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Episode:[Unplugged.]
ちょうどこんな風の強い日だった。
5月も終わりに近付いた、ある春の夜。
僕は死んだ。
僕を引き取った祖父母は、その日のうちに後悔しただろう。
「この子は野良犬のように育てられて、人間らしさのカケラも無い。ごらん、あの瞳…黄金色を帯びて、まるで野生の狼のようだ」
引き取られた晩に、そう言って僕を指差した祖父の指を噛んだ。
引き千切ってやるつもりで噛んだのに、年老いた男の指は思いのほか固く、代わりに思い切り蹴り飛ばされて壁に突っ込んだ拍子に、僕の歯が折れた。
立ち上がれなくなるまで蹴り飛ばされて、それでも呻き声ひとつ漏らさない僕に、その場にいた全員が嫌悪感いっぱいに眉を顰めて口々に神の名を呟いた。
何を祈るの
何も与えてくれない
ソンナモノに
祖父は口と鼻から血が溢れて窒息しそうな僕を、タオルにくるんで納屋の2階へ放り投げた。
ああそうか、彼は僕をココで飼うつもりなんだな。
祖母は固くなったパンを一切れと、冷えて脂が固まったシチューを持ってきた。それから血で汚れた僕の顔や服を無言で整える。
ああそうか、彼女は僕をコレで餌付けするつもりなんだな。
それから僕は、彼らに噛みつく事も口答えする事も一切やめた。
だって、母さんに言いつけられていたから。
「よく聴きな、あたしたちは生かされてるんだ。金をくれる人を崇め、寝床を与えてくれる人を敬い、慰めをくれる人を愛して、決して口答えするんじゃないよ。そうすればあたしたちは、今日一日生き延びられる。忘れんじゃないよ、シンクレア」
分かってるよ母さん。
僕はいつだって上手く飼い慣らされてみせる。
だから心配しないで、
安心して死んでいて。
抵抗も反抗もやめた僕を、祖父母は上手く飼い慣らせたと思っているだろう。
僕に部屋を与え、新しい洋服を着せてブリーチで傷んだ髪を切り、先ずは人間らしく振る舞う術を説き聴かせてみせた。
聖人気取りでもっともらしい事を並べ立てる。僕はそれを有り難く聴き入ってみせた。
正しい人間なんてドコにも居ない事を知っている僕に。
正しい人間のフリをして生きろって。
正しい人間のフリをして僕を飼い慣らす祖父と、
正しい人間のフリをして僕を餌付けする祖母と、
正しい人間のフリをして僕に同情する沢山の素晴らしい大人たちによって、
僕は正しい人間のフリをして正しく生きた。
同い年の子供のように会話が出来るようになるまでひと月。
同い年の子供のように読み書きが出来るようになるまで3週間。
同い年の子供のように“良い子”になるまで一週間。
同い年の子供の知能を越えるまで3日。
同い年の子供のフリを演じて一年。
ピアノを教えるわ、と言ったはす向かいのお姉さんが教えてくれたのは、女性の正しい悦ばせ方で。
いつもお遣いしていて感心だからご褒美をあげよう、と言った雑貨屋のおじさんがくれたのは、男性の正しい悦ばせ方だった。
みんなみんな、正しい事を教えてくれる素晴らしい大人たち。
僕は感謝して歓喜して、正しく受け取った。
母さんの言いつけはいつでも正しい。
だってほら、誰も僕を正しくないなんて叱らない。彼らにとって正しい事が、いつでも正しいんだ。
正しくないって事を教えてくれる素晴らしい大人は、誰一人居ないんだ。
「そういうの、楽しいか?」
今日初めて口を聴いたクラスメイトに、生まれて初めての質問をされた。
「そういうの、疲れねェ?」
いつでもその場面での正しい答えを返せる僕が、初めて答えに迷った。
「お前の笑顔、気味悪ィんだよ。そんなんでちゃんと笑ってるつもりかよ?……笑わせるよな」
正しいフリをした大人たちが口を揃えて言っていた。アイツには近付くなって。
触れたら最後、ズタズタにされてボロボロになって壊されるって。
老若男女問わず食い物にするインキュバス、忌み詞のようにみんなが避ける名前───
「…バズ…」
僕は知っていた、彼の名を悪意を持って呟くヤツはみんな、彼を忌み嫌いつつも惹かれて触れて、傷付いたんだ。
(彼がインキュバスなら僕はサキュバスかな)
僕は、僕に出せない答えを持っている彼に触れてみたい、と思った。
(触れたら死ぬのかな、殺されるのかな)
──あぁでも、僕はもう死んでるから大丈夫。
母さんが死んだあの夜、僕も一緒に死んだ。
僕がこの世界で欲しかったのは母さんだけだったし、母さんは僕を欲しがらなかったけど、僕の世界は母さんの為だけに在ったのだから。
僕の世界はあの日、壊れてしまった。
ココにいるのは僕のフリをした僕。誰にもなれない「僕」という誰か。
「来いよ」
「ドコへ」
「俺が来いって言ったら黙って来いよ、テメェが来たいかどうかじゃねェ。そうやってずっと食い散らかして来たんだろ、お前は。……違うか?」
───あぁ、そうかやっぱり彼は…
僕に無い答えを知っている。
触れさせて…
傷付けて、
壊して、
与えて、
そして殺して。
僕のフリをした僕をココから解放して。
「先ずはその女々しい言葉遣いをやめろ。俺の前で二度と使うな。それから名前を棄てろ、『シンクレア』はもうこの世界に居ないんだ」
正しい事を棄てろ。
彼の冷たく美しいアイスブルーの瞳が、僕の息の根を止めた。
彼との奇妙な関係は、僕の世界の色を変えた。比例して周囲の目の色も変わった。
誰も文句のつけようがない“良い子”だった僕の髪が以前のような金色になり、ピアスを開け、誰のための良い子でもなくなったから。
祖父母や母さんの兄弟だと名乗る人たちは、寄ってたかって僕を詰って、頬を打った。それでもダメだと知ると反対の頬を打った。
僕は抵抗も反発もしなかったけど、ただ、無視した。
彼らには僕の世界の色を変えられない事を知っている。
彼らは僕が欲しい答えを持たない事を知っている。
だから、僕には必要ない。
バズとの関係は、本当に奇妙だった。
彼は僕に何も望まない、何も聴かない、与えない。
ただひとつだけ、居場所をくれた。
だから僕も彼に何も望まない、聴かない、与えない。
したい時にセックスをして、好きな物を食べて、気持ちの良い音楽を聴き、眠りたいだけ眠った。
僕たちは一日中口を聴かない日もあれば、眠る事も忘れてひと晩中抱き合う事もあったし、気が向けば女の子を呼んでみんなで楽しむ事もあった。
僕は女々しい言葉を使わなくなったし、彼が僕を「シンクレア」と呼ぶ事は、ただの一度もなかった。
彼が使う言葉は正しくない、と大人たちは言った。
けれど彼の話す言葉は、他の誰よりも綺麗な響きで僕の心に届いた。
彼は美しかった。彼の世界は美しかった。
彼の世界に触れると、僕の呼吸は楽になった。彼と居ると、僕は自然に呼吸が出来る。
生きている、という事を知った。
「俺の母さんはね、売春婦だったんだ」
“売春婦”。
正しい大人のフリをした祖父母が母さんをそう呼んだ。正しい言葉を選んで、自分の娘をそう呼んだ。
それはきっと正しいのだろう。
だから母さんは彼らと決別したんだと思う。
自分たちにとって正しくない事を理解出来ない彼らには、母さんや僕やバズや、──多分彼ら以外のすべての人間の何もかもが正しくないのだろう。
「俺も客を取ってた。そういう趣味の人は掃いて捨てるほど居たし、安く楽しめるって、評判だったんだよ」
生かされていた。
母さんの言う通りに。
ただ、僕は生きていたくなかった。
一番欲しかった唇も声も笑顔も温もりも与えられない世界はずっとモノクロで、ノイズと細切れのフィルムで構築されていた。
「母さんが死んだ時本当は、あぁこれでやっと終わる、生かされないで済む…って、安心したんだ」
けれど現実は残酷で。死に損ないの僕はまた生かされる事になった。
望まない現実をただ次々に与えられ、僕じゃない誰かの為に生き長らえる日々。
救われた気がしたのは、彼と出逢った事。
「…ねぇ、バズは何で俺に声掛けたの?」
「別に理由なんかねェよ。──ただ、」
ヒトリボッチハ
サビシクテ──
僕たちは道連れが欲しかったのかもしれない、もしかしたら、
多分きっと。
身体の隙間を埋める相手ならお互いに不自由しなかった。
けれど、心の隙間を埋めるには──
初めて言葉を交わした日に、彼は僕を「シン」、と呼んだ。
未来永劫決して払拭される事のない、罪と咎の記憶。
僕が罪なら、キミはきっと罰。
バズとの別れは突然だった。
別れは大抵突然だけど、彼は嵐のように去った。何ひとつ残さずに。
彼が住んでいた家に“for sale”の札が掛かってから、僕はまた居場所を失って彷徨った。
僕たちは確かに惹かれ合っていた。ただ、あまりにも似すぎた。
合わせ鏡のような僕たちは、同じ痛みを感じながら決して交わる事はなく、ひとつにはなれないという事を初めから知っていた。
一番近い存在でありながら、互いの隙間を埋め合わせる事は出来ない。
身体を重ね合うのは容易い──
けれど、足りないパーツを補い合う事は出来ない。
それはお互いをヒドく失望させる現実で、惹かれるほどに傷を増やす。
傷付けた分だけ傷付き、傷付いた分だけ傷付けた。
だからきっと、長く依存し続ければいずれ2人共に壊れてしまうと知っていた。
それでも依存し続けなければ、僕はもう自分を保つ術が無かった。
彼が僕の前から姿を消したのは、その所為だという事も分かっていた。
シンクレアとして手に入れたのは、孤独な死。
シンになって手に入れたのは、贅沢な孤独。
僕はもう一度あの孤独な世界で、孤独な死を迎えるのだろうか。
けれど彼が僕に遺したモノは思いの外強く、僕は歌う事で自分の世界を構築する術を覚えた。
彼と過ごした時間は、確実に僕を変えた。それは正しいフリをした人間には正しくない形に見えただろう。
けれど、歪み捻れて保たれる真実もあるのだと思う。
曇り空のような灰青の、バズの世界は淋しくて、そして本当に美しかった。
彼を失って、僕の世界はモノクロに逆戻り。
ただ、そこかしこに残された淡い色彩が浮かんでは消え、シミのように褪せては僕の歌声に変わった。
色を喰らい歌に変え、彷徨い続ける事しか出来なかった。
孤独な世界をその場しのぎで埋めながら、上っ面の仲間と過ごす日々。
それはまるで、果てのない浅い海を歩き続けるような……
立ち止まれば次第に足元の砂は崩れて、進むには潮の満ち干が枷になり、
引き返すにはもう遅く。
空っぽになった心と身体で、ただ前へ前へと、生き続けるしかなかった。
終わりを求めても空しいだけで。
誰かがピリオドを打ってくれる事を密かに期待しながら、感情を切り離したまま人と交わる中で…
僕はもう戻れないところまで、心を亡くしてしまっていた。
──囚われたのはほんの一瞬の出来事で。
堕ちた事にすら、僕は気が付かなかった。
出逢った瞬間、僕の世界がスパークした。
色鮮やかな火花を散らして、ずいぶん長い間薄く靄がかかっていた視界が、一瞬にして鮮明になる。
何が起きたのか、僕にも理解出来なかった。
ただ、確かに触れたんだ。
豊かな色彩を放つ、彼の世界に。
鴉の濡れ羽根に似た艶やかな黒髪、黒曜石のような漆黒の瞳。
(…あぁ、彼はきっと、世界の果てを知ってる)
僕が欲した世界の終末を、彼は知っている。
焦がれて、
求めて、
受け取って、
そして与えて。
螺旋を描いてそれはまた最初から紡がれて───終末から始まる次の世界を、彼は知っている。
それは、予感。
錨を巻き上げる。
僕の中の一番深い場所で、確かにその音を聴いたんだ。
「泣いてるのか?」
浅い夢の淵を漂っていた僕を、現実へ引き戻す優しい声。
「…夢、見てた。懐かしいような……お伽話みたいな、ヘンな夢…」
ドコまでが自分の過去で、ドコからが夢だったのか?……思い出せない。
分かっているのは、目の前にいる彼は現実で、そして僕は、──心から彼を愛している、という事。
もしかしたらそれだけが真実で、それ以外の総てがデタラメで──もしかしたら、本当の僕は両親に愛され祝福を受けて、何の穢れも知らないまっさらで幸福な子供だったのかもしれない。
けれどそれはただの願望で。モノクロだった現実を、微かに覚えている。
「…J.J…俺ちゃんと、生きてるのかな。…もしかして、コレもホントは全部夢なんじゃないかって──」
「だったら、確かめてみればイイさ」
僕の手を取って、掌に甘く口付ける。
「お前の気が済むまで確かめてみろよ、シン。……俺は、幻か?」
優しく笑いながら、少しだけ拗ねたように眉を下げる。
──そうだね、
何ひとつ夢なんかじゃない。
母さんはあの夜確かに死んだ。
そして僕は、それを見届けた。
母さんの息子だった僕は死んで、抜け殻からバズが「シン」を創ってくれた。
バズからはぐれて奔放に疾走する僕の軌道を修正してくれたのは───
確かにキミだった、J.J。
何ひとつ間違いじゃない。
だけど誰一人、正しい答えを知らない。
ただ過ちと祈りを繰り返しては、自らの答えを探す。
「…朝まで、付き合ってくれる?」
導かれるまま手を伸ばして、暖かな魂に触れる。
彼が何て答えるのか、心のドコかで知っていながら。
風の強い春の日の、夜のコトだった。
──end.
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