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<R18> 18歳未満の方は移動してください。 この作品には 〔ボーイズラブ要素〕 が含まれています。

リトルサーメイド

 人間って、本当に凄い。
 手の中できらきらと青色を反射する塊を熱心に見つめながら、司郎は興奮気味に呟いた。
 銀色の表面を覗き込めば、灰色の髪をした男が映り込む。あれは誰だろう。知らない男が、司郎の手の中の銀板の中からこちらを見ている。こんな細工を作れる人間は、本当に素晴らしい。同意を求めて再度言えば、やれやれと呆れたようなため息を返された。
 ムッとして顔を上げる。飽きるほど見慣れた友人は、波に漂いながら哀れむようにこちらを見ていた。
「司郎は本当に人間狂いだね。君ほど人間に好意的な人魚は、他にいないよ」
 手の中のものを一瞥して、彼は仰向けて波に漂う。司郎の数少ない友人は、それでも司郎を頭の病気と言わない唯一のひとりだった。
 多くの人魚にとって、人間は嫌悪と恐怖の対象だ。過去、たくさんの仲間たちが人間に捕まって酷いことをされ尽くした。幼稚園からそう刷り込まれ、教科書にも人間の残虐行為が山と載っているのだ。人間を好意的に見る司郎は、いつだって異端者扱いだった。
「人間を見たこともない連中が、あることないこと言って勝手にビビッてるだけだろ。俺には、人間どもがそう悪いやつらばかりとは思えない」
 言いながら、もう一度手の中のものを覗き込む。青い海と、白い海面と、灰色の男が映っている。
司郎が首を傾げれば、男も同じく首を傾げる。素晴らしい細工品だ。こんなものを作れる人間が、極悪人ばかりなはずがない。
 人魚の中でもサメの半身を冠する司郎にとって、皆が傅く海の中はひどく退屈で、孤独な世界だった。一度でいいから、陸に上がって歩いてみたい。そう思い続けて、もう何年にもなる。その間拾い集めた人間たちの落し物は、全て司郎の宝物だ。
「海の中ですべてを思いのままにできる君が、それゆえに海の中に留まりたがらないのは、ある意味自然の摂理かもねぇ」
「別に俺は、人間を負かしてやりたいとか、そういうんじゃない。ただ陸の方が楽しそうだと思うだけだ」
「じゃあ、漁師の網にでも掛かって水揚げされてみたら? 残念ながら、僕はお供できないけど」
「"人魚姫"の、それもオスが網にかかったなんてことになったら大騒ぎだろ」
 わかってるじゃないか、と笑われる。
 その通り、司郎とてわかっている。このままの姿で、下半身に尾びれをつけた姿で、陸に上がることは出来ないのだ。その見た目はあまりにも人間と違いすぎる。
「ああ、人間と話してみたい」
「無茶な願いは身を滅ぼすよ、司郎」
 友人の忠告は右から左に抜けていく。
 ごぽごぽと昇った気泡が弾ける水面を見上げて、司郎は夢見がちなため息を吐いた。

-----

 司郎がそれを見つけたのは、潮の流れの速い日だった。
 空は暗く、海面近くは右に左に大きく波打っている。5メートルも潜れば海の中は穏やかだったが、それでも潮の流れはいつもより速い。海の上は嵐に見舞われていた。
 そんな折、真っ黒な服に身を包んだ人間がひとり、岩肌に張り付いて何かと格闘していた。あの格好をした奴は皆「ダイバー」と言うのだと、以前友人に教えられたことがある。いつも大袈裟な荷物を背負っているのは、肺呼吸しかできない彼らが、海の中でもきちんと呼吸できるようにするためらしい。
 ほかの人間がいないか注意深く観察しながら、司郎は少し離れた岩陰からそれを見守る。人間は、潮の流れに流されないようにするためか必死で岩に生えた海草に掴まっていた。
 しかし悪いことに、どうやら掴まったところがちょうどタコの巣に近かったらしい。くぼみに生みつけた卵を盗られると思ったのか、大きな水ダコがダイバーに足を伸ばしていた。
「大丈夫か、あの人間・・・・・・」
 たくさん吸盤のついたタコの太い足が、がばりとダイバーの顔面を襲う。ダイバーは必死に引き剥がすが、吸盤の吸い付きは凄まじい力だ。べり、となんとかタコの足を剥がす拍子に、人間が顔につけていたでこぼこしたものがいくつか外れた。
「!」
 途端、人間が慌てだす。目のところにつけていた透明な板が入ったものが、彼の頭から外れて潮に流されていった。口に咥えていたものは腰のあたりでふらふらしているが、目が開けられないらしい彼の手はそれを探し当てることが出来ない。慌てた人間が、岩肌の海草から手を離す。巣から離れていくのに満足したのか、タコはそれ以上は追わなかった。
 しかし、人間はどんどん潮に流されていく。しかも、口元を押さえて酷く苦しげだ。その様子に、そういえば人間というのはエラ呼吸ができないのではなかったかと思い出した。考えている間にも、人間はどんどん流されていく。いくらなんでも10分や20分水の中にいたくらいでは死なないのかもしれないが、居ても立ってもいられなかった。
「待ってろ・・・・・・!」
 岩陰から飛び出して、尾びれで強く水を打った。加速する視界は一瞬だ。サメの強力な尾びれは、水の中で何よりも速い。
 潮の流れに合流する形で黒い影を追いかければ、ものの数秒でその足ヒレを掴むことに成功した。
「おい、おい!」
 人間を抱えて、潮の流れから抜け出すように上を目指す。抱き寄せた体は思いのほか小さかった。真っ黒な髪の毛がたゆんと水に漂い、対照的に白い顔をさらさらと隠す。その瞳は閉じられ、唇は薄く開いていた。手足にも力はなく、だらんと波に遊んでいる。
 嘘だろ、と戦慄した。人間が流され始めてから、まだ5分も経っていない。それなのに、もう全く反応が無い。
「しっかりしろ!」
 抱き締めたまま、とにかく水面を目指す。本当は、人魚が水面に顔を出すことはかたく禁じられている。けれど、そんなことに構っている暇はなかった。
 半ばトビウオのような勢いでびゅんと顔を突き出すと、そこはやはり、強い雨に晒されていた。
「おい!空気、ほら、空気だ!」
 べしべし頬を叩いて、唇を開かせる。けれど、そこから呼吸音が聞こえてくる様子はなかった。相変わらず体に力はなく、司郎が腕を離せばそのまま海底へ逆戻りしそうだ。
「くそっ・・・!」
 人間の頭が水面より上に出るよう気をつけながら、陸を目指して尾を弾く。ごつごつした浅い岩場が続くそこであちこち鮫肌を擦り剥いたが、今はそれよりも人間を助けることの方が大切だった。まさかあの恐ろしくて強いと評判の人間が、たった5分ぽっちで息を止めてしまうなんて思いもしなかったのだ。
 少し背丈のある岩陰を見つけて、波の力を借りながらなんとかそこに人間を押し上げる。ぐたりと岩にもたれた人間の頬に色はない。濡れた黒髪を掻きあげて、なんとかしてやりたい一心で強く胸を押した。
「っ、ぅ」
 ごぽり、人間の口から水がこぼれる。横向きにして今度は背中を叩いてやると、げほげほと咳き込みながら弱々しい呼吸音がした。
「おい、人間!しっかりしろ!」
「ぅ・・・・・・」
 その時だ。
 岩のすぐ向こう側から、いくつもの人間の足音がした。聞き慣れないその音にハッとする。人間が、すぐそこにたくさんいる。
「おーい、ミナトー!」
「ミナト、いるかー!?」
 人間達は、叫びながら近付いてきた。いくら司郎が人間に好意的であると言っても、このサメの半身のまま彼らの目に触れるのはあまりに不味い。
「っ」
 名残惜しく思いながら、たったいま助けた人間を見やる。まだ瞼は閉じられていたが、ゆっくりと胸は上下し始めていた。
 ――大丈夫、生きてる。
 岩を離す。頭から荒れた海面に飛び込み、尾びれで強く水を蹴った。離れがたいが、仕方が無い。今の自分では、彼らと一緒にいられない。
 けれど、出来ることなら。
 海の中では見たこともない美しい黒髪をしたあの人間の、ふたつのまなこが開いたところを見てみたいと、そう思った。

-----

「司郎、最近おかしいよ」
 ぼんやり波間を漂っていたところを、ぴしゃりと厳しい声に窘められる。
 気の抜けた声とともに振り返ると、そこには例の友人が相変わらずの呆れ顔で立ちはだかっていた。こちらを見るなり、ずいと顔を寄せてくる。探偵のような目付きに、思わず司郎は目を逸らした。
「何をしていても上の空だし、かと思えば突然熱心に海面を眺めてみたり」
「う、それは」
「言うなれば君は、恋をしているように見える」
 びし、と人差し指を突きつけられた。くどい言い回しが大得意の友人は、確信を持って言い切っているようだった。心当たりがありすぎるだけに、反論の余地はない。
「この前の嵐の日、君は姿が見えなかったね。どこに行っていたんだい? 何かあったとすればあの日だろう」
「か、関係ないだろ。俺だって、ボンヤリすることくらいある」
 くるりと彼に背を向けようとするものの、すかさず先回りされた。詰問するように真正面から覗き込まれて、どうにもこちらの分が悪い。
「問題は、君をそれほど悩ませるメスなんてこの海にはいないということだ。君に懸想されているなんて知ったら、喜んで産卵を始めるようなやつらばかりだからね。つまり君は、この海にはいない何かに惚れ込んだということになる」
 彼の鋭い瞳が、きろりと司郎を捕らえる。司郎にここまで強く出られるのも、つくづくこの友人くらいだ。千里眼でも持っているのかと訊きたくなるような名推理に、思わず押し黙る。
「よく聞いて、司郎。君はいずれ、この海の王になるひとだ。突拍子もない願い事は、必ずその身を滅ぼすよ」
「・・・・・・」
 諭すような友人の物言いにも、頷くことは出来なかった。
 もう、退屈な海の中はうんざりだ。彼は王になると言うが、実際のところ司郎は毎日孤独だった。どこに行っても異端者扱いされ、あるいはその強靭すぎるサメの半身ゆえに畏怖され。強い遺伝子を獲得することに熱心な一部のメスたちはシナを作って媚を売ってくるが、彼女たちはみな司郎本体には興味などない。欲しいのはその、タイガーシャークのDNAだけだ。
「でも・・・・・・すごい、美人だったんだ」
 ぽつり、口をついて漏れた言葉は止められなかった。友人が、やれやれやっぱりと言わんばかりに額に手を置いて海面を仰ぐ。
「きれいな黒髪で、肌なんか真っ白で・・・・・・あいつが目を開いたところを、どうしても見てみたい」
「司郎、」
「こんなこと思うのは初めてだ。暗い海の中で腐っているくらいなら、陸に上がって、刺激的な1日だけを過ごして死んだ方がマシだ」
 言い切って、友人を見据える。
 ヘビの半身をぬらりと揺らしながら、海蛇の人魚である彼は割れた舌をちらつかせた。
「・・・・・・僕が、どうしても君を引き止めると言ったら?」
 目を伏せる。友人の金色の瞳の中で、瞳孔が細く収縮していた。
 それでも、司郎も退くことはできなかった。
「お前との友情を失っても、俺は陸に上がる」
 絞り出すように、自分自身の胸を痛めながら言った。友人はしばらく間を置いて、そう、とだけ応じる。
 しばし沈黙が流れて、イソギンチャクが2回食指を開く頃だ。
 黙ったままだった友人が、こぷりと泡を吐きながら顔を上げた。
「今の君を無理に引き止めたら、何をしでかすかわからないね」
「足が無くたって、捕まって研究材料にされたっていい。俺はただひとめ、あの人間が生きて動いているところを見られればいいんだ」
「・・・・・・わかった。けれど、それはあまりに無謀だ」
 おいで、司郎。海蛇の彼が手招きする。彼が大きく口を開くと、その奥歯の辺りに鋭い牙が見えた。海蛇は積極的に攻撃してくる性質ではないが、強力な毒を持っている。
「僕の毒の力で、君を1週間だけ人間にしてあげる」
「な・・・・・・」
「特別な毒だよ。1週間だけ人間になれるかわりに、その1週間の間に解毒しなければ君は死んでしまうだろう。これはそういう、遅効性の猛毒だ」
 どうして協力してくれるんだ、そう言ったつもりだったが、実際には声は音になっていなかった。いつも穏やかに笑っていた友人の牙を初めて見たのだ。彼にそんな力があることも、もちろん司郎は知らなかった。
「本当は、陸になんて行って欲しくない。けれど君がどうしても行くと言ってきかないのなら、せめて僕は、少しでも君が安全であるように協力したい」
 人魚のまま陸に上がるなんてそれこそ自殺行為以外の何者でもないからね、と彼は寂しげに笑った。黒と白の縞模様が美しい彼の尾は、先がほんの少し切れている。まだ幼く上半身も人型を取れなかったときに、人間にひどい目に遭わされたらしいという話は聞いた事があった。
「解毒方法は、人間に口から毒を吸い出してもらうほかない。僕たち人魚が吸い出したら、吸った方が毒にやられて死んでしまうからね。人間には効かない毒なんだ」
「毒を吸い出したら、俺は、人魚に戻るのか」
「そりゃそうだよ。たったひとめ見るだけでいいんだろう? 1週間もあれば十分なはずだよ」
 言って、彼はするりと司郎の肩を抱いた。くぱりと開いた唇が、柔らかく首筋に触れる。耳元で小さく、「いいかい?」と囁かれた。ぎゅっと目を閉じて、顎を引く。
 ずぐり、肌に穴が開く感触がした。

-----

 漆黒の髪と、細い首筋、抜けるように白い肌。その姿を見留めるや、司郎は海の神に感謝した。
 生えたての2本の脚でよたよたと岩場を歩いていると、早速見つけたのだ。あの時の人間、確か、ミナトと呼ばれていた彼が、すぐそこに腰掛けている。ちょうど死角になる岩陰に隠れながら、司郎は早鐘を打つ心臓を押さえた。
 ――いる・・・!
 こっそり覗く。
 黒い皮のようなスーツはべろんと上半身を脱いで、白い肌が顕わになっていた。ペットボトルのふたを開け、中身を煽る。ごくりと上下する喉仏のなんと扇情的なことか。幸い彼の周りに人影はなく、彼はひとりで海を眺めているらしかった。
 陸に上がってすぐにこんなチャンスが訪れるなんて、幸先が良いにもほどがある。今にも飛び出しそうになるのをなんとか堪えて、深呼吸を繰り返す。
 格好におかしなところはないだろうか。人間は裸じゃおかしいという友人の助言で、随分前から岩場に引っ掛かっていた下着のような水着をつけてみた。盗むようで気が引けたが、もうずっとあのままだからきっと落とした人間は諦めたのだろう。下は布が足りなくてはみ出そうだし、上は上で一体何の意味があるのかよくわからない、女の人魚がする乳吊りに似ていたが、これで人間らしく見えるというなら安いものだ。
 今一度自分の全身を確認して、問題なしという結論に至る。
 ごっくんと唾を飲み込んで、ゆっくり岩場から顔を出した。
「・・・・・・」
 そろり、そろり、人間の方へ歩いていく。もともと足場の悪い岩場だから、つかまり歩きもさほどおかしくは見えないだろう。
 人間、ミナトは突然現れたこちらを一瞬ちらりと見たけれど、しばし目を点にして、すぐに逸らされてしまう。少しばかり怯んだが、彼にとっては初めて会う他人なのだから当然の反応だ。自らを鼓舞し、ずんずん彼に向かって歩く。
「・・・・・・」
 目の前に、仁王立ち。
 黒い髪の毛のつむじを見下ろして、司郎はもはや若干の達成感を感じていた。目の前に立ってやったのだ。人間の、あの美しい男の目の前に。
 ミナトが、胡乱げに、ゆったりこちらを見上げる。思ったとおり、黒曜石のような瞳だった。切れ長のまなじりに、おおきな瞳。潤んだようなそれが、きょろんと司郎を見上げていた。
「よ、よう、人間!」
「・・・・・・はァ?」
 彼が、面倒臭そうに立ち上がる。思いの外冷たい反応に司郎が固まっている間にも、彼はさっさとこちらに背を向けてしまった。今にも立ち去りそう、というか、既に歩き始めている。その手首を強く掴んだのは、ほとんど無意識だった。
「ま、待て!」
 ギロリと書き込みたくなる眼光で彼が振り返る。頭を斜めに倒すようにして睨まれて、司郎はザッと血の気が引いた。よせばいいのに、こんなときに限って教科書の人間の残虐行為が脳裏を駆け巡る。立ち上がったミナトが思いの外大きかったのも衝撃的だった。海の中で助けたときには小さいとすら感じたのに、今はかなりの差で司郎が見下ろされている。
 正確には人間の足を得た司郎がサメの半身に比べて縮んだだけなのだが、それに気付く余裕はない。
「なに」
「あっ、お、俺っ、あのっ!」
 伝えたいことが頭の中で渦巻いて、司郎は混乱を極めた。掴んだ手首がとても熱い。人間の体温とは、こんなに熱いものなのかと思う。何と言っていいのか分からず泡を噴いていると、ミナトが至極だるそうに体の向きを変える。
 真正面から向き合って、司郎の前髪を引っ掴み、それからしげしげと顔を覗き込んできた。
「俺ッ、あの、つまり、アレ、あんたのこと、好きなんだッ!!」
「・・・・・・ふぅん?」
 間近に迫る黒曜石に動揺した司郎が口走った言葉に、彼はニタリと口角を歪める。なんとも言えず、生理的に目を逸らしたくなるような、不誠実そうな笑みだった。混乱しきりの司郎でさえ、その笑顔に二の句が継げなくなる。
 彼は軽く頷くと、前髪を離し、そのまま手の甲で柔く司郎の頬を撫でる。火傷しそうに熱い体温なのに、なぜか背には冷や汗が伝った。
「なるほど、そういうアレ? いいよ、好みだし」
「え・・・・・・」
「今夜10時に、ここで」
 耳元で低く囁いて、ぱっと彼が離れる。
 追おうとしたときにはもう、彼は器用に岩を飛び移り、少し先から後ろ手にヒラヒラ手を振っていた。囁かれた耳たぶが、びりびり痺れている。
 こんなことが、あっていいんだろうか。
 歓喜に震えそうになる手を、きゅっと握って堪える。ひとめ見るだけでもと思っていたのに、あろうことか、あちらから約束を取り付けてくれた。向こうも、運命の相手だと思ってくれたのかもしれない。
 惚けた眼差しでその後姿を見送る司郎は無論、待ち合わせの時間が遅すぎることにも、男の不可解に下品な笑みにも、なんの疑問も抱かなかった。

-----

 夜の海は、とても落ち着く。
 ざざん、ざざんと心地いい波の音に耳を傾けながら、司郎は膝を抱えていた。昼間ミナトと話した岩場の手前、コンクリートで舗装された階段だ。
 あのあとすぐに、遊びに来ていたらしい家族連れの子供に指を差されて水着を笑われ、ようやくそれが女性用の水着だったことを知った。
 慌てて乳吊りをかなぐり捨てて羞恥に震えていると、笑いと焦りでなんとも言えない表情になっているその子の母親に、近くにダイビングショップというものがあることを教えられた。苦し紛れに言った「服が流されてこれしかなくて」という荒唐無稽な言い訳を素直に信じてくれたらしい。水着や簡単なマリンウェアならひと通り揃うし無料のシャワー室もあるわよと言われ、とりあえずそこで身支度を整えた。
 金はなかったが、とりあえず持っていた生え変わりで抜けたサメの歯を差し出したら大喜びで「お代はこれでいい」と握手された。定期的に生え変わる歯の何がそんなにいいのだろうと不思議に思ったが、店主が嬉しそうなので気にしないことにした。なんでも「イタチザメはとても危険なサメだから、その歯は滅多に手に入らない」らしい。たくさん持っていたので全部やると言って差し出したらさらに大喜びされた。人間の価値観はわからない。
 とにかくそうやって、街を歩いても指を指されないだけの身なりを整えて、司郎はここに戻ってきた。
しゃんぷーとか言う泡で洗った髪の毛はさらさらだ。女の人魚の間でも「絡まらずに波間に漂う髪」というのは美の基準のひとつだが、このサラサラというのはなんとも不思議な感覚だと思う。ついつい何度もその灰色の髪に自分で触ってしまって、ハッとしてくしゃくしゃかき回す。
 そういえばシャワー室で、以前司郎が海で拾った銀板のもっと大きなものを見た。あれは鏡というもので、写っているのは自分の姿だったらしい。
「ふふ、何してるのかな?」
「!」
 柔らかい声に、びくんと肩を跳ねさせる。
 慌てて振り返ると、そこには黒髪の美しい男が立っていた。昼間見た皮のようなスーツとは違う、ゆったりした服を着ている。司郎の灰色のそれよりずっと艶やかな黒髪を潮風になびかせて、彼が手を差し出した。操られるようにその手を取って、俯きながら立ち上がる。
「名前は?」
「・・・・・・司郎」
「司郎くんね。俺は、皆戸。ミナトでいいよ」
 知ってる。
 そう思ったが、司郎は黙って口を噤んだ。手を引かれるまま、階段を上る。約束どおり彼が現れたことに、天にも昇る気持ちだった。
「外でもいいんだけどね。一応、俺も社会人だからさ。俺が取ってるホテルでいい?」
「?」
 よく分からないままとりあえず頷く。1分1秒でも長く、この時間が続けばいいと思った。小さく顎を引いてみせた司郎を確認して、彼はニタリと笑う。
 すぐそこなんだと大きなホテルを指差されて、そのまばゆい灯りに目が眩みそうだった。
「でも、良かった。普通の格好で・・・・・・昼間は驚いたよ、司郎はかわいいから一瞬女の子かとも思ったけどさ」
「あれは、その、服が流されて、あれしかなくて」
「はは、いいよ。ああやってウリしてんだろ? たしかに目立つし、似合ってるからいいと思うよ」
「瓜?」
 首を傾げている間にも、ぐいと腰を抱かれる。こっちだよ、とエレベーターに乗せられて、あっという間に彼の部屋に押し込められた。
 途端、扉も閉まらないうちに後ろから抱きすくめられる。驚きよりも、嬉しい気持ちが強かった。
「あ、ミナト・・・・・・」
「俺、そんなに金ありそうに見えた? こんなかわいい子に声掛けてもらえるなんて、俺もまだまだイケるかな」
 解放と同時に、トン、と背中を押される。倒れこむ先は清潔なベッドだ。振り返る間もなく、男の重みが重なる。
 顎を掴んでキスされそうになり、それだけは慌てて顔を背けた。人間とキスしたら、解毒してしまう。
 今から何が始まろうとしているのかはわからなかったが、いまこの瞬間に人魚に戻るのは避けたかった。
「かわいいな、司郎」
「ちょっ、待っ・・・・・・」
 仰向けにひっくり返されて、鎖骨を吸われる。ミナトの意図が全くわからなかった。
「何、して」
 なんとか腕を突っ張って、押し倒された状態で彼を見上げる。オレンジ色の間接照明を背後に背負って、美しく整った男の美貌は凄味を増していた。
「何って、決まってるじゃん」
 細くて長い男の指が、新調したばかりにスラックスの前を弄る。膝でグッとそこを押されて、思わず呻くような声が漏れた。
「セックス、だろ?」

-----

 妙な少年がいる、というのが第一印象だった。
 無理もないだろう。岩陰から、突然古ぼけたビキニの女装少年が現れたのだ。頭のおかしな部類の人間だろうと思い、最初は関わらないことにしようとした。
 けれどよく見ると、その少年はかなりの美貌だった。綺麗にブリーチされた髪は濃いグレーで、眉まで同じ色に染めているのが好ましい。気の強そうな瞳は黒と灰が混ざったような不思議な色だ。瞳孔が縦に裂けているように見えたのは、何かそんなカラーコンタクトを使用しているのかもしれない。ひと睨みで人を殺せそうな瞳は三白眼と呼ばれる類のものだったが、眼球そのものが大きいのか妙に愛嬌がある。顎は細く、日本人離れした骨格だ。
 万人が認める絶世の美男子という系統ではなかったが、クールビューティをこよなく愛すミナトにはストライク中のストライクだった。
 その少年をいま、抱いている。頼りなくシーツの波を掻く足を捕まえて、深く腰を打ちつけた。ウリをやっているにしては、あまり声をあげない性質らしい。先ほどから呻くような嗚咽しか聞こえていないが、それが余計に欲を煽っていた。
「・・・・・・っ、は」
 ずる、と性器を引き抜く。限界まで開いたそこは閉じきらず、はくはくと脈動していた。既に1度中で出したものが、どろりと溢れてくる。顔を覆い隠そうとする両腕はベッドに縫いとめて、押し戻すようにまた一息で奥を突いた。反った喉に噛み付けば、ぜえぜえと荒い呼気を間近に感じた。
「ゃ、あ・・・・・・っ!」
 喉仏から、顎へ。キスで直線に上がっていって、あと少しで唇というところで顔を背けられる。
これが唯一気に入らなかった。行為を始めたときからそうだ。ウリなんてやっているくせに、唇だけは誰かに操を立てているとでもいうのだろうか。声を掛けてきたのはそちらだろうと凶暴な気持ちが沸き起こるのを止められない。
「キスは別料金なのかな?」
「ふ、ぁ・・・・・・っだめ、キスは、駄目っ!」
 再度唇を覆おうとするも、ぶんぶん顔を横に振られてしまう。苛々が募る理由がわからず、ふんと鼻を鳴らして諦めた。
 所詮、ここにいる間だけの関係なのだ。別にキスが出来ずとも、問題なんて無い。
「かわいくないな・・・・・・」
 苛立ちを隠すように、ごつんと奥を突く。追いかけてきゅうと締め上げられる感覚がたまらなかった。
縋ってくる腕とその鋭い爪に、ちり、と背中に痛みが奔る。いつもなら、体に痕を残すような相手は絶対に御免なのに。

-----

 ぐったりと沈む少年を尻目に、ミナトは風呂で暖まった体をバスローブで包んだ。
 時刻は明け方に近い深夜。もう若くないというのに、うっかり励みすぎてしまった。
 途中で意識を失った少年を盗み見る。出すだけ出して捨て置いた裸体は、寒そうに小さく震えていた。風呂に入れてやるべきか悩んで、面倒だな、と結論づける。石を投げられそうな思考回路だという自覚はあるが、一瞬悩んだだけでも大きな譲歩なのだ。抱いた少年の様子があまりにも物慣れず、ウリではないのかもしれない、と思った故の躊躇だった。これがもし本当にウリだと確信していたなら、金を払うのだから後始末くらい自分でしろと堂々と言い放つのが皆戸瞬という男である。
「・・・・・・」
 気まぐれに、灰色の髪を撫でる。突然現れて突然好きだと喚いて、ホイホイ言われるままホテルに付いてきて。
 ウリではないと言うのなら、この少年は一体なんなのだろう。
「・・・・・・冷たい」
 触れた額が、ひんやりとしている。およそ人間らしくないその体温に、さすがに哀れになって毛布をかけてやった。人差し指で下唇を押す。額と同様にひんやりしているそこを、彼はなぜ頑なに拒んだのだろう。
「キスしたら、どうなるってんだ」
 ほんの出来心で、ぷちゅ、と口付けてみる。ひやりとするそこを割って舌を入れても、別段なんとも思わなかった。もちろん何か特別なことが起こったりも、しない。
「くだらない」
 キスを特別視するなんて、少女趣味の女のようだ。本人が拒んでいたキスを盗んだ罪悪感にほんの少しだけ苛まれながら、ミナトはひとり、使っていない綺麗な方のベッドに潜り込んだ。

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 朝日の眩しさに目を覚ますなんて、初めての経験だった。カーテンから漏れる陽光に目を細め、司郎はぼんやりと思考を巡らせる。
 ここはどこで、何がどうなったのだったか。
「・・・・・・!!」
 ぼんやりできたのはほんの10秒ほどだった。飛び起きて、辺りを見回す。時計は9時を指している。
 そう、司郎は昨日、あの人間と、ミナトという男と抱き合ったのだ。
 室内に、男の姿は無かった。隣りのベッドに使った形跡があるものの、触れてみても温度は無い。随分前に出て行ったらしい。
 とりあえず彼を探さなければと思い至るも、立ち上がりかけて撃沈した。腰が、尋常でない痛みを訴えている。しかも中から何かがこぼれてくる感触があり、おそるおそる指で触れると白い粘着質なものがべっとりと垂れていた。
「ど、ど、どどどうすれば」
 一夜明けて冷静になると、昨夜なぜ突然あんなことになったのか訳がわからなかった。
 そもそも、司郎もミナトもオス同士だ。それなのに、彼はセックスだと言った。白い液体には覚えがある。精液だ。サメは魚類としては極めて珍しく体内受精を行うが、要するにメスの腹の中の卵にあれをかけると幼魚が生まれるのだ。
「と、とりあえず、シャワー・・・・・・」
 体中べとべとで気持ちが悪い。またあのしゃんぷーとかいう泡で洗った方がいいと、本能的にそう思った。海の中にいたときには感じたことのない不快な粘つきだ。
 しかし、そんな風にあたふたしていると、小さなノックの音とともに部屋の扉が開いた。昨夜の男がひょこりと顔を覗かせる。
「ああ、起きた? ひとりにしてごめん。おはよう、司郎」
「お、おおはおはおはお・・・・・・!」
 その涼やかな顔を見るなり、昨夜のことが走馬灯のように司郎の脳内を駆け巡った。瞬間湯沸かし器のように耳まで沸騰する。
 とても顔を見ていられなくて、慌てて手近にあったシーツを頭から被った。そんな様子を見て、頭上からくすくすと笑い声が落ちてくる。
「恥ずかしがっちゃって、かわいいな。体は大丈夫?」
 昨夜はあんまり幸せで俺もそのまま眠っちゃったからさ、後始末できなくて悪いことをしたね。
 柔らかな声でそう言われて、胸のあたりがきゅんとする。オスなのに、何よりも強いサメのオスなのに、この人間に惹かれるのを止められなかった。
「かわいい司郎、早く俺にその顔を見せて」
 歌うように言いながら、シーツ越しに頭を、頬を撫でられる。おずおずと片目を覗かせると、ちゅっと額にキスされた。額ならいいかと思い、司郎も彼の額にキスを贈る。くすぐったそうに黒曜石を隠す男の瞼に、司郎のときめきは最高潮に達していた。
「・・・・・・今朝、どこ行ってた」
「ああ、早朝ダイビングにね。俺、ここに2週間のダイビング旅行に来てるんだ。普段は都内の会社員だよ」
「2週間したら、ミナトはそこに帰るのか」
 都内がどこなのか知らないが、きっとここからは遠いんだろう。しゅんと気持ちが萎れるのを上手く隠せるほど、司郎はまだ人間に慣れていなかった。目ざとく気付いた男が、するりと被っていたシーツを奪う。変態のように深くそのにおいを嗅ぐ仕草をするので、司郎は再び茹だってしまった。
「帰るよ。もちろん、この可愛い恋人を連れて」
「!」
 手の甲に口付けるなんて、人魚でも絵になる奴はそういない。それをあっさりやってのけた人間の男に、司郎は正しく陶酔した。ぱちんと片目で贈られたウインクに呼吸が止まりそうになる。陽光を反射してぴかぴか光る黒髪の美しさに眩暈がした。
「こ、こいびと」
「好きだ、司郎」
 抱き締められて、思わずほうと恍惚のため息が漏れる。こんな幸せがあっていいのかと思った。何もかも、素晴らしい方向に進みすぎている。昨夜思いがけず抱かれたことなど、もはや司郎にとっては些細なことだった。
 この男ともっと一緒にいたいと、強く思った。

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 突然懐いてきた奇妙な美少年と出会って、4日目。
 美少年は、順調にダッチワイフの道を歩んでいる。男なら誰でも夢見るシチュエーションだろう。
 ミナトは常々「涼しげ」「ガツガツしてない」「読書が似合う」等と評されてきたが、脳内はごく普通の卑猥な三十路である。女も男も見目さえ良ければ手当たり次第だ。
 そんな自分のもとに、何の因果か「初対面から自分にベタ惚れ」という漫画のようなシチュエーションが降って沸いた。司郎と名乗るその謎の少年は哀れになるほど健気で、こちらがどうせ旅先での限りある付き合いと思っていることも知らず、毎日瞳を輝かせてミナトの帰りを待っている。こちらが望めばいくらでも足を開くし、前戯も後始末も無しでほったらかしても文句ひとつ言わない。口は悪いしスラングじみたことも言うが、基本的にミナトの命令には絶対服従だ。あまりにも自分に都合の良い設定に、何かの罠なのではと思ってしまうほどである。
「なんなんだろうな、お前」
 眠った彼の涙の後を、人差し指の爪で辿る。今日も好き勝手抱いて、咥えさせたり縛ってみたりと散々体を酷使させた。
 さすがに良心が咎めたので風呂にだけは入れてやったが、気絶したきりその間も1度も目を覚まさず眠りこけている。相変わらず、素肌は驚くほど冷たい。しかし熱めのお湯をかけるとすぐに火傷のように真っ赤になってしまったので、風呂も水のようなぬるま湯に入れるしかなかった。
 昼間ダイビングをしている間は部屋に置き去りにしているので当然と言えば当然だが、食事をしているところも見たことがない。無論ダッチワイフだと思えば無駄なことをせず最高なのだが、ミナトの胸にはなんとなくモヤモヤとしたものがわだかまり続けていた。
 と言うのも、司郎は相変わらずキスを拒み続けているのである。金を渡そうとしてもきょとんとして受け取らなかったから、やはりウリではないらしい。ウリではなくて、散々自分を好きだなんだと喚いて、それなのにキスを拒む。その行動の不可解さに、ミナトの思考は埋め尽くされていた。
 伝染性の病気を持っているという可能性も考えたがそれならばセックスの方が余程問題だろうし、普段の様子を見る限りそういったものを隠し通せる器用さがあるとも思えない。この、どう多めに見積もっても二十歳そこそこにしか見えない少年は、良くも悪くもひどく真っ直ぐなのだ。黒と灰色の不思議な瞳はいつだって射抜くようだし、ミナトを見つめるときは特に「わき目も振らず」という表現がしっくりくる。
 そんな彼が、セックスの間中何度も訴える「好き」というのが嘘とはどうしても思えなかった。
「そんなにオッサンとキスするのはイヤかよ」
 下唇を、ふに、と押す。ここ数日、眠った司郎に勝手に口付けるのがミナトの習慣になっていた。
「お前が、好きだ好きだって騒いだくせに」
 ちゅ、ちゅ、と冷たい唇を啄む。
 ただの、旅先の都合のいいダッチワイフだ。何も気にすることはない、頭ではそうわかっているのに。
 意識のない少年に深く口付ければ口付けるほど、ミナトの苛立ちは募っていった。

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 7日目の夜が、来た。
 明日、8日目の朝日を浴びれば自分は死ぬ。
 その事実を数回反芻して、よし、と司郎は自らの頬を叩いた。人間の足を手に入れるために海蛇の友人から注入された毒、それは7日以内に解毒しなければ死んでしまう猛毒だ。解毒のためには毒が効かない人間に口から毒を吸い出してもらう必要があるが、司郎は頑なに、7日目の今日に至ってもそれを拒み続けていた。
 死んでしまうのは、怖い。
 けれど、解毒して毒の効果が切れ、人間の足を失うのはもっと怖かった。
 人間の姿を失えば、ミナトの隣りには居られない。それならばいっそこのまま、人間の姿のまま死ぬほうがいいと思った。
 人魚に戻って海に帰ったって、ミナトという人間の男に恋した自分は、もう一生死んだように生きていくしか道はないのだ。毎日揺れる水面を見上げて、あわよくばミナトが潜りにこないか、夢想ばかりして生きていく。そんな女々しいことになるよりは、死んだ方がいい。それが、悩んで悩んで、司郎が出した結論だった。
「じゃあ、ミナト、気をつけてな」
「うん、行ってくる。すぐ戻るよ」
 ダイビング機材を抱えたミナトに、ちゅ、と額にキスされる。同じ場所にキスを返して、司郎はゆるく手を振った。
 他の仲間たちと一緒に、彼は夜の海を漕いでいく。彼らの旅行も今日で最終日だ。最後までみっちりダイビングを楽しもうということで、今日はナイトダイビングをすることになったらしい。夜の海と言うと大抵の人間は恐怖を抱くようだが、司郎にとっては夜こそ海の本当の姿だった。昼間は身を潜めている色々な奴らが、餌を求めて動き出す。陽光が無い世界は青い反射が失われ、魚も貝も植物も、それら本来の色を見ることが出来る。昼間の青一色の世界も美しいが、あれはどこか、焦点の合わないぼやけた写真のようだ。
「いってらっしゃい、ミナト。・・・・・・さよなら」
 潜水を開始したらしい、見えなくなった背中にもう一度手を振る。
 時刻は深夜3時だ。夏の海は夜明けが早い。おそらく次にミナトが戻ってくるころには、自分は毒が回って死んでいる。
 いつぞや待ち合わせをした階段に腰掛けて、すぐそこに迫る海水を見下ろした。背後の街灯のぼんやりとした明かりで、水面に灰色の髪の男が映っている。
 精一杯人間らしく振舞ったつもりだけれど、どうだったのだろう。
 7日間で人間に慣れてくるにつれて、自分の髪の色も、瞳も、瞳孔の裂け方も、三角形に尖った歯も、脇腹のあたりに浮く虎のようなシマ模様も、やはりどう取り繕っても人間とは違うと思った。
 所詮、サメはサメだ。
 恐怖され、忌み嫌われる、そういう存在だ。
「まぁでも・・・・・・楽しかったな」
 海面を覗き込んで、浅いそこに足先を伸ばす。ホテルで借りたビーチサンダルを脱いで、ちょん、とそこに足の爪を付けた。
 途端。
「ん?」
 海水につけた足先が、そのままするりとヒレになる。
「!?」
 驚いて足を引くと、そこにあるのは人間の足の指だ。
 どういうことだ。意味がわからずもう一度、今度は足首までそっと水につけてみる。
「・・・・・・う、わ」
 そこは、するんと呪いが解けるように、見慣れたサメの尾びれになった。両足を浸けると、足は失われて人魚のヒレが現れる。
 毒の効果が切れてしまったのかと慌てて水から引き上げると、今度はするする2本足に戻っていく。
「海の水に浸けると戻る、のか?」
 意を決して、スラックスと下着を脱ぎ捨てた。Tシャツも脱いで、濡れないようにコンクリートに置く。
 思い切ってちゃぷんと頭まで潜ると、そこには見慣れたサメの下半身と、夜の海の世界が広がっていた。7日ぶりのヒレで、ゆるく水を蹴る。久しぶりの感覚に思わず笑みがこぼれた。死ぬ前に、海の中の世界ももう一度見られるなんて贅沢だ。
 時間が許すなら色々と世話になった友人に挨拶に行きたい――そんなことを考えていると、司郎が出向くまでもなく、当の友人は向こうからやってきた。
「司郎ッ!!」
 尾びれの手前、きゅっと細くなっているところに、白黒の海蛇の尾が巻きつく。先端が少し切れたそれは見覚えのある海蛇だ。鋭く呼ばれた名前に反応するより早く、海蛇は司郎を抱えて跳ぶように岩場に乗り上げた。
「司郎、この、バカッ!!」
 いつも冷静だった友人が、ゼエゼエ肩で息をしている。水から上がった司郎の下半身は、また徐々に人間の形態を取り戻していた。それを見て、友人は両手で顔を覆って嘆きの悲鳴をあげる。呆気する司郎に、やがて彼は食って掛かった。
「ああ、なんってことだい、これだから君を陸に上げるのは嫌だったんだよ!」
「え、え? 待てよ、なんだ? この足、海に入るとヒレに戻るんだな、知らなかっ・・・・・・」
「戻らないよ!普通にしてたら、戻らない! なんてことをしてくれたんだ、あの人間、殺してやる!」
 シャアッと奥の牙をむき出しにする友人に、司郎は目を白黒させるしかない。一体何をそんなに怒っているのか、皆目見当がつかなかった。
「司郎、僕は君を探してたんだ! もし万が一まだ解毒できていなかったらどうしようかと思って! やっと海に入ってくれたと思ってにおいで辿ってきたら、これはどういうことだい!」
「だから、何がどうしたっていうんだ」
「いいかい、この毒はね、人間には効かないんだ。言い換えれば、人間によって無効化できる。つまり」
 体内に人間の体液を注入されれば、毒成分と無効化成分が拮抗して、人魚のヒレも人間の足も併せ持つ特異体質に固定されちゃうんだよ!
 叫ぶようにそう言った友人に、数拍遅れて司郎が目をしばたたかせる。
 ジワジワ首から赤くなっていくのを、友人が見逃すはずがなかった。
「要するに、君はあの人間とセックスしたってことだ! しかも女役で、腹の中に出されたってことだろう!? 一旦そうなってしまうと、もうキスでも解毒できないんだ!」
「うわ、わ、そんな大声で!」
「待って、でももしかしたらまだ間に合うかもしれない! 僕がこうして、人型になって、毒を吸い出せば人魚に戻れるかも・・・・・・!」
 鬼の形相の友人が尻尾を一振りすると、みるみる海蛇のシマは消えていく。現れたのは人間の足だ。彼はその足で司郎ににじりより、完全に据わった目で睨みつけてくる。いつもの冷静な様子は影もなかった。
「ちょ、何、いいよ、別に俺は人魚に戻りたくないし・・・・・・! それに、拮抗したってなら、7日で死ぬわけでもないんだろ!?」
「死なないよ、無効化されてるからね! でも駄目だ、僕は、司郎がたったひとめ見るだけでいいって言うから力を貸したのに、あんな人間ごときが、僕の司郎になんてことを!」
「わ、ちょっ、やだ、やめろって、バカ!」
 人間の姿なら僕でも無傷で毒を吸いだせるかも、とぶつぶつ呟きながら、友人ががっしりと顎を固定してくる。唇から司郎の体内に残る毒を吸い出すつもりらしい。毒を吸い出されれば、全ては元通り、司郎の足は人魚に戻ってしまう。
 嫌だ、と思った。
「んーっ、んーっ」
 必死で首を捻る。近付いてくる唇はもうすぐそこだ。もうなんでもいいから誰か助けろと、司郎がそう思ったときだった。
「ボク達、何してるのかなー?」
 ちょうどダイビングを終えて戻ってきたらしいミナトが、岩場のすぐそこで仁王立ちしていた。

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 本当は、もう少し長く潜っている予定だった。
 けれど何の因果か、初日にここで散々な目をあったときと同じ不調が発生したのだ。
 潜水して20分ほどで、ボンベからレギュレーターへの供給がスムーズにいかなくなった。残圧はまだ十分あるのに、BC、即ち浮力を調整するジャケットへの空気の供給も出来ない。オクトパスと呼ばれる予備のレギュレーターも駄目だった。
 あの時も、決定打はタコに襲われてマスクやレギュレーターを失ったことだったが、何よりも最初に呼吸がスムーズにいかなくなったのだ。おかげでなるべくエア消費を少なくするために岩にしがみつき、バディたちを待つしかなかった。
 そうでもなければ、迂闊に岩場に触れるなんてことはしない。前回は毒の無い水タコだったからまだいいものの、あれがもしオニダルマオコゼのようなものだったとしたら、自分は足掻く間もなく死んでいた。
 幸いなことに、今回の水深は以前の半分。潮の流れもあの時よりは弱く、フィンワークで比較的すぐに浮上することができた。バディたちには悪いが、潜水を続けられる状況ではないので一足先に離脱することにする。
 やれやれと思いながらふと、そういえば初日はどうやって助かったのだっけと思い至った。仲間達が言うには、ほとんど意識のない状態で岩場に寝ていたのだという。水タコにマスクとレギュレーターを奪われてガラにも無く慌ててしまったところまでは覚えているが、以降の記憶は曖昧だ。
 けれど何か、灰色の何かを見たような気がする。サメのような何かを見たような気がするのだ。
「なんだったかな・・・・・・」
 いくら考えても、それ以上は思い出せない。まあいいかと思いながら岩場まで辿り着き、足のつくところでフィンを脱いだ。
 重りを外し、BCごとタンクも下ろす。機材のメンテナンスはきちんとしているつもりだから、やはりタンクの問題だろう。数で稼ぐ観光地のダイビングショップは、いまいちこの辺りの管理が甘くて駄目だ。
 岩に腰掛けたところで、いつぞや自分が昏倒したまま寝ていたという岩影に人影が見えた。一瞬見えた肌色のそれに、反応する義理など無かった。夜の海辺に肌色の影が2つ、それが指すところなど明らかだ。
「っにやってんだ、あいつは・・・・・・!」
 それでもミナトが重い腰を上げざるを得なかったのは、その影のうちのひとつが、見慣れた灰色頭だったからだ。
 珍しく見送りに付いていきたい等と言うからホテルから出歩くことを許してみればこれか。半ば呆れながら、その岩陰を覗き込む。
「ボク達、何してるのかなー?」
 やはり、灰色頭は司郎だった。全裸の彼に、見知らぬ、こちらも全裸の男が乗っかっている。
 どうせ明日までの付き合いなのだから、捨て置けばいいのだ。ダッチワイフがどうなろうと知ったことではない――ミナトの頭ではそう警鐘がなり続けているのに、腹から湧き上がる怒りの方が勝っていた。
 見知らぬ男に顎を押さえつけられて、涙を滲ませた灰色頭。ただの、都合の良いダッチワイフだったはずなのに。
「みな、と」
「強姦は犯罪ですよ、っと」
 乗っかっていた男を、べりっと音がしそうなほど引き剥がす。我ながら腕に力が入りすぎだと思った。司郎が、乱れた髪のままこちらを見上げる。その顎にはくっきりと男の手のあとがついていた。
― ―キス、されそうになっていた。
 自分とのキスはあれほど拒んでいたのに、簡単に?
「司郎、お前、俺が好きなんじゃなかったのか?」
「ふ、ぇ」
 司郎の灰色の髪を掴みあげる。いつぞやもこんなことをしたな、とぼんやり思った。
 これまでさんざん優しいオニイサンを演じてきたのに、最後の最後でこれだ。
 つくづく自分に呆れながら、それでも怒りと、認めたくないが嫉妬は、抑えることが出来なかった。
「俺が海に潜ってる間に、早速若いのと浮気とはな」
「ちが、違う!」
 ぶるんぶるん首を振る、その中央で揺れる唇。ふに、とその下唇を、意識の無い彼に何度もしたように指で押した。ひんやりとして弾力のある、甘やかな唇だ。
「言っとくけどな。お前は散々拒んでたけど、もうキスなんて何回もしてる。今更なんだよ、バカ」
 細い顎を優しく捕まえて、深く口付ける。驚いたように見開かれた縦の瞳孔は、もう抵抗はしなかった。腰を抱いて、角度を変えて、何度も何度も冷たい唇を吸う。
 こんな風に独占したいと思う相手は、初めてだった。

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「司郎、このクソヘビを我が家に入れるなと、何度言ったらわかるのかな?」
「うるさいよオッサン、僕は司郎の客だ。あんたにどうこう言われる筋合いはない」
「黙れよクソヘビ、俺はいま司郎と話してんだ」
「いい年して猫かぶりとは相変わらず恥ずかしいね、情けなくて涙が出るよ」
「あ゛!?」
「何だい!?」
 頭上で行なわれる第103回世界一下らないバトルに、司郎は小さくため息を吐く。
 全く、なんだってこんなことになったのだ。
 あの日、ミナトの本性には多少、いやかなり驚かされたが、ひとまずあの岩場で、司郎とミナトは愛を確かめあった。
 しかし、その後が問題だったのだ。
 長いキスのあと、友人はさんざん無体を働かれた痕のある司郎の裸体に気付いたらしい。こんなことをする男のもとに司郎はやれないと娘を嫁にやる父親のようなことを言い出し、司郎とミナトがそれをなんとか説得したところ、最終的に「友人も陸に上がる」という結論に至ったのだ。
 友人は司郎とは違い、自分の毒を調整すれば長時間人間の体を保つことが出来るらしい。もちろんこの辺りのことはミナトには秘密なので、表向きは「ミナトと司郎が同棲するなら、隣りの部屋に幼馴染みの友人も引っ越す」ということになった。
 そうして始まった新生活が、コレである。
「もう我慢できない、司郎、やっぱり僕と帰ろう!」
「てめぇひとりで帰りやがれ、司郎は俺のモンだ!」
「ふたりとも、いい加減にしろ」
 放っておくといつまでも言い争いを続ける恋人と友人を、ぴしゃりと窘める。途端に黙り込むのだから可愛いものだ。
 まずは友人の頬に、それからミナトの唇に、ちゅ、と唇を落とす。
「喧嘩はいいから、とりあえずメシ食おうぜ」
 な? と笑うと、二人ともやれやれと愛好を崩す。思わず人魚をやめてしまうほど惚れ込んだ男も、本意ではないのに司郎のためにそれを精一杯手助けしてくれた友人も、司郎にとっては両方大切だ。
「でも僕、司郎のこと諦めてないから。それだけよろしく」
 ここに来てなお言い募る友人には、頭からチョップを喰らわせる。ぺろりと出された舌は相変わらず二つに割れていた。制裁を下された友人を指差して笑った年甲斐のない恋人には輪ゴムを飛ばして攻撃しておく。

 広い海で司郎を苛んだ孤独は、ここにはもう欠片もない。
 賑やかで騒がしいけれど、地上生活も悪くないと、司郎はそう確信していた。


Fin

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