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アップルケーキに愛をこめて 作者:セリ

アップルケーキに愛をこめて

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4  闇と秘密  Ⅱ

 『拳闘倶楽部』――――。拳闘――――。

 昔からある格闘技です。素手での殴り合いや蹴り技や締め技などを駆使し、どちらかが降参するまで闘うんです。

 パパが傭兵だった頃、賞金目当てに出場したことが何度かあります。賞金は高額だけどパパが大怪我をして帰って来たから、やめてくれるよう泣いて頼んだんです。

 レオンさんと拳闘が、どうつながっているんでしょうか。まさか……。

「行くよ」
 トーニオさんはいつもの優雅な足取りで先に立ってアーチ門をくぐり、僕は小走りで後を追いました。

 拳闘の興行はトライゼンだけでなく各国で行われていますが、パパが出場したのは隣国マイセルンのテント小屋です。
 今目の前にそびえている建物は古風な煉瓦造りで格式がありそうで、他国でよく見かける露天やテントの会場とは趣が違います。

「トライゼンの国立拳闘倶楽部だ」
 トーニオさんが言い、僕は目を丸くしました。賞金は観客たちの賭け金で賄われるので、賭博の要素もあるんです。だのに……国立?

「危険な競技だから、一時は禁止されていたんだけどね。それで拳闘好きな人々と賞金目当ての男たちが、消えていなくなるわけじゃない。人目につかない場所でこっそり試合をするようになって、ますます危険になった。いっそ国家の監視の下で行った方が安全だろうと、トライゼンの拳闘場はすべて国立になっているんだよ。収益を国庫に納めようという意図もある」

「そうなんですか……。それで、レオンさんは……」
「もちろん、出場する。あいつはこの倶楽部の若き英雄だ」
「ええっ……」

 出場する……レオンさんが。僕はパパの大怪我を思い出し、泣きそうになりました。

 正面に黒ずんだ扉があり、頭を剃りあげた怖ろしげな顔つきの大男が立っています。
 大男はトーニオさんを「ベルトラム男爵」と呼び、軽く頭を下げて扉を開けてくれました。
 建物の中は労働者風の人々が詰めかけ、熱気と興奮と人いきれで息苦しいほどです。

「こっちだよ」

 トーニオさんに促されて入った部屋は雰囲気ががらりと変わり、静かで落ち着いた酒場パブといった風情です。
 重厚なオーク材のカウンターやテーブル席で、上等そうなスーツに身を包んだ紳士たちがお酒を飲みながら談笑しています。

 黒光りして歴史を感じさせる木材の床を歩き、入って来たのとは別の扉を開けると、ガス灯に煌々と照らされたすり鉢型のコロシアムがありました。
 すり鉢の底の部分に土が敷きつめられ、円形のロープが張られています。
 他国でよく見かける露天会場やテント小屋では、ロープを持った観客が輪になって出場者を囲みますが、ここでは杭が打たれています。
 ロープの内側は、リングと呼ばれる闘いの場です。

 僕は実際の試合を見たことはありませんが、目つぶしと噛みつき以外は何でも許される怖ろしい競技だと聞いています。
 最低限のルールさえ守られなくて、パパは何か所も噛みつかれていたけれど……。

 リングの周囲は観客席で、上に向かってリングから遠ざかるにつれ、金銀銅と座席の色が変わっていきます。
 トーニオさんと僕が座ったのは金色の座席で、身なりのいい紳士たちに混じって女性の姿がちらほらと見えます。

「女性は入れないんでしょう?」
 僕が尋ねると、トーニオさんは困ったように苦笑しました。
「レディは、だよ。入れないというより、こういう場にレディをエスコートする紳士はいないということかな。変装して見にくる強者レディもいるけどね。でも殆どの女性は、淑女とは違う立場の女性だよ」

 淑女とは違う立場の女性。きついコルセットで締め上げた彼女たちの妖艶で派手な衣裳を見て、僕ははっと気付きました。……娼婦?
 振り返って見上げると、銀の席にも銅の席にも淑女とは違う雰囲気の女性の姿があります。

 男性たちの雰囲気も、座席によって違うように感じました。
 銀の席と金の席はさほど違わないように思うけれど、銅の席に座っているのは明らかに平民の労働者です。
 本来なら僕は銅の席に座るはずなのに、と思うと複雑な心境になります。

 ゴングの音が鳴り響き、観客席から歓声があがりました。
 出場者がリング――――丸いロープの中に入ったけれど、レオンさんじゃない。
 肩から胸にかけて刺青を入れた男と、ずんぐりとした大男です。
 二人の男が殴り合いを始め、蹴り合い、取っ組み合い、僕は怖くなって両手で顔を覆いました。

「大丈夫?」
 トーニオさんの心配そうな声が、興奮した観客の叫びにかき消されていきます。僕はトーニオさんを見上げ、うなずきました。
 リングに視線を戻すと、大男が刺青を入れた男の首に太い腕を巻きつけ、満身の力を込めています。

 首の骨を折ろうとしてるんだと僕は思い、思わず目を閉じました。
 耳の奥でバキッと鈍い音が聞こえたような気がして、きつく目をつぶり両手を握り締める。

「終わったよ。本当に大丈夫か? 気分が悪いなら、外に出よう」
「大丈夫です。慣れてないだけです。すぐに慣れますから」

 リングを見ると敗者の大男が片腕をぶらぶらさせながら、苦悶の表情で立ち上がろうとしています。……腕の骨が折れたんだ。
 さっきの鈍い音は、聞き間違いじゃなかったかもしれない。

「どうして……レオンさん」

 僕は、震えながら口走りました。
 どうしてレオンさんは、こんな野蛮な競技に参加するんでしょう。
 パパの場合は急にお金が必要になったからだけれど、初めての試合に出場して帰って来た時のパパは興奮状態で楽しそうで、「拳闘には男を夢中にさせる何かがある」と言っていました。

「最初は、フレデリクに頼まれたのがきっかけだった。フレデリクはペテルグ公爵家の長男で、俺やレオンより一級上で、クラレストの学生の中で最も強いと言われた男だ」

 トーニオさんが言い、僕は考え事から我に返りました。

「クラレストにはギムナジウムが2校と、平民の高等学校が3校ある。ロイムは軟弱だから論外として、高等学校の荒くれぶりと言ったらひどいものだった。フィアの学生を脅したり金を巻き上げたりで、業を煮やしたフレデリクが3校のリーダー格の男に拳闘で決着をつけようと持ちかけたんだ。喧嘩は校則で禁止されているけど、拳闘は禁止されていないのでね」

「禁止されていない……? こんなに危険なのに」
「喧嘩と違って、一応ルールがあるからね。それにトライゼンでは、拳闘は社会的に認知されてる。昔から軍事訓練の一環として奨励されて来たし、禁止された時期があったにせよ、今でも軍人のたしなみだ。だからと言ってレオンがやっていいとは思ってないよ。フレデリクが外国に留学することになって、後のことをレオンに頼んだんだけど、フレデリクは拳闘をやれとは言わなかった。レオンが勝手に拡大解釈して、挑戦して来た高等学校生を拳闘で叩きのめして以来、のめり込んでしまったんだよ」

 痛い思いをして相手に痛い思いをさせて、そんな競技にどうしてのめり込むことが出来るんでしょうか。
 僕には理解できない。

 再びゴングが鳴り、リングにレオンさんが現れて、僕は本当に泣き出しそうになりました。
 レオンさんは他の出場者同様上半身裸で、身につけているのは粗い麻でできたブリーチと呼ばれる膝丈の短ズボンだけです。
 全身にオイルを塗り、引き締まった細身の体躯がガス灯の光を受けて煌めいています。
 殺気だった冷たい目で対戦相手を見るレオンさんは、初めて会った頃の怖いレオンさんとも、昨夜の美しく優しい怪物とも違います。

 僕の知らないレオンさん――――。
 視線だけで相手を殺す、無慈悲なレオンさん――――。

 観客の歓声は最高潮に達し、耳を覆いたいほどです。
 僕は奥歯を噛みしめ、必死の思いでレオンさんを見つめました。
 どうか無傷で済みますようにと祈りながら。

 闘いが始まり、相手が手を伸ばした瞬間、目にも留まらぬ早さで男の首筋にめり込んだレオンさんの裸足の足。
 よろめいた男が体制を整える前にレオンさんの右手が男のみぞおちに食い込み、左手が顎を突き上げ、男は吹っ飛びました。
 後頭部を強打したらしく、男は何度も上半身を持ち上げようとして、力尽きてしまった。

 ほんの瞬きする間に闘いは終わり、歓声が轟音となって会場に轟きます。
 勝者となったレオンさんは観客に顔を向けることなく、会場を後にしました。

「いつもの調子で安心したよ」
 ほっとした様子のトーニオさんに、僕は顔を近づけて尋ねました。
「いつもこんな感じなんですか?」
「まあね」
 トーニオさんも僕に顔を近づけ、微笑します。

「レオンが拳闘をやってることは、母上には内緒なんだ。知られたらあの母上のことだから、何をするか分からない。目立つ場所に傷を作らないよう、あいつもその点だけは気を使ってる」
 僕はレオンさんの腕の傷を思い出し、怪我は怪我なのにと思いました。
「でも、噂話や何かでいずれ知られてしまうんじゃ……」

「そうだよね。この半年、メイドくんのパパのお蔭で母上の注意は他に逸れてたけど、そろそろ危ないよねえ」
「そうまでして、どうして続けるんでしょうか。レオンさんは、闘うことが好きなんでしょうか」
 トーニオさんはさらさらの金髪をかき上げ、首をかしげながら横目で僕を見ています。

「好きなのかな。あるいは何かの埋め合わせかな」
「恋人はいないんですか? ごつい男っていうのは?」
 トーニオさんの顔に、薄い笑みが浮かびました。
「ごつい男は、拳闘の相手だよ。レオンに恋人らしい恋人はいない。一日で飽きるような奴だから。一度デートしただけで、それっきり。かなり女性達の怒りを買ってるよ、あいつ」

 パパが拳闘をやめたのは、僕が泣いて頼んだのも理由の一つだけれど、怪我をすると女の人に会いに行けなくなるからです。
 レオンさんは、パパとは違うみたい。

 トーニオさんと僕のそばに不意に美しい女性が立ち、トーニオさんが振り返りました。
「お邪魔してごめんなさい。通りすがりにお見かけしたものだから、ご挨拶をと思ったの」
 あでやかに微笑する女性は薔薇の花のように華やかで、僕は食い入るように見つめてしまい、失礼だと気がついて慌てて視線を落としました。

「少しの間だけ席をはずすけど、ここから動くんじゃないよ。いいね」
 そう言って立ち上がり、美女の耳元で何事かを囁くトーニオさん。

 なまめかしく笑う美女とトーニオさんが腕を組んで立ち去った後、知った人はいないかと僕は周囲を見回しました。
 いるはずがありません。僕の知り合いといったら、ランツにある兵士宿舎の人達だけだもの。
 クラレストにはリーデンベルグ家の人達以外に知り合いがいないんだと思うと、たちまち心細くなりました。

 再びゴングが鳴り新たな出場者が登場して、僕は慌てました。
 もうこれ以上、残酷な場面は見たくない。
 辺りを見渡してもトーニオさんの姿はなく、僕は仕方なく立ち上がりました。
 どこかで試合が終わるまで待って、また戻ればいい。

 会場を出たものの酒場パブ風の部屋でお酒を飲むわけにもいかず、そこは通り抜けて建物のロビーに出ると、数人の紳士が待ち合わせをしているように周りを伺いながら立っています。
 僕も仲間入りして立っていると、紳士の一人が僕に歩み寄って微笑みかけました。

 若い紳士で、レオンさんやトーニオさんと変わらない年齢に見えます。
 ゆるいウェーブのかかった暗茶色の髪を後ろに流し、秀麗な顔立ちは知的に見えるけれど、切れ長の灰色の目が何処となく不気味です。
 目をぱちくりさせている僕に、紳士は滑らかな口調で話しかけました。

「誰を待ってるの?」
「え、あの……ベルトラム男爵です」
「ああ、トーニオね。ふうん、そうか。彼なら、こっちにいるよ」
 言うなり僕の手を引き、強引に引っ張るんです。

「あの、僕、あの……」
 彼の手を振りほどこうとしたけれど、がっちりつかまれて動きません。
 ロビーから通路を抜け奥まった暗い廊下でようやく離してもらえたけれど、トーニオさんの姿はどこにもなく、紳士は僕の前に立ちはだかって逃がさないようにしているかのようです。

「ここ、どこ……? トーニオさんは?」
「見かけない顔だけど、何処から来たの?」
 紳士が手の甲で僕の頬をなぞったから僕は飛び上がり、彼は声をあげて笑いました。

「うぶな子だな。トーニオとは、どういう知り合い?」
 どうって聞かれても……。血のつながらない妹です、なんて言えるわけがありません。

 僕は、懸命に頭を働かせました。どうやって逃げ出そう。この人の目的は何だろう。……物盗り?
 紳士の灰色の目が蛇のようで、僕の背筋がぞくりとします。

「ロ、ロビーで話をしませんか? もっと明るい所で話しませんか?」
 しどろもどろの僕の肩を紳士が笑いながらぎゅっとつかみ、叫びそうになった僕の背後から別の手が伸びて、紳士の手を捻り上げました。

「俺のものに手を出すなよ、アーレク」
 深くて低い、聞き覚えのある声。闇からぬっと現れた人物を見て、僕は震えながら安堵の息を吐きました。
「レオンさん!!」
 レオンさんはシャツと濃紺のズボンに着替えていて、アーレクという名らしい紳士の手を捻り上げたまま立っています。

「おまえのもの? いつ宗旨変えしたんだ、レオン」
「心配するな。おまえには興味がない」
 そう言ってレオンさんはアーレクさんの手を突き放し、僕の肩を抱いて回れ右をさせ、廊下をロビーに向かって歩き出しました。

「このままでは、すませないぞ」
 背後からアーレクさんの声が飛んだけれど、レオンさんは乾いた声で笑っただけです。
 ロビーに出ると人の数が増えていて、レオンさんは僕の肩から手を離しました。

「試合が終わって会場を見たら、お前が一人で座っているのが見えた。一人で来たのか?」
 レオンさんの目が赤いことが気になったけれど、まずは質問に正直に答えることにしました。
「トーニオさんにお願いして、連れて来てもらったんです」
「あいつ、何考えてるんだ」
 レオンさんが吐き捨てるように言い、僕は慌てました。
「トーニオさんは悪くないです。僕が無理やり……」
 数人の若い紳士がやって来てレオンさんを取り囲んだから、僕の言葉は途切れてしまいました。

「レオン、相変わらずの強さだな」
 レオンさんと同じぐらいの年齢の紳士たちは、レオンさんの友人のようで、皆とてもお洒落です。
 高価そうなツイードのスーツ、シルクのワイシャツとクラバット、ピンやボタンを飾る宝石の数々。
 紳士たちは、僕をちらちらと好奇の目で見ました。
「紹介してくれよ。目の覚めるような美少年だな」
「いずれそうするさ」
 レオンさんはそう言いながら、視線を周囲に巡らせています。トーニオさんを探しているみたい。

 僕は、突然気がつきました。さっきのアーレクさんもレオンさんを囲んでいる紳士たちも、フィアの学生なんだ……。
 僕が通っていた中等学校の生徒にはない、言葉では言い表せない洗練された貴族の雰囲気。
 平民と貴族とはまとっている空気が異なっていて、僕は当然平民の空気を発散しているに違いないんです。

 カフスボタンに付いているダイヤ一つで、王宮兵士だった頃のパパの給金一年分が吹っ飛ぶだろうと思うと、生まれながらの身分の差を思い知らされます。
 レオンさんの友人たちに白い目で見られているような気がして、頑張って耐えようと思ったけれど、僕の視線は下に落ちていきました。

「賞金を貰って来てやったぞ。どうする?」
 別の学生らしい紳士がやって来て、白い紙包みをひらひらさせています。

「好きに使っていい。先に行ってくれ。俺は用がある。……ついて来い」
 最後の一言は僕に向けられた言葉で、僕は歩き出したレオンさんについて行こうとして、見知らぬ紳士に腕をつかまれビクリとしました。

「ねえ、麗しの君。これから一緒にパーティーに行かないか?」
 二十代とおぼしき紳士はにっこりして、どうしていきなり招待されるのかと考えあぐねる僕の全身に視線を走らせています。

「何か誤解しておられるようですね」
 怒りのこもったレオンさんの声と同時に手が伸びて、僕は再びレオンさんに肩を抱かれ、半ば拉致されるように外に連れ出されたんです。
 夏の夜風が涼しく星が瞬いていたけれど、僕はレオンさんの冷ややかな気配が怖くて周囲を観察する余裕もありませんでした。

 レオンさんは辻馬車に僕を押し込み、レオンさん自身も乗り込んで、音高く扉を閉めました。
 怒ってる――――。
 レオンさんが怒ってると思うと、何とかしてレオンさんの役に立ちたいと思っていた僕の意気込みは急激に萎み、唇がわなわなと震えてしまいます。

「トーニオには俺から話しておく。お前は家に帰って大人しくしていろ。あそこはある種の人間の狩り場でもあるんだ。二度と来るなよ」
 レオンさんの声が僕の脳裏を巡り、錐のように切り込んで来ます。

 ある種の人間……狩り場? どういう意味だろうと思ったけれど、それ以上に最後の言葉が僕を傷つけました。
 二度と来るな――――。

「レオンさん、お願いだから僕の話を聞いてください」
 僕はありったけの勇気を振り絞り、わなわな震える唇をこじ開け、何とかレオンさんを説得しようとしたんです。

「僕のパパも昔、拳闘の試合に出たことがあります。でも鎖骨を折って、治療に長い時間がかかって、パパは苦しんでました。もっとひどい事だって起こるんです。拳闘なんかにレオンさんの大事な命を賭けるのはやめてください。今日だって、レオンさんが死ぬかもしれないと思ったら、とても正気で試合を見てなんかいられませんでした。でも頑張って最後まで見ました。レオンさんは、とても強い。強い人だから、やめる事だって出来るでしょう?」
「おまえは命の意味が分かってないな。生きる本当の意味も」
「分かってないのはレオンさんじゃないですか。命は一つしかないんですよ。レオンさんに何かあったら、僕は悲しいです」
 話しているうちに目からぼろぼろ涙がこぼれ落ち、手で拭っても止まりません。

 見上げると、レオンさんは赤く充血した目で僕をじっと見ています。
 ふいにレオンさんの手が伸びて、あっと思う間もなく僕はレオンさんに抱きすくめられました。
 レオンさんが僕を抱きしめてる――――。
 力一杯抱きしめられて、息ができない。
 咳込もうとした時、レオンさんの腕から力が抜けて、レオンさんが僕に倒れ込んで来ました。

「レオンさん……?」
 首だけを回して見上げると、レオンさんは僕に腕を回してもたれかかったまま、静かに目を閉じています。 
「どうしたんですか、レオンさん」
 返事はなく、ただ規則正しい呼吸音が聞こえるばかり。
 レオンさんの目が赤かったのは、きっと寝不足だったからだと思いました。
 眠ってしまったんだ――――。

 でももしかしたら何処か怪我をしているのかも知れず、僕は全身でレオンさんを支えました。
 馬車がかたかた揺れるとレオンさんの体がずり落ちそうになり、両手をレオンさんの背中に回して押さえました。
 そうしてやっとリーデンベルク邸の玄関に着くやレオンさんは長い睫毛を震わせて目を開き、黒髪をかき上げて天井を見上げ、ついと僕を見たんです。

「……二度とあの場所には行くな」

 そう言って僕を辻馬車から押し出し、まるで心の扉を閉ざすように冷たく、ぱたりと扉を閉めてしまいました。
 玄関に立ってレオンさんの乗った辻馬車が去って行くのを見ながら、僕の心は敗北感で一杯でした。

 やっぱり……やっぱり僕なんかがレオンさんの生き方に立ち入っていいわけがなかったんです。
 レオンさんにはレオンさんの考えがあって、それは僕とは相容れなくて、レオンさんと僕はずっと平行線のままだという真実を受け入れないといけないんです。

 レオンさんが僕の知らない世界へ行ってしまうようで、辻馬車が涙で曇って見えました。
 レオンさんの役に立てるなら嫌われても構わないと思ったけれど、そんなの嘘でした。
 余計なことをした僕をレオンさんは煩わしく思っているはずで、嫌われるのはやっぱり辛くて悲しい。

 部屋に戻りベッドに力なく腰かけていると、ドアをノックする音がして青ざめたトーニオさんが飛び込んで来ました。
「心配したよー、メイドくん。席に戻ったら君はいないし、探しても見つからないし、レオンには嫌みを言われるし。でもまあ、無事で良かった。……あれ?」

 トーニオさんが隣に座り、僕の顔をのぞき込みます。

「泣いてるの? レオンに何か言われた? 気にすることないよ。メイドくんは優しい良い子で、レオンは只の馬鹿なんだから」

 トーニオさんは慰めてくれてるんだと思うとまた涙がこぼれ落ち、優しく抱き寄せてくれたトーニオさんの胸で、僕は声を上げて泣きました。
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