74/79
【73】「……それがなに?」
「あれ?」と思った。
それから次に、左腕が痛かった。
「蹴られた」のだと理解したのは、アスファルトの上に右手を付き損ねて転がりながら、回転するブレた視界の中に見覚えの無い男の姿を捉えてからだった。
「……ッ!!」
誰だコイツ!?
思考がパニックを起こして咄嗟に体を丸め、冬夜は慌てて頭を抱えた。
それは危険を感知した肉体の取った反射的な回避行動だった。
直後、今度はその背中に靴底が振り下ろされた。
「ぅぐッ!!?」
ワケがわからないまま、立て続けに重い打撃が、腰に、腕に、肩にと降り注ぐ。
筋肉がひしゃげ、骨が軋んだ。
肺腑の空気が強引に吐き出され、呼吸もろくに出来ない。
あれ?
なんだこれ。
ちょっと待てよおい。
思考がぐちゃぐちゃだ。
冬夜はただ、声も無くアスファルトを転がった。
16年間生きてきて、ここまで無慈悲で情け容赦の無い暴力に遭遇したのは、これが初めてだったかもしれない。
その男は、ひたすら無言で足を振り下ろしている。
そこには躊躇いも何も無かった。ただ邪魔なものを転がして除けようとでもするかのような容赦の無さだけがあった。
鼓動が面白いくらいに激しさを増し、アドレナリンとかドーパミンとか、そういう、いわゆる脳内麻薬と言われるモノが防衛的に分泌されたのか、不思議とそれほどの痛みは感じない。
この男が誰で、どうして自分がこんな目に合わなければいけないのか、そんな事はすっかり頭から消えていた。
だが。
生まれたのは恐怖だ。
殺される──。
咄嗟にそう、思った。
「とーやッ!?」
遠くで夕夏の声が聞こえる。
駆け寄ってくる靴音がする。
だが、その声を聞いて冬夜の頭が咄嗟に浮かべたのは、
『みっともない』
という自嘲的な思いだった。
それはそうだ。
彼女の動向が気になって後をつけてみたら、まさに脅されている現場に遭遇して、そこに割り入ろうと覚悟したら突然正体不明の男に蹴りまくられて、手も足も出ず芋虫みたいに固まるしかない……って、そんなのは、もはやギャグとしか思えない。
「とーやッ!!」
「なんだ? コイツ、アンタの知り合いかよ?」
「とーや!……とーや! どうして……」
男が面食らったように声を上げるが、夕夏はそうするのが当たり前のようにスルーした。
そうしておいて彼女は、冬夜に覆い被さるように自らの体を盾として、男の暴力から彼を守っている。
「ぅ……」
暴力の雨が降り止んでも、硬直した冬夜の体は、動くことを拒んでいた。
夕夏の長い黒髪が、さらさらと冬夜の頬を滑る感触がする。彼女の香りが鼻腔をくすぐり、彼は思わず泣きたくなった。
「おいおい、ソイツなに? なんでココにいんの?」
「とーや……大丈夫? 痛い? 痛いよね?」
痛いに決まってる。
何言ってんだコイツ。
そう思いながらも、そっと肩や腕、背中や腰に触れる夕夏の手が、冬夜にはひどく切ないのだ。
救いの手の筈なのだろうが、今の冬夜には、ただただ憐れみの手にしか思えなかったから。
“他の男の女”になった幼馴染に庇われ、守られる。
“それ”は、『たった16年しか男をやっていない少年』でも屈辱なのだと思えた。
「とーや……どうしてここにいるの?」
「おい」
「とーや……とーや……」
「聞けよ。今俺が」
「うるさいッ!!!!」
突然、だ。
突然、耳を打つ激しい怒声が、朝の空気を引き裂いた。
ものすごい声量と、“攻撃衝動と殺意を声に込めたら、きっとこんな風になる”という、まるでお手本みたいな声だった。
「なっ──」
猛った闘犬が怒りに任せて吠えかけたような迫力に、目の前の男が鼻白んだのがわかった。
意識が混乱している冬夜でさえ、思わず身を硬くしたほどだ。
誰の声か。
そんなのはわかってる。
──夕夏だった。
とても女の子が出すようなものではなかった。
でも間違いない。
さっきのは、夕夏の声だ。
冬夜でさえ聞いた事が無いような、夕夏の怒りの声だった。
頭上の高架線路を列車が走る音がする。
うるさいほどの音が通り過ぎれば、そこには先ほどと変わらぬ、非日常的なほどの静寂があった。
「とーや……」
ぐらぐらと揺れる頭を押さえて顔を上げれば、自分を心配そうに覗き込む夕夏の瞳が驚くほどの近さにあった。
薄い水の膜を張ったように、涙に濡れて潤んでさえ見える。
息が掛かるほどに近い唇は真一文字に“きゅ”と引き結ばれていて、どうしてか理由はわからないが、心の底から心配しているのがわかる。
一瞬前の、恐ろしいほどの敵意を感じた声など、まるで夢だったかのような顔だった。
……けれど、全身からどこか嬉しそうな空気を感じるのは何故だろう?
「ゆ……」
「……とーや、どうして、ここに、いるの?」
夕夏は、一言一言、幼い子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと言った。
“ギクリ”と身を強張らせて、冬夜は目を伏せた。
「いや、俺は……」
まさか『お前のあとをつけてきた』と馬鹿正直に言うわけにもいかない。
「私を心配して探しに来てくれたの?」
冬夜が言い淀んでいると、斜め上の問いが飛んできた。
「え?」
ふわりと夕夏に抱き締められ、首筋に顔を埋められた。
コートを内側から押し上げているおっぱいの“ふにふに”としたやわらかさが、冬夜の胸をダイレクトに刺激する。
夕夏はその凶悪な『全方位型近接戦闘用決戦兵器』をぐいぐいと押し付けると、首筋で思い切り深く息を吸い込んだ。
この期に及んで、ドサクサ紛れに『とーや分』でも補給しているのだろうか?
まったく、なんて女だ。
「冬夜には、私がどこにいるのか、ちゃあんとわかるのね……」
「あぁ……」と溜息のような吐息を吐き、うっとりと夢見るように言葉を紡ぐ夕夏は、冬夜を見ているようで、その実、本当の意味で見ていないのではないかと思えた。
そう言いながらも彼女は、冬夜の匂いを「すんすん」と鼻を鳴らしながら嗅ぎまくってるのだ。
それどころか深呼吸して胸いっぱいに吸い込んでさえいる。
冬夜はもう混乱の極みだった。
夕夏が冬夜の匂いを「たまんない」と思ってるのは、真実のようだ。
先輩とセックスしまくってるくせに、冬夜の匂いは別腹だとでも言うのだろうか?
どこまで淫乱なのだろう。
そして、そんな淫乱の武器を押し付けられて、それでもまだ悦んでいる自分の体が、冬夜は自分でも信じられなかった。
「は? ナニ言ってんのオマエ?」
夕夏の肩越しから聞こえた、呆れたような声に見上げれば、そこには、やはりどう見ても冬夜には全く見覚えの無い男が、不機嫌オーラ全開で立っていた。
『誰だコイツ……』
不恰好で、不細工で、無作法な男だった。
ポケットに両手を突っ込んで、全身から脱力したようなだらしない格好で佇んでいる。
髪は短く刈られ、金色に染められているが、根本が黒くてどこか汚い印象しかない。
背格好も、変哲の無い平凡な中肉中背に見えるが、頬にも首にも肉が付いていて弛んでいるためか、生活のだらしなさが滲み出るようだった。
無精髭がまばらに濃く生えているのもマイナス印象だ。
そもそも、ファッションなのかどうかわからないが、朝っぱらからサングラスをかけているものの、果たしてそれで視界はちゃんと開けているか疑問だった。
──この男が、自分を散々蹴り散らかした野郎か。
自分は、こんなクソみたいなDQNに、いいように蹴られたのか。
冬夜の中に、理不尽な暴力に晒された事実、そしてその暴力から女によって護られたという羞恥からの、言いようの無い怒りがフツフツと湧き起こった。
「あっれー? 高峯じゃん」
不意に耳朶を叩いた、聞き覚えのある声に目を向ければ、男の影から黒い物体……いや、
──黒スライムが現れた。
女だった。
いや、女、だろう。たぶん。
「だろう」「たぶん」と表したのは、コレを「女」だとしたら、同じ「女」である夕夏や、事態が把握出来ずにいるのか、視界の隅で顔を伏せてほぼ棒立ちになっている「新聞部(?)」の彼女に悪い気がしたからだ。
一言で言って、キモイ。
着崩した制服とカーディガンに包まれた体は、ぽっちゃりを通り過ぎてぶよぶよと肉が付き、だらしのないイメージしか無い。
明るい色の茶髪で隠そうとしているのだろう顎周りなど、昨今の豚だって健康的に運動させていればそうはならないだろうと思えるほどたるんでいた。
おまけに、肌は真っ黒に焼けている上、荒れ放題で額や鼻の頭、首などにポツポツとニキビまで出来ている。
ぽってりとした瞼が重そうに落ち、それでいてしっかりリップを付けているのか、妙に艶々した唇が気持ち悪いことこの上なかった。
それは冬夜には、見覚えが有り過ぎるほど有る──だが、関わりたくないイキモノの筆頭、
──遠藤だった。
冬夜は思わず息を呑んだ。
『なんで……』
どうしてここに遠藤がいるのか。
DQN風の男と黒スライム。
この二人がここにいるという理由がわからない。
偶然?
いや。
まさかこの二人が、またはどちらか一方が「新聞部(?)」の彼女の協力者──または、【チェシャ・キャット】だとでもいうのだろうか?
「クラス委員様と高峯って、やっぱワンセット? 朝っぱらからヤバくない?」
中途半端に口を開いてへらへらとした笑みを浮かべながら、目の前のぶよぶよとした生物が意味不明な事を口走る。
毒気を抜かれたように呆然と眺めてしまっていた冬夜の目の前で、男が馴れ馴れしく遠藤の肩を抱いた。
「知り合いか?」
「うん。クラスのぉ、オトコ」
「ナニ? コイツがこのオンナの、例の彼氏?」
「ってコトになってるけどぉ……ジッサイどうなのかわかんない」
「は? なんで?」
「ホラ、例のセンパイの話もあるしぃ」
「へぇ……」
男はそれだけ呟くと、あっという間に冬夜に対して興味を無くしたのか、身を起こした夕夏へと視線を移した。
ジロジロと無遠慮に、頭の天辺から爪先まで何度も視線が嘗め回すように往復する。
その視線が夕夏の、コートを着ていても隠し切れない豊かな胸、そして腰の辺りでしばし停止すると、男の口元が“にやぁ”と不愉快な笑みで歪んだ。
「で、カレンよぉ、このオンナが例の『乳姫様』でイイのか? マジで?」
男が何か言っている。
冬夜はそこで初めて、この男の目当てが他でもない夕夏なのだと知った。
「そーそー。すごくない? 一度見たらデカ過ぎて笑っちゃうって、ソイツのオッパイ。Fカップだってさー」
「はあ? 見たとこ、カレンとおんなじくらいじゃね?」
「そぉ? だって16でFだよ? どんだけってカンジ」
「っていうか、オマエよりちょっとちっちぇ? オマエ90あるもんな。スーパーグラマラスボディってやつ?」
「やっだー、もうっ、言わないでよー」
なんだこれ。
遠藤を男が「カレン」と呼び、それに応えてヒトモドキの黒スライムが弛んだ肉をぶるぶる震わせながら体をゆさゆさと──クネクネとくねらせているつもりだろうか?──揺すっていた。
90とは、トップバストの事だろうか?
だが目の前にいる黒スライムは、例えトップバストが90超えていたとしても、同時にウエストも80から90は軽く行ってそうな、まさしく『樽』なのだ。
贅肉『樽』が全てスーパーグラマラスボディなら、世にダイエット製品など生まれはしないのに。
『樽』は『樽』だ。
それ以上でも、それ以下でも無い。
そんな『肉樽女』がニヤニヤと男に媚びた笑みを浮かべながら体を揺する……。
──正直、気持ち悪い。
冬夜は体中が痛む中、言いようの無い吐き気を覚えながらも、ぼんやりと思った。
『あー……』
そういえば、遠藤の名前は『遠藤可憐』だったような気がする。
完全に名前負けしているが、冬夜の脳裏に、入学当初の自己紹介で「現実にこんな乙女チックな名前を付ける親もいるんだ」程度には思った記憶が蘇る。だがそれは、覚える理由も無かったから早々に忘却の彼方へと放り投げた、心の底からどーでもいい記憶だった。
だが、この気持ち悪いほどの親密度と、黒スライムの雰囲気からして、目の前のこいつが例の、大学生(とてもそうは見えないが)だという彼氏なのだろうか?
そういえば、高津が言ってた外見にそっくりだ。
ただ、高津が「喧嘩したら楽に勝てそうだけど、その何倍も何十倍もめんどくさいことになりそうな、オタク特有の粘着質な印象が粘っこくまつわりついていた」と言っていたが、冬夜はいきなり暴力を振るわれたせいか、それほど楽に勝てそうには見えなかった。
そんな男の目当てが夕夏(の体? おっぱい?)なのだとしたら、果てしなく面倒臭い事態になる予感が嫌でもしてくる。
「とーや……痛い? 大丈夫?」
だが、当の夕夏といえば、自分の背後で交わされている言葉にも、自分が『乳姫様』を呼ばれたことにも全く意識を向けず、ただひたすら冬夜の体をぺたぺたと触り、砂や埃を払っている。
遠藤とその彼氏の会話など、全く気にしていないのが彼女らしいと言えば、らしい。。
「血が出てる……」
彼女に言われて、初めて気付いた。アスファルトを転がった時に擦り剥いたのか、右手の平の皮が剥けて血が滲んでいた。
「……っ……!」
思い出したようにじくじくとした痛みが走り始めた右手を、夕夏は泣きそうな顔でじっと見ている。
夕夏は、冬夜が“全て”を知ってしまっているとは、知らないのだ。
きっと、だからこうして、心から心配しているように“見せている”のだろう。
そう思うと、右手よりもずっとずっと、胸が痛い。
「大丈夫だって」
「でも……」
さらさらと肩を滑り落ちる黒髪から、ふんわりと(嗅ぎ慣れた)良い匂いがして、だがそれが逆にひどく気分を悪くさせ、冬夜は顔を顰めた。
「けどさー」
不意に遠藤の声が、妙に甲高く朝の空気を震わせた。
その声に抑え切れない不満を感じ取って、冬夜は黒スライムに目を向ける。
「カノジョいるのに他のオンナにキョーミ出すって、どーなの? なんなの? フツーしなくね?」
「あぁ!?」
「ぐぎっ!?」
一瞬だった。
冬夜と、そしておそらく夕夏さえも、驚きに目を見開いて目の前の光景を凝視していた。
遠藤が男に不満を漏らした途端、男が遠藤の肩を抱いた腕を解き、その手で彼女の頭を拳で殴り付けたのだ。
「オイッ! オイッ! は!? なんなん? は? オマエ、いつからオレに文句たれるほどエラくなったんだよ? え!?」
「ご、ごめ……」
「あぁ? 謝んのかよ? 謝るなら最初から口にすんな。な? オイ!」
言いながらも、男は遠藤の髪を鷲掴みに掴んだまま、乱暴に揺すっている。
「ご、ごめん。ごめんなさい。許して。ね、ごめんってば」
学校で見せる、世の中を嘗めた傲岸不遜な態度とは正反対の、遠藤のしおらしく弱々しい反応に、夕夏でさえ先ほどとは違った意味で驚き、目を見開いている。
冬夜も、ついさっき味わったばかりの、遠慮の無い暴力を思い出して胸糞が悪くなった。
この男の性根も目的も、さっぱりわからない。
いったい、どういう男なのか。
だがとりあえず確かなのは、目の前の男が、女にも躊躇無く拳で暴力を振るえる最低なクズ男だという事だった。
ひとしきり遠藤の頭を揺すった男は、殴り付けた時と同じくらい唐突に、今度は彼女の頭を引き寄せて……抱き締めた。
「あんっ」
遠藤が甘ったるい声を上げる。
──何が始まったんだろう?
物書きの端くれの性だろうか。
冬夜は別の意味で興味が沸き、思わず男を観察してしまった。
「わかりゃいいんだよ」
「ゆーじぃ……」
続いて男(ゆーじ? ユウジ?)の口からは、ヒトモドキの黒スライム相手に、よくそこまでペラペラと口に出来るなあと思うようなセリフが後から後から滑り出していた。
曰く。
オマエもさ、わかってんだろ?
オレはオマエが憎くてこんなことしてんじゃねーんだよ。
オマエがさ、カワイーんだ。
カワイーからさ、オマエがバカなこと言ったら、ちゃんとオレがそれを教えてやんなくちゃって思うんだよ。
それもオマエがカワイくて好きだからなンだ。
ホントだぜ?
好きなのはオマエだけだって。
信じろよ。
このオレを。
オマエのユウジを。
な?
アソビはアソビ。
カノジョはカノジョ、そこんとこわかれよ。
特別なんだからサ。
ばっかオメェー。
ンなこと気にすんなヨな。
オマエは特別なオンナなんだからサ。
「特別?」
男の胸から顔を上げた黒スライムは、涙と鼻水でそれはもう──元からひどかったが、更にひどい顔だった。
「アッタリマエだろ?」
ユウジが黒スライムを引き寄せて、そのブヨって涙に濡れた頬へ唇を寄せる。
が、さすがにキスするのは嫌だったのだろうか?
口付けずに、耳元へ息を吹きかけた。
それには気付かなかったのか、黒スライムは嬌声を上げて嬉しそうに身を捩った。
「ちょっとサ、具合をな、見るだけだって」
「えー……でもー、つまみ食いに本気出したら……ヤダよ?」
「オマエが一番だって。知ってんだろ?」
「んふふふ」
「だからよ、な? いいダロちょっとくらい」
「じゃ、許して、ア、ゲ、ル」
『合体し損ねたスライムを10回くらい叩いて粘土捏ねるみたいに人の顔っぽく仕上げたヒトモドキ』と、高津が言うところの『夏休み終わって二学期デビューした、痛々しい萌えブタオタクの成れの果てみたいな男』はノータリンを地で行くような薄ら寒い言葉を交わしながら、自分達の世界を作っている。
内容はと言えば──「アソビはアソビ」とか「具合を見る」とか「つまみ食い」とか言ってる事から、つまりは、男の方が夕夏を“どうにかしたい”という事なのだろう。
結局、夕夏と冬夜は突然始まった喜劇じみた──いや、喜劇そのものとしか思えない寸劇を、間抜けにもポカンと口を開けたまま、最初から最後まで眺めてしまっていた。
気が付くと、視界の隅にいたはずの「新聞部(?)」の彼女の姿が無い。
この遠藤とユウジこそが、彼女の仲間(協力者)かと思ったのだが、違ったのだろうか?
それとも空気を読んで(?)逃げ出したのだろうか?
最後まで顔を見る事が出来なかったが、今は新聞部員か、少なくとも新聞部に関係する人物だとわかっただけでも、良しとするべきなのかもしれない。
『クソ……ッ……』
毒気を抜かれた感があるものの、思考を切り替え冷静になってみれば、未だ自分(と夕夏)が突然放り込まれた危機的状況のただ中に在る事には、何ら変わりが無い。
目の前の男は、息を吸うくらい簡単に、好きだと嘯く女にも暴力を振るう、正真正銘のクズ男なのだから。
もちろん冬夜は、夕夏が男の暴力にただ漫然と晒されるような女だとは思っていない。
なにしろ彼女は合気道の修練者であり、しかも“段持ち”であり、咄嗟の時にも怯える事無く、その技術を行使出来るだけの胆力を持ち合わせているからだ。
だから、万が一にもこんな男に不覚を取る事は無いとは思う。
そこだけは信じている。
信じているが……今ここには、自分という“枷”がいるのだ。
すぐにでも夕夏をここから──せめて人通りのある道まで逃がす必要があるだろう。
たとえ夕夏が、幼馴染を都合良く利用する最低な糞女だったとしても、冬夜にとって彼女は、一度は心から真剣に恋した、たったひとりの女なのだから。
そんな女が“枷”のせいで、こんなクズ男に暴力を振るわれた挙句、犯されるような事にでもなったら──。
『ちくしょう』
残念だが、自分は弱い。
同年代の男達と比べると、ちょっとばかし文章を書くのが上手い、ただの健康優良文系童貞少年(思春期真っ只中)に過ぎないからだ。
冬夜はそれを十分過ぎるほどに理解している。
このままここにいたら、確実に自分は夕夏の足手まといになる。
かといって、寒さに震え、手足が悴んで体中が痛む状態で(ピザの遠藤はともかく)男から逃げ切れる自信も無かった。
『時間は……』
左手の腕時計を見れば、蹴り回された時にどこかにぶつけでもしたのか、画面が割れて液晶表示がおかしくなっていた。
やたらと安い上に造りのチャチな時計はこれだから嫌だ。
高校入学の記念に父に買ってもらった時計は国産メーカーのそれなりに良い時計だったが、逆にもったいなくて滅多につけていない。
夕夏を追いかけるために着替えた時、咄嗟にこっちを持ってきて逆に良かったのかもしれないが、今はそれが仇となっていた。
冬夜は考える。
ぐちゃぐちゃの思考を必死にまとめて記憶の底から列車の運行スケジュールを搾り出した。
この場所にたどり着いた時、時刻は確か6時20分前だった。電車は通常であれば上下線とも15分間隔だが、朝の通勤時間は上り線が変則的になる。35分の準急の後は47分の特急通過電車、50分の普通を経て、7時5分の急行が続き、対して下り線は通常運転のため32分の急行と47分の普通と7時2分の準急が続く。
頭上の高架線路を列車が通り過ぎたのは……確か3回、だった気がする。
その3回が32分の下り急行、35分の上り準急、そして47分の上り特急通過電車だとしたら、7時になるのも近い。
7時を過ぎれば本格的な出勤・登校ラッシュが始まるし、駅前商店街のいくつかの店も開店準備を始めるだろう。
『──だったら』
冬夜は夕夏に助けられるようにして身を起こし、そうしながら、気遣わしげに添えられた彼女の手を荒々しく振り払った。
「……とーや?」
きょとんとした顔で、振り払われた手を宙に浮かせたまま、夕夏は冬夜の顔を見た。
「痛かった?」
「お前、早くここから行け」
「うん。行こ?」
「いやだから、いいから逃げろって言ってんの」
「うん。とーやと一緒にね?」
「ちが…………おま──」
──話が通じてない。
「お前、馬鹿だろ。なんで俺にまだこんな……」
「え? だって……とーや、痛そうなんだもん」
「そういうことじゃなくて──ッッ!!」
「???」
冬夜の血を吐くような言葉に、夕夏は本気でわからないといった感じに小首を傾げた。
──なんで不思議そうな顔するんだよそこでっ!!
枯れかけていた涙が出そうだった。
この女に、自覚は無い。
いや、あるのだろう。
自覚はあるのだろうが、悪意が無い。
きっと今も、「自分にとって冬夜は幼馴染」で、「自分が困っていたら必ず助けてくれて、そうするのが当然」で、そしてそれを疑っていない。
どこまでも冬夜は「利用していい便利で都合の良い男」なのだ。
それが、夕夏にとっての当たり前なのだ。
ならば今ここでも「利用」して自分だけ逃げればいいものを、そうしようとはしない。
なぜか。
計算高い夕夏の頭の中を窺い知ることは出来ないが、たぶん、「そんな都合の良い男がこれから手に入るかわからないから、こんな所にむざむざと捨て置き、失うような事はしない」ということなのではないだろうか。
『とーやはわかってくれるわ。昔も今も、私のことを一番に想ってくれるもの』
ついさっき聞いたばかりの彼女の言葉が耳に蘇る。
冬夜は自分のことが好きだから、自分から離れない限りは、彼の方から離れたりしない。
『そういうことか?』
やはり、どこまで行っても、自分は「本当の彼氏」ではなくて、「便利に利用出来るから大切」な、ただの幼馴染──。
『クソッ……』
俺はどうして、こんな女を好きになってしまったのか。
「お前さ……もう、俺に構うな」
「とーや? どうして?」
「どうしてって、お前……それを俺に言わせるのか?」
「それ? どれ?」
「冬夜がいったい何を言ってるのかわからない」とでも言いたそうな困惑顔で、夕夏は首を傾げる。
俺は知っている。
ぜんぶ、知っている。
ぜんぶ、知っているんだ。
冬夜はそう言いたくて、だがそれをこの期に及んでも、何故かどうしても言えなくて、痛そうに顔を歪めたままアスファルトに視線を落とした。
『だってさぁ……』
──こんなの、惨め過ぎるじゃないか。
言えるわけがない。
今ここで自分から「お前が本当に好きなのは土御門先輩で、俺を利用しているだけなんだよな」と確認して、それでいったい何があるというのか。
そんな事をしても、何も無い。
何も、残らない。
さっきは、どんな結果になろうが自分の手でケリを付けなければいけないと決意したのに、夕夏の手に触れ、匂いに触れ、彼女との日々が脳裏に浮かぶと、あっという間にその決意さえもが揺らいでしまった。
こんな女。
馬鹿女。
糞女。
散々、心の中で罵倒したのに。
今だって、罵倒しているのに。
自分は、なんて弱い人間なんだろう──。
だからといって、好きだった女をむざむざひどい目に合わせていいという理由にはならない。
男なら一生に何度かは確実に、好きな女の前で「男をやらなければいけない」時が、あるのだ。
「いいから、行けって!」
話の通じない夕夏を強引に突き飛ばす。
彼女は呆気にとられた顔のまま、ころんとアスファルトの上を転がった。
「オイオイ、彼氏さんさぁ」
その間隙を縫うように、男が身を滑り込ませてきた。
「オレの目の前でナニやってん……のッ?」
──蹴りが来た。
身構える間も無く左肩を蹴り付けられ、勢い良くひっくり返って後頭部をぶつけた。
予備動作無しの、いわゆる“ヤクザキック”だった。
「がッ!?」
冬夜は一瞬視界が白くなって痛みに悶絶し、頭を抱えて転がる。
「とーやっ!!」
身を起こし、立ち上がろうとした夕夏の前に、巨体が割り込んだ。
遠藤だった。
「委員長様さ、ユウジが話しあるんだって言ってんじゃん?」
「…………だから?」
やばい。
夕夏の声がとんでもなく低い。
まさに地獄の底から響いているような声音で、既に恐ろしいくらいの危険域に達してるのが、わかった。
かつて遠藤の頭からオレンジジュースをぶっかけた時の夕夏の顔が脳裏に浮かぶ。
きっと今の夕夏の顔は血の気が引いて青褪め、一切の表情が消えているに違いない。
そして目が“きゅう”と細くなり、半眼になって、全身から危険な圧力を噴き出しているのだ。
こういう時の夕夏が何をするか、もう、冬夜にも想像すら出来ない。
それがわかるのに、声が出なかった。
「『乳姫様』さあ、イイのか? 彼氏にバラすぞ? 男居るのに他の男とこんなことしてて」
冬夜にスマフォらしきものを向けて、すぐに夕夏へと画面を向け、男が何か言っている。
何を言っているのだろう。
冬夜は、目がチカチカとしていて状況が良くわからなかった。
男の言い方からして、手にしたスマフォの画面には、夕夏が“他の男”と“ナニか”している写真画像でも映しているのだろう。
だとすれば、冬夜が樹から送られた隠し撮りのバストアップ写真など、話にならないほど赤裸々な画像に違いない。
それは、「新聞部の女」が言っていた「彼氏と、その牛みたいな“エロおっぱい”で乳繰り合ってるトコロ」の盗撮写真だろうか?
それとも、【チェシャ・キャット】がアダルト掲示板にアップした「男おっぱいを揉まれ、体をまさぐられながらのハメ撮り写真」だろうか?
だが残念ながら、それはたぶん両方とも相手は土御門先輩だ。
もしこの男が冬夜を彼氏だと思って、「冬夜が居るのに先輩としていることをネタに」夕夏を脅そうとしているのなら、見当違いも甚だしい。
だが、もし土御門先輩を彼氏だと思って、先輩としていることをネタに夕夏を脅そうとしているのなら、意味がわからなかった。
もしかしたら、もっと直接的な、夕夏の体を写した写真なのかもしれない。
ただ確かなのは、夕夏が「恥ずかしい写真」をネタに脅されているという事と、目の前の男が「恥ずかしい写真」をネタに女を脅している最低なクズ男だという事。
そのたった二つの事実だけだった。
「……それがなに?」
「いだっ!!! いだぁあっ!!」
──悲鳴がした。
屠殺される豚でも、もう少しマシな悲鳴を上げるに違いない……と思わせるような、ひどく無様でみっともない声だった。
冬夜はハッとして声のした方を見た。
遠藤だ。
夕夏は彼女の右手首を掴みつつ肩を押さえ、関節を決めながら脱臼寸前まで捻り上げて、そのぶよぶよとしたピザな体を、易々とアスファルトの上に跪かせていた。
案の定、夕夏は男の言う事など一切聞くつもりなど無いらしい。
「とーやにひどいことしたその脚、もういらないよね? いいよね?」
夕夏の目が、冬夜の目の前に立つ男の脚を物騒な目つきで凝視していた。
「いひぃいいいいいいッ!!!」
よほど腹に据えかねたのか、遠藤の腕を捻り上げたままなのだろう──悲鳴を引き摺るようにして靴音が、まっすぐに男へと向かっている。
おい。
ちょっと待て。
何が「いい」んだ?
「もういらない」って、どういう意味だ?
冬夜はゾッとして必死に顔を上げる。
体が強張り、聞きたいのに聞けなかった。
「なっ──」
頭上で男が絶句している。
男もまた、夕夏の壮絶な迫力に呑まれて硬直していた。
その時、どうしてそうしたのか。
後から思い出しても、なぜそうしたのか冬夜自身も思い出せない。
が、腹の底から沸き起こる激情が明確な形になる前に冬夜は、
「クソッ!!」
悲鳴を上げる体の痛みを無視して、強引に立ち上がっていた。
「なっ──」
そうして男に体ごとぶつけるようにして、手に持ったケータイをもぎ取るようにひったくる。
一瞬も躊躇しなかった。
軋む体を意思で捻じ伏せ、後の事は知らぬと、手に持ったソレを高く掲げる。
呆気に取られた間抜けな男の顔を至近距離でチラリと見やり、
そして。
──それを地面に叩き付けた。
踏んだ。
何度も。
何度も何度も、足で踏み付ける。
液晶画面にヒビが入り、割れ、耳障りな音を立てて部品が散らばる。
とどめとばかりに踵に体重をかけて踏み躙り、アスファルトにへばりつけとばかりに脚を捻った。
少なくとも本体メモリーはこれでメチャクチャになる筈だ。
SDカードに保存されている場合は──その時はまたその時考えればいい。
「ナニしてんだテメェッ!!」
「グッ!!」
状態を確かめようと足を上げたところで、蹴りが脇腹に突き刺さった。
冬夜の体は面白いくらいに吹っ飛び、アスファルトを転がって、すぐ近くのブロック塀にぶつかることでようやく止まった。
体重が入った格闘技的な蹴りではなかったのに、やたらと重い蹴りだった。冬夜の姿勢と激昂した男の勢いが、妙な具合に合致したのかもしれない。
男は、転がったまま咳き込む冬夜を追い掛けるようにして近付くと、彼の腹目掛けて右足を蹴り込む。
「クソがッ!! テメッ!! オレの! クソッ!」
「がッ……ぐっ……」
内臓に加えられる衝撃で、肺腑の空気が一瞬で体から抜けた。
あまりの痛みに、途中から呻き声も出なくなる。
「とーやっ!!」
夕夏の悲鳴が聞こえる。
小説を書いてる時や資料を漁っている時、そして他の作家のラノベを読んでいる時など、暴漢相手に立ち回る自分を夢想した事が幾度と無くあった。
暴漢の手をかわし、蹴りを紙一重で避け、決して捕まらずに翻弄し、からかい、時に攻撃を加える。
悪漢相手のヒーローみたいな、そんな自分だ。
だが、そんなのは現実の前には何の役にも立たない。
一度蹴られただけで体中が軋み、追撃気味に何度も蹴り込まれたことで、反抗する心まで折られてしまったようだった。
抵抗することも出来ず、冬夜はサッカーボールのようにただ男の蹴りを受け続けていた。
「なんとかッ! 言えッ! クソッ!! クソッ!!」
痛みに体を丸め、両手で腹を庇うと、その上から更に蹴りを入れられた。
鉄っぽい味が口の中に広がっている。
鼻血が喉を落ちたのか、口の中をどこか傷付けたのか、それとも唇を切ったのか。
──なにやってんだろおれ
──かっこわるいな
──にげろゆーか
──にげろ
「とーやっ!!」
なのに馬鹿な幼馴染は、わなわなと震えながら、関節を決めたままの遠藤を強引に引き摺りつつ歩み寄ろうとしている。
「く、くる──にげっ……ふぐっ!!」
一発、いいのが鳩尾に入った。
苦悶し、のたうち、体が硬直する。
「とーやぁっ!!」
「ばっ……ばか……ばかゆーか……こっち……来んなって……」
蹴られ過ぎて痛みが麻痺してくる。
食道を胃液が逆流し、喉が焼けた。
何度もトイレで吐いたせいか、その胃液さえ少なかった。
アスファルトに付けた頬が冷たい。
それに対して腹が燃えるように熱かった。
苦しみと痛みで、視界が涙に滲む。
「…………おまえっ! おまえぇえええ!!!」
そのぼやけた視界の中、不意にドスの利いた、恐ろしく凶悪な声が高架下の空間に響いた。
──夕夏だった。
冬夜はその時、『怒髪天を突く』という言葉の意味を、改めて知った気がした。
滲む視界の中、夕夏の黒髪が震え、揺らぎ、その綺麗な顔が怒りに歪んでいた。
彼女らしくない、怒りに我を忘れた、狂った女がそこにいた。
「よくもぉっ!!!」
「ぎゃっ!!」
今まで引き摺っていた遠藤を突き飛ばし、般若のような顔で夕夏が迫る。
「近寄んな!」
飛びつこうとした夕夏を、男の声が静止した。
「がっ!!」
同時に、冬夜の右手が男の足に踏み付けられ、骨がゴリッと音を立てて筋肉がひしゃげた。
「うあっ!!」
みっともなく悲鳴が口から漏れた。
痛い。
熱い。
安全靴のような厚い靴底が、鍛えられていない冬夜の右手のひらを、アスファルトの上に遠慮も無く押し付けていた。
「ぐっ──うっ……」
悲鳴など上げるものかと口を引き結ぶが、あまりの痛みに額に汗が滲む。
「とーやっ!! や、やめてっ!!!」
「へ……へへへっ……」
夕夏が動きを止めたことで、自分が確実に優位となった事を知ったのか、男の声に余裕が生まれた。
「なあ、コイツ小説家なんだろ?」
冬夜はぎょっとして一瞬だけ痛みを忘れ、反射的に男を見上げた。
小説を書いている事は、今も学校では秘密にしてあったし、家族の他は編集者と夕夏(とその家族)しか知らない筈だった。
最重要機密情報である作家の個人情報は、出版社のコンプライアンスによって厳重に護られている筈なのだ。
なのに、なぜこの男が?
なぜこんな、直接会った事も無いような男が、自分の秘密を知っているのか。
「下がれよ」
男が顎をしゃくる。
「へっ……」
夕夏が動かないと知ると、男は冬夜の右手を踏み付けた足にじわじわと体重をかけていった。
「だったら指を潰してやろうか? キーボードとか打てなくしてやればいいんだろ?」
「やめてっ!! わかったから!!」
夕夏が泣きそうな顔でじりじりと後ろに下がる。
その後ろには、憤怒の顔で立ち上がった黒スライム──いや、黒豚人がいた。
「やってくれんじゃん委員長」
「きゃっ!!」
夕夏が遠藤に背後から強引に引き倒され、アスファルトに押し付けられたまま、体の上に“どすん”と馬乗りにされた。
「ゆーじぃ、そいつの手、潰しちゃってよ。コイツ、あたしの腕折ろうとしたんだよ? 許せないってば」
「……そんな事してみなさい。私はあなた達を殺してやる」
重たい体で地面に押し付けられながら、夕夏が地の底から響くような声で呪詛を呟いた。
それは、場違いなほどに静かな、冬夜ですらゾッとする声だった。
彼女がこんな声を出せたのだと、初めて知った気がした。
「……なあ、ソイツの両手縛っとけよ」
「え? 何で?」
「ソイツ、格闘技とかやってんだろ? 両手が自由だとアブねーじゃん」
「えー? 合気道とか言ってなかった?」
「知らねーよ。もうどっちでもいいからよ、早くしろ。なんかあンだろ? こう、ヒモ的ななんかが」
「って言われてもー……」
遠藤が、体中をまさぐって夕夏を縛るものを探している。
いくら夕夏でも、両手を縛られては抵抗出来ない。
ましてや、自分を人質に取られている現状では、逃げ出すのも難しくなる。
チャンスは今しかない。
冬夜でさえそう思うのに、当の夕夏といえば、こっちを見ながら笑うのだ。
まるで、大丈夫とでも言うかのように。
『大丈夫。とーやは私が護るから』
そう、心で思っていそうな、そんな笑みを浮かべながら。
『俺なんか放っておいてさっさと逃げろ。お前だけなら、今なら逃げられる』
そう決意しながら冬夜が目に意思を込めて頷いて見せても、夕夏はただ微笑んでいた。
全然、まったく、これぽっちも伝わっていない。
冬夜は泣きたくなった。
「コレ使う?」
そんな中、不意に女の声が聞こえた。
遠藤のものではない声だ。
視線を巡らせれば、そこには消えたと思っていた、さっきの「新聞部員の女」がいた。
手に、紐状の何かを持っている。
だがそれより冬夜の目を引いたのは、その顔だった。
見覚えのある顔だ。
それどころか、昨日逢ったばかりの顔だった。
声に聞き覚えがある筈だ。
短時間ではあったが、確かに会話していたのだから。
「縛るなら手伝うけど」
軽くブリーチが入っている赤茶色でショートカットの髪。
小動物を思わせる、こじんまりと小さくまとまった顔と背の低さ。
そんな少女が、目尻が少し上がって吊り目気味に見える瞳で、冬夜を見下ろしていた。
『猫娘……』
──安西佳代。
昨日、あの時、この女はそう名乗っていた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。