁牧野伸顕は娘婿の吉田茂を使い、“共産主義の恐怖”を近衛文麿らに吹聴させるのである。
南進論と共産主義恐怖論の根は一つである。スターリンも日本共産党つぶしに一役買っている。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里見という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。
・・・・・(中略)・・・・・
コミンテルン第7回大会が1935年にモスクワで開催された。ゾルゲはモスクワに行っている。野坂参三はアメリカからモスクワに帰り、この大会の日本代表となっている。
この大会で人民戦線テーゼが採択される。ここで中共と国民政府の話し合いが行なわれる。ここで南進策を日本がとるように策を練ったと思われる。ゾルゲは赤軍第四部のウリッキの指揮下にあった。野坂参三がこのウリッキを知らぬはずがない。
ポール・マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」をもう一度引用する。文の中にラルフ・Mが出てくる。マニングが独自に発見したスパイの一人であるが、日本人にはほとんど知られていない。
この日米戦争の開戦前の時期、木戸は近衛を使って(もちろん尾崎経由で)ゾルゲに多量の情報を流していたのだ。昭和天皇はクレムリンに情報ルートを持っていたことになる。木戸はロシア人の心理を知っていた。ソ連では、秘密のルートで届いた情報は何であれ、公式の外交文書より信用したのである。一方、ラルフ・Mもゾルゲと同じく、近衛からの極秘情報をワシントンに送信していた。木戸はクレムリンとホワイトハウスの両方に情報ルートを持っていたのだ。この状況は昭和天皇を喜ばせた。
ポール・マニングは野坂参三の実像を知らない。木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。
多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その死霊から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。
・・・・・(中略)・・・・・
私は、太平洋問題調査会の第6回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。日本の有識者の連中はこの調査会を「欧米の学者や政治家と太平洋の問題を学術的な立場で議論する機関である」と語っているが、彼らは謀略機関の手の内で踊らされていたのである。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。
*8月15日のあの事件と2.26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず、暴力装置を作ってはそれを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って、ともにその暴力装置に加担する一派とその逆の立場の人々である。統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇道派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。
・・・・・(中略)・・・・・
もう一度だけ、笠原和夫の発言を聞いてみよう。日本の分岐点を笠原和夫は書いている。
2.26事件にはそういう背景があったわけでね。今、2.26事件の将校というのは、軍国主義的なものとして見られたりするわけだけども、朴は非常に不愉快ですね。実際、2.26事件で生き残った人たちの話を聞きますと、自分たちが陸軍の主導権をとったならば、絶対にアメリカとは戦争を起こさんだろうと。大陸からは撤兵して満州は自治州にすると。それで太平洋の資源については、一切、こっちから攻めることはない~こういうふうにやったはずだと言ってるんですね。僕はそれを認めていいんじゃないかと思うんですけどね。第一、野戦でもって、あるいは艦隊なら艦隊でもってその第一線で戦っている連中というのは、戦争というのはそんなになまやさしいものではないということはわかっていますからね。
まさに、笠原和夫が語るとおりである。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に究明しようとして私は書いてきた。
*ここに、日本の石油とナチス・ドイツを結びつける本があるので紹介する。チャールズ・ハイアムの「国際金融同盟」である。文中に登場するデーヴィスはアメリカの石油ブローカーである。
デーヴィスは今一度、ルーズヴェルトとの会談を設定しようと努力した。彼は大統領からの返事を待っている間に、所有のタンカーをパナマ船籍に変更し、イギリスの検閲から逃れてリスボン、ハンブルグ、そして他のヨーロッパの港に入港できるようにした。また、彼は日本のタンカーではなくパナマ船籍のタンカーを使って、日本に石油や軍事的にきわめて重要な原料などを定期的に輸送していた。というのは、イギリス情報部が海上の日本船を臨検してドイツ人乗務員を逮捕していたからである。デーヴィスはテキサス州のブランズヴィル港の職員であるUボートの元艦長と共謀して、この元艦長が海上封鎖を秘かに突破する手助けをしていた。
アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争中も密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。
これが本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。
あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で秘かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。
では、あの対戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、アジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本に持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食糧等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長びけば長びくほどに天皇一族と、秘密裡に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。
近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際資本家たちを“御主人様”とよんでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回顧録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。
この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。
*たとえば、1932年2月5日、多門師団(多門中将率いる関東軍師団)がハルピンに入城する前に、ハルピンのシナゴーグにロマノフ王朝の遺宝の数々が置かれていた。ハルピンの富豪のソフスキーの財宝などが服部正彦の部下に押収されて満州国建設の資金と化けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。
すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認める時がきているのだ。
・・・・・(中略)・・・・・
1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億円2千万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長びかせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が、天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長びかせることで天文学的な利益をあげた。「戦争を続けよ」、これが天の声であった。
*明治天皇こと、大室寅之祐の部落・田布施の出身の岸信介のことについて書く。岸信介が皇族なみの蓄財をし、これをスイスの銀行の秘密口座に入れていた、と異色の歴史家八切止夫の本にある。これを裏付ける記述が、先に引用した、近衛文麿の秘書の細川護貞の「情報天皇に達せず」の中に書かれている。
1944年9月4日の「日記」に次のように書かれている。
伊沢多喜男氏父(近衛)を訪問され、「岸は在任中数千万円、少し誇大に云えば億を以って数へる金を受けとりたる由、而もその参謀は皆鮎川(義介)にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあった。これについては、さすが山千の藤原が自分の処で驚いて話した」と。
岸信介、元外相松岡洋右、鮎川義介(日産コンツェルン総帥)は、大室寅之祐の田布施の一族である。大室寅之祐が明治天皇にならなかったら、ただ一介の商売人であったろう。
松岡洋右は満鉄の総裁をし、岸信介は総務庁次長(満州国の実質的副総理)となり、利権をほしいままにした。東条英機の貯財は岸信介の世話によった。
岸信介の財は東条英機の貯財を大きく上まわっている。岸の財産はスイスの秘密口座に入れられ、安倍晋太郎、安倍晋三と確実に受け継がれている。田布施秘密閥は今も健在である。文中、星野とあるのは、元の満州国総務長官の星野直樹で、東条内閣では書記官長をしていた。当時、岸は商工大臣であった。
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英機を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・・・
ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐に金を入れこむかの競争をしていた・・・・・と、細川護貞はあきれ返っているのだ。
*沖縄戦の悲劇も、原爆投下も、天皇制と保守勢力(ヨハンセン・グループのことをさす)の温存のために必要であったのである。彼らはぬくぬくとした心地よい生活が保証されれば、国を売ることに良心の呵責なんぞは持ち合わせない種族であった。
田布施に源を発する一族はついに、此の国を支配することに成功した。「美しい国づくり」とは、今までの「うるわしき大和」にかえて異質の日本の創造を目指す試みである。平成の今日でも、列島改造計画は続けられているのである。
歴代首相の多くが田布施と関係するこの日本はどうなっているのだと私は訴えたい。それゆえにこそ、私は皇室の“秘めごと”の中に真実があるのではと、幕末から終戦までの天皇家人々の出自を書いてきた。鹿児島県の田布施出身の首相の後に、山口県の田布施の出身の首相が登場してきたのは偶然ではないと書いてきたのである。
(管理人)
いやはや、改めて著者の情報分析能力には脱帽する。元は竹細工職人だとのことだが、恐るべき竹細工職人である。
メインの話は「8.15宮城事件が実は偽旗テロであった」ということであるのだが、それよりも後半の“八百長戦争の実体を暴いた内容”のほうがより秀逸であった。
「戦争を起こした勢力は誰なのか」、「陸軍に戦争責任をなすりつけようとした勢力は誰なのか」、「石油や物資のない日本が何故に4年間も戦争を継続させることが出来たのか」といった“本来、日本人が知っておくべき疑問”にものの見事に答えてくれています。
そもそも、私も学生時代に学校で教えられた歴史の授業では、「8・15宮城事件」でさえ教わった記憶がない。私は高校時代日本史を選択していなかったからかもしれないが、恐らく選択していたとしても、ほとんど教えられていないのではなかろうか。高校生の娘の教科書を見ると、終戦に関する箇所は、「天皇制護持の確証がえられないとして敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も、8月14日に無条件降伏し、15日正午から昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)という異例の手段で敗戦を国民に知らせた。」とあるのみで、「8.15宮城事件」の文字さえ存在していない。
高校生も、「試験に近代史はほとんど出ないので勉強しても仕方がない」と、思わされるように仕組まれている。全てがこういった調子で“物事の真相を考えないロボット人間が製造されている”のである。
「8.15宮城事件」の存在さえ教えられていなければ、それが八百長だったことなど尚更知る由もないことなのである。当ブログでは何回も書いてきているが、大化の改新も含めて過去の歴史の真実を正しく理解しなければ、いつまでたっても現在起きているテロや戦争を含めた様々な事件の事の真相にたどりつくことはできないだろう。
少なくとも、我々の親や、お祖父さんお祖母さんたちが亡くなった直近の重大事件である太平洋戦争の真実は確実に理解しておく必要がある。そのためにも本書は確実に皆さんの“戦争を正しく理解する能力”を身につけさせてくれる貴重な資料となるであろう。
ここに掲載した文章はあくまでも膨大な情報量である本書のほんの一部である。あなたが日本人であるならば、必ず購入して納得できるまでじっくりと読むべき書である。
私が文部科学大臣なら(大臣にそんな権利があるか否かは知らないが)、全ての高校生に本書を読むことを義務付けます。そして、夏休みの宿題として読書感想を書かせます。
この腐りきった日本の歴史教育を正す第一歩として、まずこのことから始めるべきではないだろうか。そして皆さんが子供を持つ親であるならば、「こういった歴史の真実を知らないということは大人として恥ずかしいことだ」との認識を持ってもらいたいのです。
少なくとも太平洋戦争の真実を知らない人間は、大人として子供を正しい方向に導くことは出来ないでしょう。
現政権及び特殊な地域出身のメンバー中心で構成される日本の支配権力者は八百長戦争を再開しようとしています。相変わらず国際金融資本家同盟と呼ばれる「彼ら」キチガイに命じられるままに・・・。
その陰謀を食い止めるのは私たち大人の役目でしょう。大事な子ども達が八百長戦争で亡くなってしまったとき、「戦争が八百長だったとは知らなかった、学校で教わらなかったから・・・」と言っても、後の祭りですヨ。
評点:90点
2007年の書である。
鬼塚氏の書を読んだのは久々である。いつものように他作家の書を数多く引用しながら独自の見解を進めていくという得意の手法がとられている。
本書の主題は、終戦発表直前の1945年8月15日の宮城事件が偽装クーデターであったことの立証である。映画にもなった「日本のいちばん長い日」は、「日本のいちばん醜い日」だったとの主張を展開されている。以下、一部引用する。
*偽装クーデター計画を真実に近いクーデターにすべく、三笠宮は木戸と、そしてあえて書かざるをえないが天皇と協議した。天皇と木戸が納得した。どうしてか。事件を起こし、阿南と田中の自殺と森の惨殺で、御聖断に反逆する軍人たちを迎えうると計算したのである。不敬であろうとなかろうと、私は真実を追究したい。もし不敬と思う人がいるならば、私の説を論破し、しかる後に私の不敬を論ずればよかろう。
バーガミニは、偽装クーデターが、できるだけ現実的に見せかけなければならない理由まで追求している。彼の意見に心を開かれよ。
しかしながら今やそのクーデターは、できるかぎり現実的に見せかけなければならないが、もはや戦争を長びかせる真の努力をめざすものではない、擬(まが)いもののそれでなければならなかったのだ。すべては外側の観察者、特にアメリカ人に、神聖な天皇は日本軍国主義の首魁であるよりはむしろ犠牲者であったのだということを、信じこませるゼスチュアであった。午後の忙しい会議、裕仁の侍従武官長の警戒せよとの言葉、裕仁自身の吹上御苑での散歩~すべてがこの最後のゼスチュアの必要を伝える腹芸として仕組まれたのである。
*私はこの劇場を説明する前に、一つだけ、単純な疑問を投げかけて、読者の心に問わねばならない。それは次のようなものだ。
あなたは8月14日から15日にかけてのあの宮中事件で、近衛師団の誰ひとりとして知らない一陸軍少佐が、「軍中央を見限って、“少数精鋭”によるクーデターという暴発に向かって奮闘を続ける」ことができたと思いますか。
この問いを発しないまま、日本現代史の本は8.15宮城事件をなんらの疑問も呈さず語り継ぐのである。その典型的な例が半藤一利の「日本のいちばん長い日」である。少しだけ懐疑的なのが角田房子の「一死、大罪を謝す」である。後はほとんんど半藤一利よりである。
このような単純な疑問を心の中に発しないからこそ、半藤本、あるいは秦本のようなものが、あたかも真実を伝える書として大手を振ってまかり通っているのではないだろうか。
*私はこの惨殺事件を調べてきて、ひとつ気になることがあった。それは井田正孝中佐である。彼は集団自殺をあおった張本人であったが、自決しなかった。そして「井田手記」を残した。この手記をもとに、「日本のいちばん長い日」他が書かれたことは間違いない。彼は後に岩田姓を名乗る。塚本憲兵中佐が戦後電通に入社すると、岩田は電通に迎えられる。1965年、塚本は「社長室長」となり、岩田は「総務課長」になる。後に二人は電通社内で出世していく。「日本のいちばん長い日」は一面、日本の憲兵隊の物語である。塚本と井田(後の岩田)は、あの日の演出家から大きな役割をふりあてられていた。その二人は、戦後も、その演出家の庇護のもとで、日本最大の広告代理店・電通の力を最大限に駆使して、「この「日本のいちばん長い日」の物語が大宅本の範囲を超えないように、絶えず監視の目を光らせていたのではなかったか、と思うようになったのである。これは私の取り越し苦労ではないであろう。
*井田正孝中佐の著書「雄誥(おたけび)」(1982念、西田雅との共著)がある。どうも「日本のいちばん長い日」を中心に、ほとんどの終戦史はこの本や井田が残した「手記」や「談話」に影響されている。
この井田中佐の手記に、吉田鈞は「責任は死よりも重し」の中で反論している。貴重な意見である。
然し乍ら、指揮権のない一少佐や中佐がどうして最古参大佐の芳賀に撤兵措置を命ずることが出来るか、それは不可能な事である。また、正門の司令官室までの乾門から銃前哨に到る5箇所の歩哨線を、どのようにして突破して行ったのか、然も乾門から車で入ったということなのでそれは通常皇族並みではないか。
また、守衛隊司令官や大隊長などの巡察の目をどのように潜り抜けて、椎崎、畑中、井田の3人が会談出来たのか、守衛を経験した近衛兵の実情からは理解出来ない疑問である。なお、指揮権のないものが撤兵を命ずることは出来ない。然も、恰も近衛歩兵第二連隊を宮城占領軍の如くに表現しているが、それは事実に全く反するものである。故意に畑中らの妄想を補強しているにすぎない。軍旗を奉じて守衛隊に指揮に当っている連隊長が、若い少佐や中佐に頤使されるようなことは、日本の軍隊では到底考えられないことである。
*14日午後11時ごろの時点で、阿南は森赳の惨殺事件を知らなかったかもしれない。しかし、15日零時ごろには、森惨殺事件を知っていたことは間違いない。「戦いは放棄された。あとは自分にまかせて欲しい」という若者たちへの阿南の言葉は、次の行動を暗示しているのではなかろうか。陸軍省に残って阿南を待っていた若き将校の期待に応えるべく阿南は「三宅坂の陸相官邸に帰って行った」のではなく、本当の意味での“決着”を三笠宮とつけるべく、三笠宮の住む防空壕に車を向けたのである。
では、どのような話がかわされたのか。私は「『神聖悲劇』が森赳を惨殺した」の項で書いた阿南の自刃直前の言葉の続きを書かねばならない。ノンフィクションの手法を無視して、阿南の死霊をよび出し、その死霊をして私のペンに書かせよう。
~私は森中将が惨殺されたことを知った・・・。若手将校たちの無念の声を聞いた。「戦いは放棄された。あとは俺にまかせて欲しい」と若手将校たちに約束した。なにがなんでもニセモノのクーデターだけはやめさせたかった。
三笠宮がすべてを動かしていた。俺は三宅坂の陸相官邸に向かうように見せかけて、運転手に「三笠宮のところに行け!」と言った。そこに畑中たちがいた。俺は怒鳴った。「どこへ行くのだ。そのピストルは何のために使うのだ・・・」と。それから俺は三笠宮に言った。「詔書の承認を受けるべく枢密院を開くべきだ。法を無視してどうなるのだ。東郷外相も鈴木首相も無視してかまわない、と言っている。平沼枢相の主張が理にかなっている・・・」と言ったんだ。
三笠宮は承知しなかった。問答どころではなかった。三笠宮の妻が電話したのではなかったか。そこに木戸が入ってきた。木戸も三笠宮も法を無視してもかまわないというわけだ。
俺は怒鳴った~「そうか、お前たちは俺たち軍人のせいにして、お前たちが戦争を仕掛けたのではないという神話を創り出すために、こんな汚い芝居を創ったのか・・・」と。
三笠宮は怒りだした。ピストルを手にし、俺を撃とうとした。三笠宮の妻が俺と三笠宮の間に入ってきた。俺は背を向けた。そして三宅坂に帰っていたんだ・・・。
俺は酒を飲み始めた。と銃声が聞こえた。「なんだ、あの銃声は・・・」と思った。
そうか、今頃になって森が殺されたことを知らせようとするのか、なんという姑息な手段なんだ、畑中がピストルで殺したことになったのか、畑中よ椎崎よ古賀よ、お前たちに死ぬな、とあれほどいったのに・・・お前たちは欺されてしまった。
それほどまでに軍人を悪人に仕立てて、平和天皇を演じたいのか・・・よし、天皇が袖を通したシャツを着て、天皇からもらった短刀で我が身を血だらけにしてやるぞ・・・国体護持だけが目的ではなかったのか・・・そこまで軍人たちを悪者にしなければならなかったのか・・・
*この「朝日新聞」に出た二重橋前を描写した文章はとても長い。藤田尚徳はそれを全文掲載している。ここでは一部分のみを記す。
溢れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙。ああけふ昭和20年8月15日、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との大詔を拝し、大君の存します宮居のほとり、壕端に額づき、私は玉砂利を涙に濡らした。唇をかみしめつ、またかみしめつ、道行く兵隊の姿を見ては胸かきむしられ、「作れ飛行機」の貼紙を見ては、宮城への道々を悲憤の涙を流し続けた私であった。<略>
泣けるまで泣け、涙ある限り涙を流せ、寂(せき)として声なき浄域の中に思はず握り締める玉砂利、拳(こぶし)を握って私は「天皇陛下・・・」と叫び、「おゆるし・・・」とまでいって、その後の言葉を続けることが出来なかったのである<略>
新聞各社はおそらく14日夜遅く、終戦の詔書が出るのを知る。それまでは書くことができない。朝刊を昼すぎにするよう指示を受けた。それなのに、どうして、このような記事が正午の玉音放送の直後から出てくるのか、奇々怪々の始まり、始まり、である!
直宮(じきのみや)や天皇族からデータを戴き、あの「天皇家の戦い」を書いた加瀬英明さえ、この記事にはあきれている。「文藝春秋」(2005年2月号)に、「捏造された『宮城前号泣記事』を加瀬英明は書いている。
当時の新聞は物資が窮乏していたから、裏表2ページだった。当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前に刷りあがって、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達することに決っていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた。捏造だったのである。
*益田勝実は長州の国家老益田弾正(だんじょう)の一族である。彼は山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、後に明治天皇となる「てんのうはん」のことを書いている。続ける。
天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされたことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。彼らが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、・・・激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。
わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は、謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。
大室寅之祐は田布施町の生まれ。私は2006年10月、この田布施を訪れた。光市と柳井市に挟まれた寒村の風景がそこにあった。私は知人と大室寅之祐について学びはじめていた。私の手元に知人が作成した一枚の系図がある。簡単に記すと、伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎の門事件」を起こした難波八助(なんばはちすけ)は一族である。また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之祐の生家の近くに岸信介一族の生家もある。この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後の内務大臣安倍源基(げんき)も大室寅之祐の生家の近くである。これは偶然とはいえない何かがあるだろう。
*鹿児島にも田布施村があった。現在は加世田(かせだ)市金峰(きんぽう)町というけれども、ここは昔は田布施村といった。小泉純一郎の父、小泉純也はこの地の出身である。彼は上京して小泉又次郎の一人娘・芳江と結婚して小泉家の婿養子となって小泉姓を名乗り、義父の地盤を継いで代議士となった。小泉純也は朝鮮の姓を持つが、この結婚により日本国籍を得た。長州の田布施と薩摩の田布施、直近二代の首相が同じ田布施一族の末裔なのだが、これは偶然ではないだろう。
*イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末に活躍した。アーネスト・サトウは天皇になる前の大室寅之祐と会っていた可能性が大である。彼は上司のハリー・パークス公使から日本の政情を調べるよういわれ、鹿児島の苗代川に行く。ここは、慶長3年(1598年)、朝鮮から虜囚として連れてこられた43人の男女が、島平の浜辺に遺棄されたように、維新後、苗代川の住民は、創成期の近代日本のただ中に遺棄された。「東郷茂徳伝記」と同書の「解説」(萩原延壽のぶとし)に、この間の歴史の闇が詳述されている。
いわば270余年のサイクルが廻って、この村のひとびとは、再び島平の浜辺に立ち、今度はあのとき他郷に連れ去られた同胞と同じように、母国の姓名を捨て、その言語を忘れ、その風俗を改めて、あたらしく移住してきた土地に同化しようとする<略>。
東郷茂徳は明治15年(1882)12月10日、朴茂徳としてこの苗代川で生まれた。<略>なお、東郷という姓は鹿児島ではとくにめずらしいものではなく、朴家が「入籍」した東郷家と、提督東郷平八郎の家とは関係がない。
こうして、5歳の時から、朴茂徳は東郷茂徳を名乗るようになった。
私はどうして終戦時の外相、東郷茂徳をここに登場させたのか。その理由は三つある。
その一つは、あの明治10年(西南戦争があった)のあわただしさの中で、アーネスト・サトウがパークスの命令とはいえ、朝鮮人の被差別部落の調査報告書を作成しているということである。サトウは日本の国土の中に朝鮮系の人々が多数いて、差別されているのを見た。西南戦争は被差別部落の問題が大きく影を落とした戦いである。もう一つは、終戦内閣にどうして東郷茂徳が外相として迎えられたのか、というのが二つ目の理由である。それは、終戦にあたり、昭和天皇が最も信頼できる人物を内閣に入れたことにある。東郷茂徳は、明治天皇=大室寅之祐と同じ出自を持つと考えられたのではなかったか。
さらにもう一つ、東郷茂徳を起用した理由がある。それは天皇の財宝を隠蔽する役を東郷茂徳に命じた点にある。天皇はいちばん大事なことをするのに、日本人よりも朝鮮人を信用したといえる。この財宝隠蔽工作は後述する。
*私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。
どうして「南進論」なのか?私はそれが、日本の進路となるように仕組まれたと書いてきた。日本の運命だった。敗北するように、日本は明治維新のときから仕組まれていた、と書いてきた。エドワード8世がシンプソン夫人と結婚しようとしただけで王位を捨てなければならなかったように、日本の天皇家も知られてはならない“秘めごと”が多すぎた。
私はフランス大使クローデルの本国外務省宛ての至急電報を紹介した。あの電報は、大正天皇の死が迫るなかで、秩父宮を天皇にせんと、宮中の奥深くで策謀があることを伝えている。大正天皇は唯一といっていい味方の原敬首相を暗殺される。そして、牧野伸顕が宮内大臣になると、死に至らしめる政策の渦の中に入れられる。はっきり書こうと思う。私は少しずつ、ある毒薬を飲まされて殺されたと思っている。
宮中某重大事件がその背後にある。秩父宮の天皇工作がかさなったなかで、大正天皇は病気になっていくのである。貞明皇后は長州閥に、少女のときからのスキャンダラスな過去の人生をすべて握られている。山縣有朋を失脚させるために、ヨハンセン・グループの首魁の牧野伸顕と組み、杉浦重剛(じゅうごう)と頭山満(とうやまみつる)をその仲間に入れる。彼らが「南進派」の一味でもあった。
マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」の続きを読んでみよう。
確かに、天皇は通常の外交手段、つまり外務大臣を通じてすべての情報をスターリンに伝えることができた。しかし、天皇はスターリンがソ連のスパイが盗み、秘密の経路を通じて送ってきた情報だけを信用することに気づいていたのである。
日本の官憲はゾルゲの動きをすべて知っていた。そして知らぬふりをしていた。ゾルゲは野坂参三がアメリカに行き、ゾルゲが工作要員をさがしていた頃、モスクワに行った。スターリンは、日本と中国を戦争状態に突入させるべく、日支闘争計画案を国際金融同盟から受けていた。ゾルゲはスターリンから新しい任務を与えられた。フランクフルト新聞の日本特派員になりすましベルリンに行く。そして、ユダヤグループの準備工作で日本にやってくる。ソ連軍の少将待遇である。
野坂参三が日本に送りこんだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳の仕事とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味~天皇一族が日本共産党をつくった~を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。ヨハンセン・グループの首魁牧野伸顕は娘婿の吉田茂を使い、“共産主義の恐怖”を近衛文麿らに吹聴させるのである。
南進論と共産主義恐怖論の根は一つである。スターリンも日本共産党つぶしに一役買っている。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里見という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。
・・・・・(中略)・・・・・
コミンテルン第7回大会が1935年にモスクワで開催された。ゾルゲはモスクワに行っている。野坂参三はアメリカからモスクワに帰り、この大会の日本代表となっている。
この大会で人民戦線テーゼが採択される。ここで中共と国民政府の話し合いが行なわれる。ここで南進策を日本がとるように策を練ったと思われる。ゾルゲは赤軍第四部のウリッキの指揮下にあった。野坂参三がこのウリッキを知らぬはずがない。
ポール・マニングの「米従軍記者の見た昭和天皇」をもう一度引用する。文の中にラルフ・Mが出てくる。マニングが独自に発見したスパイの一人であるが、日本人にはほとんど知られていない。
この日米戦争の開戦前の時期、木戸は近衛を使って(もちろん尾崎経由で)ゾルゲに多量の情報を流していたのだ。昭和天皇はクレムリンに情報ルートを持っていたことになる。木戸はロシア人の心理を知っていた。ソ連では、秘密のルートで届いた情報は何であれ、公式の外交文書より信用したのである。一方、ラルフ・Mもゾルゲと同じく、近衛からの極秘情報をワシントンに送信していた。木戸はクレムリンとホワイトハウスの両方に情報ルートを持っていたのだ。この状況は昭和天皇を喜ばせた。
ポール・マニングは野坂参三の実像を知らない。木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。
多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その死霊から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。
・・・・・(中略)・・・・・
私は、太平洋問題調査会の第6回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。日本の有識者の連中はこの調査会を「欧米の学者や政治家と太平洋の問題を学術的な立場で議論する機関である」と語っているが、彼らは謀略機関の手の内で踊らされていたのである。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。
*8月15日のあの事件と2.26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず、暴力装置を作ってはそれを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って、ともにその暴力装置に加担する一派とその逆の立場の人々である。統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇道派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。
・・・・・(中略)・・・・・
もう一度だけ、笠原和夫の発言を聞いてみよう。日本の分岐点を笠原和夫は書いている。
2.26事件にはそういう背景があったわけでね。今、2.26事件の将校というのは、軍国主義的なものとして見られたりするわけだけども、朴は非常に不愉快ですね。実際、2.26事件で生き残った人たちの話を聞きますと、自分たちが陸軍の主導権をとったならば、絶対にアメリカとは戦争を起こさんだろうと。大陸からは撤兵して満州は自治州にすると。それで太平洋の資源については、一切、こっちから攻めることはない~こういうふうにやったはずだと言ってるんですね。僕はそれを認めていいんじゃないかと思うんですけどね。第一、野戦でもって、あるいは艦隊なら艦隊でもってその第一線で戦っている連中というのは、戦争というのはそんなになまやさしいものではないということはわかっていますからね。
まさに、笠原和夫が語るとおりである。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に究明しようとして私は書いてきた。
*ここに、日本の石油とナチス・ドイツを結びつける本があるので紹介する。チャールズ・ハイアムの「国際金融同盟」である。文中に登場するデーヴィスはアメリカの石油ブローカーである。
デーヴィスは今一度、ルーズヴェルトとの会談を設定しようと努力した。彼は大統領からの返事を待っている間に、所有のタンカーをパナマ船籍に変更し、イギリスの検閲から逃れてリスボン、ハンブルグ、そして他のヨーロッパの港に入港できるようにした。また、彼は日本のタンカーではなくパナマ船籍のタンカーを使って、日本に石油や軍事的にきわめて重要な原料などを定期的に輸送していた。というのは、イギリス情報部が海上の日本船を臨検してドイツ人乗務員を逮捕していたからである。デーヴィスはテキサス州のブランズヴィル港の職員であるUボートの元艦長と共謀して、この元艦長が海上封鎖を秘かに突破する手助けをしていた。
アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争中も密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。
これが本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。
あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で秘かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。
では、あの対戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、アジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本に持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食糧等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長びけば長びくほどに天皇一族と、秘密裡に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。
近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際資本家たちを“御主人様”とよんでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回顧録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。
この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。
*たとえば、1932年2月5日、多門師団(多門中将率いる関東軍師団)がハルピンに入城する前に、ハルピンのシナゴーグにロマノフ王朝の遺宝の数々が置かれていた。ハルピンの富豪のソフスキーの財宝などが服部正彦の部下に押収されて満州国建設の資金と化けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。
すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認める時がきているのだ。
・・・・・(中略)・・・・・
1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億円2千万円。当時の皇室財産を日銀物価価格(1990年)で計算すると、311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億円がいかに天文学的数字であるかがわかる。
今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。
・・・・・(中略)・・・・・
三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長びかせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が、天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長びかせることで天文学的な利益をあげた。「戦争を続けよ」、これが天の声であった。
*明治天皇こと、大室寅之祐の部落・田布施の出身の岸信介のことについて書く。岸信介が皇族なみの蓄財をし、これをスイスの銀行の秘密口座に入れていた、と異色の歴史家八切止夫の本にある。これを裏付ける記述が、先に引用した、近衛文麿の秘書の細川護貞の「情報天皇に達せず」の中に書かれている。
1944年9月4日の「日記」に次のように書かれている。
伊沢多喜男氏父(近衛)を訪問され、「岸は在任中数千万円、少し誇大に云えば億を以って数へる金を受けとりたる由、而もその参謀は皆鮎川(義介)にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益配分がうまく行かぬことが、内閣瓦解の一つの原因でもあった。これについては、さすが山千の藤原が自分の処で驚いて話した」と。
岸信介、元外相松岡洋右、鮎川義介(日産コンツェルン総帥)は、大室寅之祐の田布施の一族である。大室寅之祐が明治天皇にならなかったら、ただ一介の商売人であったろう。
松岡洋右は満鉄の総裁をし、岸信介は総務庁次長(満州国の実質的副総理)となり、利権をほしいままにした。東条英機の貯財は岸信介の世話によった。
岸信介の財は東条英機の貯財を大きく上まわっている。岸の財産はスイスの秘密口座に入れられ、安倍晋太郎、安倍晋三と確実に受け継がれている。田布施秘密閥は今も健在である。文中、星野とあるのは、元の満州国総務長官の星野直樹で、東条内閣では書記官長をしていた。当時、岸は商工大臣であった。
細川護貞が語らんとしているのは、戦争を終結させるために、東条英機を首相の座から降ろそうとした岸信介は立派だという風評があがったが、本当は、今の金で数百億から数千億の国家の機密資金の奪い合いの結果、岸が大室寅之祐一族の力を利して東条英機を捨てた。東条英機は“田布施に敗れたり”ということで、これはもうあきれて物も言えない・・・・・・
ということである。東条英機や岸信介は国家存亡の秋(とき)に、いかに自分の懐に金を入れこむかの競争をしていた・・・・・と、細川護貞はあきれ返っているのだ。
*沖縄戦の悲劇も、原爆投下も、天皇制と保守勢力(ヨハンセン・グループのことをさす)の温存のために必要であったのである。彼らはぬくぬくとした心地よい生活が保証されれば、国を売ることに良心の呵責なんぞは持ち合わせない種族であった。
田布施に源を発する一族はついに、此の国を支配することに成功した。「美しい国づくり」とは、今までの「うるわしき大和」にかえて異質の日本の創造を目指す試みである。平成の今日でも、列島改造計画は続けられているのである。
歴代首相の多くが田布施と関係するこの日本はどうなっているのだと私は訴えたい。それゆえにこそ、私は皇室の“秘めごと”の中に真実があるのではと、幕末から終戦までの天皇家人々の出自を書いてきた。鹿児島県の田布施出身の首相の後に、山口県の田布施の出身の首相が登場してきたのは偶然ではないと書いてきたのである。
(管理人)
いやはや、改めて著者の情報分析能力には脱帽する。元は竹細工職人だとのことだが、恐るべき竹細工職人である。
メインの話は「8.15宮城事件が実は偽旗テロであった」ということであるのだが、それよりも後半の“八百長戦争の実体を暴いた内容”のほうがより秀逸であった。
「戦争を起こした勢力は誰なのか」、「陸軍に戦争責任をなすりつけようとした勢力は誰なのか」、「石油や物資のない日本が何故に4年間も戦争を継続させることが出来たのか」といった“本来、日本人が知っておくべき疑問”にものの見事に答えてくれています。
そもそも、私も学生時代に学校で教えられた歴史の授業では、「8・15宮城事件」でさえ教わった記憶がない。私は高校時代日本史を選択していなかったからかもしれないが、恐らく選択していたとしても、ほとんど教えられていないのではなかろうか。高校生の娘の教科書を見ると、終戦に関する箇所は、「天皇制護持の確証がえられないとして敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も、8月14日に無条件降伏し、15日正午から昭和天皇のラジオ放送(玉音放送)という異例の手段で敗戦を国民に知らせた。」とあるのみで、「8.15宮城事件」の文字さえ存在していない。
高校生も、「試験に近代史はほとんど出ないので勉強しても仕方がない」と、思わされるように仕組まれている。全てがこういった調子で“物事の真相を考えないロボット人間が製造されている”のである。
「8.15宮城事件」の存在さえ教えられていなければ、それが八百長だったことなど尚更知る由もないことなのである。当ブログでは何回も書いてきているが、大化の改新も含めて過去の歴史の真実を正しく理解しなければ、いつまでたっても現在起きているテロや戦争を含めた様々な事件の事の真相にたどりつくことはできないだろう。
少なくとも、我々の親や、お祖父さんお祖母さんたちが亡くなった直近の重大事件である太平洋戦争の真実は確実に理解しておく必要がある。そのためにも本書は確実に皆さんの“戦争を正しく理解する能力”を身につけさせてくれる貴重な資料となるであろう。
ここに掲載した文章はあくまでも膨大な情報量である本書のほんの一部である。あなたが日本人であるならば、必ず購入して納得できるまでじっくりと読むべき書である。
私が文部科学大臣なら(大臣にそんな権利があるか否かは知らないが)、全ての高校生に本書を読むことを義務付けます。そして、夏休みの宿題として読書感想を書かせます。
この腐りきった日本の歴史教育を正す第一歩として、まずこのことから始めるべきではないだろうか。そして皆さんが子供を持つ親であるならば、「こういった歴史の真実を知らないということは大人として恥ずかしいことだ」との認識を持ってもらいたいのです。
少なくとも太平洋戦争の真実を知らない人間は、大人として子供を正しい方向に導くことは出来ないでしょう。
現政権及び特殊な地域出身のメンバー中心で構成される日本の支配権力者は八百長戦争を再開しようとしています。相変わらず国際金融資本家同盟と呼ばれる「彼ら」キチガイに命じられるままに・・・。
その陰謀を食い止めるのは私たち大人の役目でしょう。大事な子ども達が八百長戦争で亡くなってしまったとき、「戦争が八百長だったとは知らなかった、学校で教わらなかったから・・・」と言っても、後の祭りですヨ。
評点:90点
日本のいちばん醜い日 (2007/07/21) 鬼塚 英昭 商品詳細を見る |
もくじ 太田龍
もくじ デーヴィッド・アイク
もくじ ジョン・コールマン
もくじ 人類の起源
もくじ 日本人のルーツ
もくじ オーティス・レディング
もくじ サム・クック
もくじ サム&デイヴ
もくじ マーヴィン・ゲイ
もくじ レイ・チャールズ
もくじ ジェームス・ブラウン
もくじ スライ&ザ・ファミリー・ストーン
もくじ アル・グリーン
もくじ スティーヴィー・ワンダー
もくじ オル・ダラ
もくじ マディ・ウォーターズ
もくじ ハウリン・ウルフ
もくじ バディ・ガイ、ジュニア・ウェルズ
もくじ ジョン・リー・フッカー
もくじ タジ・マハール
もくじ アリサ・フランクリン
もくじ ニーナ・シモン
もくじ ダイアナ・ロス、シュープリームス
もくじ アーマ・トーマス
もくじ アンジェリーク・キジョー
もくじ エルビス・コステロ
もくじ イアン・デューリー
もくじ レゲエ・スカ
もくじ ブルース
もくじ ジャズ・フュージョン・フラメンコ
もくじ インストゥルメンタル
もくじ ロック
もくじ ポップス・モータウン
もくじ バラード・カントリー
もくじ オールディーズ
もくじ アフリカンミュージック
もくじ ケルト・ミュージック
もくじ アジアンミュージック
もくじ クラシック
もくじ 映画音楽・ポピュラー音楽
もくじ ジャパニーズロック・ソウル
もくじ ジャパニーズフォーク・ブルース
もくじ ジャパニーズバラード
もくじ 替え歌
もくじ 頭脳警察・PANTA
もくじ amazarashi
もくじ マネー詐欺
もくじ 9.11他やらせテロ
もくじ ワクチン・AIDS・エボラ
もくじ 医療・薬品・ガン
もくじ マスゴミ
もくじ 不正選挙
もくじ 歴史・宗教
もくじ 戦争
もくじ 原発・放射能
もくじ 未分類
~ Comment ~
Re: NoTitle
> 記事をありがとうございます。早速読んで見ます。一家に1冊は置くべし、と思いました。
有難うございます。
またしても日本全国で「戦争プロパガンダ映画」が拡散されているようですが、しっかりとした認識を持たれた方が一人でも増えることは、大変嬉しく思います。
有難うございます。
またしても日本全国で「戦争プロパガンダ映画」が拡散されているようですが、しっかりとした認識を持たれた方が一人でも増えることは、大変嬉しく思います。
- #404 ソウルマン
- URL
- 2015.08/17 01:10
- ▲EntryTop
~ Trackback ~
卜ラックバックURL
⇒
⇒この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
NoTitle