戦国恋うる君の唄
作者:
橋本ちかげ
Phase.1 ~天文15年、ドロップキック、鵺噛童子
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勝手に退学 ~足軽お頭 煉介さんとの出会い
そのとき、僕の目の前に現れたのは、異様な風体をした三十人の男たちだ。
砂埃を巻き上げ、手に持った太鼓や鐘を鳴らし、錆びだらけの武器を、手に手に―――口々に汚い叫び声を上げていて―――
みんな泥や埃にまみれた顔に、白眼だけがやけに明るく光っている―――
ほとんどの男たちの髪は長く振り乱していて、頬からあごにかけては不精ひげを生やしていた。
裸の上に直接鎧を着て、砂埃で濁った槍や薙刀、金棒を握りしめているのもいれば。
ぼろぼろの鞍のついた馬にまたがり、柄を巻いた糸がほとびかけた大きな日本刀を直接、肩にかけている人もいる。
身につけている衣装や道具をみれば、この人たちが侍らしいと言うことは分かった。いくら歴史をそんなに知らない僕でも、時代劇の衣装くらいは分かる。でも、これがそうだと思えないのには、そこには、まったく、秩序だったところだとか――――きちんと整理された印象がなかったからだ。
これは、
(時代劇なんかじゃない)
そう思うと、背中の皮膚が恐ろしい勢いで粟立ち始めた。
見ていると、男たちはさらに汚い声で僕を罵り始める。飛び交う野次の中で、僕は立ちすくみ、身動き一つ出来なかった。
その声は、僕の腹の奥まで響いて重く、のしかかって、そこから気泡のように、鈍く酸っぱいものが喉を通ってぐっとせりあがってきた。
「―――やれや」
やがて誰かの声が、男たちの怒声を縫って響き、僕の目の前に差し出されたのは―――
白く薄く、鍛え上げられた薙刀の刃だ。
それは砂で汚れながらも、不気味に光っていて―――
柄と刃の溝からこびりついた赤黒いものが、乾いて点々と刃先まで伝っている。
(本物だ―――)
僕は気が遠くなった。
その一時間ほど前―――
僕は見たこともないような場所を前にして立っていた。
そこは海沿いの小さな町を望む、小高い丘のはずなのに―――
その向こうに僕が知っていた町の姿はなかった。
(どこだ? ここ―――)
足元には僕の持ち物が散乱し、初夏に芽吹いた草花が青臭い匂いを発して露に濡れている。その匂いも、濡れたズボンの裾が肌に触れる感覚にも、非現実感はない。でも目の前に展開するのは、まるで見たこともない景色だった。それがちょうど、僕の知らない間にチャンネルを替えたみたいに、突然入れ替わったのだ。僕が知っていたその世界は僕だけを残して―――消えた。もちろん、そのときの僕にそれに気づく術はなかったけど―――
それにしても、いつのまに、こんなところに来たんだろう?
まず僕が不思議だと思ったのは―――
風がなぜか―――他人行儀なくらい張りつめて、冷たいことだ。予報では時季外れの台風が、気忙しく迫っているはずだった。実際今日は朝から晴れてはいても、むしむしとして汗ばむような気候だったのに、空は一面、雲が薄く張って、まるでシーツをかけたみたいに白く、くすんでいて太陽はその向こうで、おぼろげに頼りない光を発している。この寒さは、どう考えても三月上旬の気候だった。
天気が変わって急に冷え込んだにしては、急激すぎるほど―――
そこには、さっきまで僕がいた、六月の空気は掻き消えていた。
そして―――
どこかでずっと巨大な音が響いている。
まるで特大の太鼓を打ち鳴らすような―――この不穏な音はなんだろう。
ドーン、ドーン、とそれは尾を引いて長く、短く、一定のリズムを持って鳴っている。その音はときに遠ざかっても確実に腹に響いて、どこか僕を落ち着かない気分にさせる。そしてさらに不穏なのは、そこに入り混じる獣たちの気配だ。
耳を澄ますと聞こえてくるのは―――
遠吠えする犬。
馬のひずめの音と、いななきのような声。
人の叫び声? 誰かがどこかで意味のわからない言葉を叫んでいるような。
こんな山奥で?
(どこなんだ、ここ・・・・・)
その風景に戸惑う僕を尻目に、突然、バッグに入れたままにしていた携帯がけたたましく鳴り響いた。
例えば今、僕の存在が消えたりして―――
毎日生きていく中でそんなことをふっ、と、考えたりするけどその日は、ちょっとそのテーマは重たかった。
この日の記憶のことで、まずよく憶えているのは、真昼間のがらがらの電車に座っている僕だ。
サラリーマンの背広も学生服も絶えた昼下がりに、僕は一人、電車に乗っていた。
同じ車両の中には、乗客は僕の他は誰ひとり居なかった。僕が棲んでいたその街からは、市街地を離れると、後は海際に広がる小さな田地と、やけに急な坂と、そこにきっちりと押し込められた小さな住宅地しか見当たらなくなるのだ。手持無沙汰の僕は、ヘッドホンをして、漠然とそこに流れていく音楽を聴いていた。目的も指向もなく、プレイリスト通り、ぼんやりと流れる音楽の奔流が、そのときの僕の世界のすべてだった。
(どうしようかな、これから―――)
その日、時計が正午の針を過ぎるころ―――
遠く離れた街を過ぎて、僕は、どんどん見慣れた風景の中に向かっていた。そして、自分の棲み家をどんどん離れていく電車の中で、そんな甲斐のない問いかけを自分に投げかけていたのだ。
つい、その朝のことだ。
僕は学校を辞めた。
飛び出したことに理由は特になかったし、行くあてだってあったわけじゃなかった。難しい理由は、なに一つなくて―――ただ、僕の周りに用意された空気から逃れたかっただけ。家出の理由ならそれで十分だった。
とにかく僕が、学校を決断したのはその日の朝だ。なんでも決める時は、勢いが大事だと誰かから聞いていたけど―――勢いがつくと、物事は驚くほど簡単に運ぶものだ。
朝のホームルームが終わった後、僕は担任と話をしてごくあっさりとその問題に決着をつけた。そのときのことは本当に、ほとんど印象に残らないほど、スムーズだった。学校を辞めること以外のことで僕は何も話さなかったし、担任は理由を聞かなかった。恐らく、こんなとき、学校を辞めるのに生徒たちが口にする理由は似たりよったりだからだ。
新学期が始まったクラスに馴染めなくて不登校になるとか。
部活でいじめがあったり、先輩や顧問の先生のやり方についていけなくなったり。
遊びまわっていて、授業に出席しない。
どっちにしても、結論は単純だ。
とにかく先生から見たら理由は同じでも導き出される結果は一つしかない。
学校の勉強についていけなくなるから。
ただ、それだけのことなのだ。
その意味で僕はただの類型的な退学者だった。ただなんとなく学校が詰まらなくなって勉強をしなくなり、そのうち、クラスにも馴染めなくなって―――何が先かは分からないけど、どれかが原因で、つまりは成績が落ちたのだ。まともに学校生活が出来なくなった。当然だ。転校してきてからほぼ半年間、僕はクラスの授業にはほとんど出席したことがなかったんだから―――
たぶんその間に、色々とあったのかも知れないけど、それは特別、言葉を尽くして人に説明するようなことじゃなかった。理由を突きつめたところで結果は同じだ。実際、僕の入学して以来の成績は、好き嫌いの教科によって程度の差こそあれ、まんべんなく下降線をたどっていた。僕に必要なのはだめだった言い訳より、これからどうするかの改善策か精神力だった。そして僕の中にはそのどちらもがないことが分かっていた。そもそも僕にはだめになっていく最中に、それをどこかで歯止めするための気力すら湧かなかった。だから、辞めることにしたのだ。
「―――で、本当に辞めるのね?」
緑色の眼鏡のフレーム越しから、彼女は僕をじろりと見た。そう言えばその先生と目が合ったのは、後にも先にもその一回だけだった。
「はい、もう決めました」
僕は言った。
「そう」
学年の教務主任でベテランのその先生は、顔をしかめたけど、相変わらず、どこか決められた手続きの中にいると言う僕の第一印象を崩すことはなかった。この先生はずっとそんな感じがした。
「御両親には、もうお話は済んでいる?」
彼女の質問はそれだけだった。僕は言った。
「はい。両親とはよく話しました。いずれ、改めてご挨拶にうかがうと思います」
「そう」
彼女は言って、後は手元の出席簿と回収したプリント類に目を落とした。
「成瀬君、あなたのこと、正直わたしはよく理解できなかったと思う」
教室を出る時、彼女は言った。
「でも、がんばりなさい。これからあなたがどうするか、わたしには判らないけど」
「はい」
僕は答えた。答える時、やっぱり先生の目は見なかった。
「そのことも今、両親と話しています。決まったら、いずれ」
もちろん、それは嘘だし、とりあえず今日中には両親に話す予定は僕にはなかった。
物事に勢いがついたら、後はただ転がるだけなのだ。
僕は最初の駅のコンビニで、サンドイッチとカフェオレを買い、次の駅に着く頃にはそれを空にした。そしてぬるくなったカフェオレを飲みながらドアの上の電光掲示板を眺め、聞きなれない駅名を口の中で反芻した。
耳元でずっと、携帯につないだイヤホンから音楽が流れ続けていたけど、今の僕にとってはどこか地球の裏側で響いている関係のない音に思えた。
普段は通りもしないひと駅を過ぎるたびに、発車のベルとアナウンスだけが僕の静寂を打ち破る。そのどちらかの音に気付くと、僕は反射的に自動ドアの上の電光掲示板を見ていた。どこまで行くんだろう―――
電話が鳴ったのは、少しうとうとし出したときだった。
着信は妹の、絢奈からだ。
「はい?」
『―――あのさぁ・・・・・・』
僕が電話を耳に当てると、いきなり絢奈のきんきん声が耳に刺さった。
『なにやってるの、馬鹿お兄い。さっきクラスの友達から聞いたよ! なんでそんなことするかな!』
二か月前、転入した僕らは同じ学校の一年生と二年生だ。話が伝わるのは当然速い。
「そんなに怒るなよ、絢奈」
僕は答えた。
「なんでって聞かれても困るし―――」
『なんでもいいから理由言ってみなよ』
五秒くらい、僕は考えた。
「―――うーん、流れで?」
『意味わかんないっ。って言うか五秒考えてそれ?』
絢奈は、泣きそうな声だ。本当にこう言うときの妹は、手に負えなかった。
『なんで? 転校しても全然、友達出来ないから? 女の子にもモテないし、毎日変な本読んだり、変な音楽聴いたりしてばっかでキモオタ扱いされてるから?』
「いや、つーかそこまで―――」
またはっきりと、徹底して痛いこと言ってくるな。
『じゃあ、なんで? ここで絢奈を納得させてみなよ。じゃなきゃ本当、怒るよ』
僕は少し戸惑った。
「えっとほら―――学校の勉強もついてけないしさ」
『そんなの、何とかなるっしょ。この前絢奈なんて、赤点三つもあったよ!』
「絢奈、それでまだ学校にいるつもりか? それも―――逆にやばくないか?」
『お兄いのがやばいでしょ! って言うか前の学校のときは違ってたでしょ。絢奈に勉強も教えてくれたじゃん』
「それいつの話だよ」
『そんな昔のことじゃないしっ! って言うか本当になんでなの?』
なんで? を繰り返す絢奈に僕は要領を得ない答えをするしかなかった。
「とにかくほっといてよ。ほとぼり冷めたら帰るからさ。そしたら親にも説明する」
いらだちを露わにして僕がそう言うとずっとまくしたててた絢奈はそこで口ごもった。
『ねえ、聞いてもいいかな?』
「なにをだよ」
『違ってたら許して。あのさ、それってさ―――お兄いが学校辞めるのって・・・・・』
僕はそこで一方的に電話を切った。
絢奈がなにを言いたいのかは分かっていた。だから訊く必要はないと思った。
自分が諦めたり、辞めたことを何かのせいにする気はなかった。
だって―――
もしそうだったら、絢奈だって、僕みたいになっているはずだから。
青草の露に濡れたバッグを拾い上げると、僕は鳴り続ける携帯電話を拾い上げた。着信は、やっぱり絢奈からだった。でも、すでに電話は切れている。ディスプレイに表示された着信時間はもう一時間も前のものだ。さっき鳴ったのは、その時間差だったのだろうか。それにしてはやけに時間が離れすぎている気がしたけど―――
(そう言えばアンテナが一本も立ってないけどな―――)
まったくの圏外に入っていたのだったらそれ以前から着信していたとしてもただ履歴が残るだけのはずで、今さら通話を着信するはずがないのに、何か不可解だ。
にしてもここは、どこなんだろう。
僕はもう一度目を凝らして周りの風景を見渡した。
(やっぱり見覚えがない―――)
そこにあるのは、見渡す限りの山々と、それに抱かれて鬱蒼と茂る木々。不安定な曇り空―――そして、何度見ても異様なのは。
山の裾野から広がる見たこともない建物群だ。
そこには電柱の一本も立っていなければ、車の一台も走ってない。バイパスも、ガードレールも、コンビニも、ガソリンスタンドの姿も見えなくて―――コンクリートのビルや、三原色を使った看板や家の屋根も建っていない。代わりにそこにあるのは、煤けた木造の粗末な二階家の並びだけだった。
ついさっきまで、僕はまったく違う場所にいたはずだ。僕は僕がいたはずの場所の風景を憶えているし、そこからどこをどう通って、ここまで来た経緯が分からない。
まったく―――
なにもかもがまったく説明不能だ。
それに僕の記憶が確かなら―――
僕は、絢奈といたはずなのだ。
こんなことになる直前まで、絢奈は確かに僕の隣にいた。それなのに―――
僕は混乱した頭をひとりで抱えながら、何度も息をついた。
なんだよ? どうなったんだ? いったい、何が起きた?
いきなりブレーカーが落ちてついたみたいに、僕の記憶と記憶は分離されていた。憶えていることと、憶えていないこと、それらは、意味のない断片でちりぢりになって僕の頭の中にぶちまけられているような気がした。明らかにその一瞬で何かが、僕の頭の中を通り過ぎていったのだ。でもそれが何かはまったく思い出せはしない。もどかしさと歯がゆさで二つのこめかみがきりきりと痛む。先走る思考と危機感を取り押さえて僕は何度も深呼吸をした―――そして、僕は必死に記憶のブラックボックスを探ってみたが、役に立ちそうなことはほとんど思い出せなかった。
このことをありのまま、憶えている通りに言うなら―――
この場所に僕は突然、現れた。僕にも信じられない。ありのまま誰かに話したら信じてもらえるとは思えないけど――――そうとしかいいようがないのだ。
どうしてこんなことになったのだろう。本当に、何もかもすべてが、一瞬で変わった。どんな現象なのか、誰の仕業なのかは分からないけど僕は突然、この場所に置き捨てられたのだ。
(ちょっと待てよ―――落ちつけ)
混乱した頭の中身を整理しながら、僕は必死に考えをまとめた。
まず、先決なのは目の前に見えるあの集落の方に向かって、降りることだ。
ここにこのままこうしていても、誰かの助けが来るあてはなさそうだし、まだ日が高いうちなら体力の続く限り、移動しておくのが得策だ。それに―――
僕が心配したのは、何より絢奈のことだ。
正直、あの不可解な着信に、僕はどこか不吉なものを感じていた。電波が届くはずのないこんな山奥で、思い出したように携帯電話が鳴ること自体、変な感じだ。それに少し遠ざかったとは言え、さっきから思い出したように響いてくる、不穏な音たちの正体も気になった。
こういうときに心配してたら、きりがないけど―――とにかく、電波が届く場所にたどり着くことが出来たら、こちらから、コールしてみよう。僕は歩きだした。
「―――痛っ・・・・・」
身体を動かすと、なぜか首の後ろがきりきりと痛んだ。
その感覚も、肩にかけたバッグの紐が指に食い込む感触もやっぱりリアルだ。
やっぱり夢じゃないのだ。
もうとっくに分かってはいるのに実感するたび、愕然とする。でも、さすがにずっとこうしているわけにもいかなかった。
かすかなけもの道を見つけ、僕はともかく低い場所へ場所へと足を運んでいった。
どこからどうやってここに、僕が来たかは分からないけど―――
行く手はやけに険しかった。背の高い若いススキや、篠を分けていくのはそれだけでも疲れる作業だった。足場の悪さは経験したこともないほどだ。もしかしたら、この辺りはほとんど人は通らないのかも知れない。草を分けたけものみちは歩きにくかったが、やがて黄褐色が鮮やかに濡れた粘土質の坂道が混じり出すと、ずるずる滑って足元から目が離せなくなった。夢中になった僕はいつしか、時間を忘れて身体を動かしていた。
たぶん一時間近く、歩いたと思う。すると―――
杉の大木が見えたかと思うと、突然開けた拾い道幅の場所に出た。
人が作った道だ。
良かった。そう思うと、ほっとした。そこは、両端に大木が並んでいて、Uの字型に彫り込まれた形をした山道で、一直線にどこまでも伸びていた。見憶えがあるように感じたが、僕の身近にはあまりなかった。こう言う両端に大木が生えている風景は、そう―――大きなお寺や神社とか、あとは時代劇とかでよく見る風景だった。
道は明らかに人工的なものだ。舗装なんかは全然されていなくて、まだぬかるんではいたけど、砂利が混じっていて、土が固く踏みしめられているから、それでも大分ましだ。この道がどこに続いているかは分からなくても、たどっていけば必ず、人里に下りられるはずだ。どっちに行くかは、これから決めるとしても―――これで、少しは希望が見えてきた。僕はとりあえずひと息吐くことにした。
道の真ん中に立って、僕は辺りを見回してみる。
ここへ来るまでに沢があるような気配がしていたけど、たぶんこの道を挟んだ向こうだ。杉の大木の幹の蔭から見ると、下は白い石を敷き詰めた河原になっていて、澄んだ色の小川が流れていた。
沢に下りる道を僕は探した。それから、ひと息つくのはそれからだ。それがただの川の水でも飲みたかったし、さっきから痛んだ首の軋みが堪えがたくなっていた。
なんとか傾斜を降りると、僕は河原を渡り、清流の流れる岸にたどり着いた。
両手を入れると、水は手が切れるほど冷たい。
「ふーっ・・・・・・」
僕はそれを一口飲むと、よく冷えた両手で首筋を冷やした。
すると、突然、断線していた記憶の一つが蘇った。
「―――あ」
そうだ。そもそも―――
この首をやったのは、絢奈のせいだった。
「見つけたっ、お兄いっ!」
あのとき―――
まさか絢奈が本気で、後ろからドロップキックをしてくるとは思ってはいなかった。
え? つーか、ドロップキック?
一瞬何が起こったか、僕には判らなかった。あのあと適当な駅で降りた僕は、あてもなく歩きはじめていたからだ。
「いった・・・・・なにすんだよ、絢奈」
首を抑えながら僕は、あまりの痛みに思わず悲鳴を上げた。実の妹とは言え、人生の経験上、女の子に背後からドロップキックを喰らったのはこれが初めてだった。
しかも喰らったのは舗装してあるとは言え、砂まみれの農道の上だ。そのまま乗っかってきた絢奈の下で僕はさんざん咳きこみ、砂まみれになった唾を吐くはめになった。
「絢奈から逃げられると思った? お兄いの考えてることくらい、すぐ分かるんだから。はいっ、絢奈も先生に謝ってあげるから、とにかく学校へ戻るっ!」
「なんでお前と謝るんだよ。おれも絢奈も別に悪いことなんかしてないだろ」
無様に這いつくばった僕の上に、腰に手を当てた絢奈は胸を張って立ちはだかった。不意打ちした癖に、なんでこんなにこいつ堂々としてるんだ。
「問答無用。絶っ対逃がさないのだっ!」
「なんだよ、のだっ、って!」
小さな体格の癖に絢奈はすごい力で僕の背中にしがみついてくる。アプリコットブラウンにブリーチをかけて二つに結んだ小さな三つ編みの束が、そのたびにぽよぽよと揺れた。あの電話の後、なりふり構わず飛び出してきたらしく、制服のブレザーは道端に置いたバッグの上だ。よく見るとブラウスの第二ボタンも胸元の赤いリボンもほどけかけていて、兄としてはさすがに目のやり場に困る。
「絢奈、次、体育の時間だったんだからね。もう、手間かけさせないでよ」
そう言って絢奈は、意志の強そうな口元をきゅっと結んだ。マジになられるとそれはそれで困る。その小ぶりな顔立ちに不釣り合いなくらい大きく、切れ上がった二つの瞳が少し潤んで僕を見つめてくる。
「―――どこに行くつもりだったの?」
この目で見上げられると、僕は何も言えなくなってしまう。
「悪かったってば。絢奈には迷惑掛けたよ」
絢奈は僕を一旦突き離すと手を上げて、僕の右肩の辺りを叩いた。
「迷惑掛けたじゃないよ。どうしていつもそうやってどっか行こうとするかな!」
僕は顔を背けた。
「判らない。―――親父に似たせいじゃないか。うちの馬鹿親父」
「お兄いの馬鹿」
言うと絢奈は驚くほど強い力で僕にしがみついて、ほんのりと紅く、血の気がのぼった顔で僕を睨んだ。
「ふらふらしてて、どっか居なくなっちゃうなんて絶対許さないから。学校戻らなくてもいいから、とにかくいなくならないでよ。お願い」
「分かった、って―――悪かったよ。絢奈、家出とかじゃなくて、ちゃんと帰ってくるつもりだったから」
「お父さんだってそう言っていなくなったじゃんか―――絶対信用しない」
すいません。そう言われると、何も反論できなくなる。
「それにしてもさ―――いくらなんでも手回し良すぎだろ。本当にどうしてここが分かったかな」
「それは―――だって」
僕の言葉に口ごもった絢奈は眉をひそめ、それからかすかに顔を曇らせた。
「絢奈が知らないと思った? この辺り、お兄いがお父さんと来てた場所があるとこじゃん。お父さんがいなくなった日だって、ここ―――探しに行ったじゃんか」
「――――」
鋭い絢奈の指摘に、僕は返す言葉がなかった。
「お兄いが時間潰してたの、あの神社でしょ? 分かるよ。お兄いが絢奈に何も言わないいでどっかに行くとしたら、絶対、そこに行くもん―――ねえ、お兄いも絢奈の前から消える気?」
僕の腰にしがみつく絢奈の腕の力が、急に強くなる。
「―――そんなことないって」
絢奈は僕の胸に顔を埋めて、首を振った。
「ううー、絢奈と帰るって言うまで絶対離さないから」
「痛いよ。悪かったって・・・・・」
(あの神社―――)
そうか、僕はあそこで時間を持て余してたんだっけ。
そうだ。それから―――僕は絢奈に、後ろからドロップキックを喰らって―――首が痛いのは、絢奈の全体重がそこにかかったからだ。で、問題はその後だ。ドロップキックの後は――――?
川の水を使いながら、そんなことを考えていると後ろで砂利の鳴る音がした。
反射的に僕は振り返った。
「――――!」
音がしたので僕は何気なく振り返ったけど、むしろ驚いたのは近づいてきた向こうの方みたいだった。
そこにいたのは、随分小柄な女の子だった。背格好は、絢奈と同じくらいか、それより小さい。年も一つか二つ、下ぐらいかも知れない。黒くて艶やかな髪の毛を結わえて、ポニーテールみたいにしている。意志の強そうなつり上がった眉と、紫色に澄んだ瞳が鋭く切れていて、薄い色をした唇と同じように、ちょっと取っつきにくそうな印象があった。
そして何より不思議なのは、その子の服装だ。和服姿の人―――それも、同じ年頃の女の子がそれを着こなしている姿を見たことがなかったから(それにこんな山の中だ)、最初に見た時は、戸惑った。それに彼女が身にまとっていたのは。
鎧だ。
彼女は、黒い木綿の生地に金色の蝶の刺繍があしらった着流しを着て、その上から、緑色の胴丸をつけていたのだ。(そのときは、胴丸なんて言葉は、知らなかったけど―――それが時代劇で見る鎧の一種だと言うことは分かった)腰に佩いているのは龍の彫金の入った丸鍔の太刀。柄は黒漆を塗った鮫皮で、鞘は金蒔絵の春草―――その上から、柳の葉の刺繍が細かく入った紅いマントを羽織っていたから、僕には彼女が僕より少し下くらいの男の子にも見えた。
ドラマの撮影? まさか? もしかして―――
どこの山奥かは知らないけど、大河ドラマの撮影か何かかも知れない。すぐにそう思った。さっきまでの異常な事態のせいもあったし、そこであまりにも異様ないでたちの人に出くわしたので、僕は混乱して一瞬思考停止に陥ってしまったが、それなら助かった。安心して僕は、話しかけた。
「あの―――すいません」
僕が口を開くと、彼女は一歩後ずさった。
「ここって、どこですか?」
彼女は答えなかった。代わりに、その鋭い眼を上下させてめまぐるしく僕を見た。
「―――ソラゴトビト」
「え?」
「どこから来た?」
そこで彼女は初めて口を開いた。声はやっぱり、女の子の声だ。僕はとりあえず自分の住所を告げた。それを彼女は、胡散臭いものを見るような顔をして聞いていた。
「道に迷ったみたいで―――ここがどこだかよく分からないんです。絢奈―――君と同じくらいの女の子なんだけど―――妹も一緒だったはずなんですけど」
「あやな?」
誰のことだ? そう訊いているのだろう―――深い色の瞳が拡がった。
「僕の妹です。一緒にここへ来たはずなんです」
大きくため息をつくと彼女は、白い何かを差し出した。僕が手に取るとそれが何か即座に分かった。
これは―――絢奈の携帯電話だ。
折りたたみ式の白いボディにも、アプリコットブラウンのトイプードルのストラップにも見覚えがある。絢奈の携帯に間違いなかった。電源を入れようとして僕は、愕然とした。
「これ―――」
その電話は、僕が言葉を失うほど無惨に壊されていた。
よく見るとボディは、細かい傷だらけだった。開いたディスプレイの右上からナンバーキーの左下辺りにかけて特に大きくひび割れがあり、それが僕に恐ろしい想像をさせた。
僕は思わず、彼女に詰め寄っていた。
「間違いない―――これ、妹の携帯です。どこで拾ったんですか? 妹は―――」
次の一瞬―――
僕は何が起こったのかすぐには理解できなかった。
突然、視界が九十度反転して空を見上げたかと思ったら、背中から冷たい水を被った。彼女が僕を信じられないほど強い力で突き倒したんだと気づくのに、それから一呼吸かかった。
「不浄もの―――我に触れるなっ」
「き、きみっ―――」
言葉をつぐ間もなく、彼女は反転してどこかに走り去った。
―――僕は冷たい河原に尻餅を突きながら、その音を聞いた。
空気を裂いて、鼓膜の奥まで突き刺すようなその音は、誰かの悲鳴のような音だった。後で分かったことだ―――そのとき射られたのは、合図用に笛穴を開けられた鏑矢だった。どこか断末魔を感じさせるその音に僕は身体をすくめ、頭を抱えた。そのどの一瞬に、僕はどうやったかは分からない―――でも、僕は彼女が残したビロードのマントの端を掴んだ。彼女はそれを捨てて去ったのだ。
地響きと、馬のひづめの音と人のいきれ。初めにここに来たときに、どこか遠くで聞こえていたその音が、自分の間近に迫ってくるのを感じたのはそのときだった。気づくと、僕はマントを抱えてもとの道を走り去ろうとした。
見るだけで恐ろしい男たちの集団が、僕を取り囲んだのはそれからほどなくしてだった。
こうして僕は大きなけもの道の真ん中で、大勢の足軽たちに取り囲まれたのだ。
(え、これって・・・・・時代劇の―――本当に撮影なのか、本当に?)
僕は状況を把握しようとする気も、どうにか自分の中で合理化しようとする意欲も失せて、ただ恐怖した。
そこに現れた男たちの殺気は、ひどくリアルだったからだ。
「おい、クソガキ」
荒馬を輪乗りした、あごの大きな男が僕に聞いた。
「その手に握りしめてるの、それ―――鵺噛童子―――野郎のものだよな。確かに」
ぬえがみどうじ?―――正直、意味不明だった。
「お前、やつの一味だよな。やつはどこだ?」
僕の目の前に突きつけられたのは、確かに刃物だ。
それも、今、生き物の命を奪ってきたばかりの刃物――――
その圧倒的なたたずまいに、僕は言葉を失った。これは時代劇の撮影なんかじゃない。今、そこにあるのは本物の武器だ。しかも、人を殺している。刃先から漂う甘酸っぱいような、肉が腐った生臭い臭気―――鼻ばかりでなく目や口の中まで刺激してくる強い臭いだ――これは撮影用の血糊なんかじゃない。本物の死肉の臭い――ずぶ濡れの身体に、今まで経験したことのないような冷気が奔った。
「その見るも異風な装束、お前、ソラゴトビトやなあ―――」
ソラゴトビト?
あごの大きな男がまたわけのわからないことを話した。
「奴輩も、ほんに酔狂な物の怪よ。今や京に掃いて捨てるほど巣食う喰い詰め者どものみならず、かような気の触れた者どもをば、助くるのやからのう」
あごの大きい男が嘲るような調子で煽ると、背後の男たちが野卑な声を上げて嗤った。でも僕には男の話していることはおろか、なにを話しているのすら、ほとんど聞き取れないし、当然、理解も出来なかった。
(さっきの子といい―――こいつらも一体・・・・・?)
「化け物の考えることはほんに分からんわ。じゃが、わいらはわいらで落とし前はつけねばならんからの。今宵は、この餓鬼の首で気を収めるより他あるまい―――坊主、ここで首になるか?」
僕は反射的にかぶりを振った。何を話しているかは分からないが、話の流れを見れば、一歩間違えたら僕が殺されることは分かったからだ。
「やつはどこだ? やつのねぐらは?」
やつ?――――それは、誰のことだ?
言葉が出ない僕の前に、男は降り立った。そして薙刀の前にしゃがみこみ、僕に顔を近づけると、眠たげな口調でゆっくりと囁いた。
「言い逃れは出来んぞ。おのれ―――やつの羽織を持っておるやろうが」
刺すような男の言葉に、僕は慄いた。そこで初めて僕が、あの子の―――彼女が落としていったマントを握りしめていたことに気づいた。
「話さねば首を刎ねさせる。やつはどこぞ? ねぐらを吐かぬかっ」
野良犬のように生臭い男のいきれを嗅ぎながら、僕は息を呑んだ。なにか、なにか答えなきゃ殺される。そう思うのに言葉が出なかった。何かを口に出そうとすると早鐘のように動悸がして、喉元に甘酸っぱいものが跳ね上がってくる。声を出そうとして、僕は思いきり、えづいた。
「クソガキが」
その様子を見て男は残忍そうに顔を歪めると、吐き捨てた。
「もうよいわ。殺せ。腹いせじゃ。こやつの首を六条の辻に晒したれ」
殺される? 嘘だろ? そのとき頭の中は、混乱した言葉群でいっぱいだった。僕はどうして―――今、どこにいる? 絢奈は? あの異様ないでたちの子は? そして、僕を殺すと言っているこの男たちは? 誰も何も答えてはくれなかった。このまま、この男たちが何を言ってるのかも分からないまま、僕は殺されるのか? もう、何も考えられない。深い穴に落ちたみたいに気が遠くなった。
――――やれや。
男が手を振った時だった。
「待てよ、若軒―――なにも、ここで殺すことはないだろ」
若い男の声が後ろで上がった。それはどこか間のびしていて、さっきまで昼寝でもしていた人の声みたいだった。
「つーか無暗に人の首を刎ねるなよなー」
「なんやと―――おまえ、この無骨の若軒の下知にさからう気か?」
――――童子切の煉介。
若軒と言われたそのあごの大きな男が、若い男の名を呼ぶ。
それが―――煉介さんとの出会いだった。
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