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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

アナガユ

作者:夜方
 月は満月。
 しゃりしゃりと米を磨ぐ音だけが聞こえる。
 俺はそれを確かめるでもなく自分の仕事を黙々とこなしている。
 それはスコップで、ただひたすらに地面に穴を掘るという仕事。
 一体いつから、どれだけの間使われ続けているのかは分からないが、そのスコップは先端が歪み、持ち手の元の色も分からなくなるような染み、所々ぬるりとしたそのせいでさっぱりと仕事が捗りはしない。
 俺がこんな馬鹿みたいな仕事をしているのはひとえに馬鹿女のせいなのに、さっさと根を上げたのはその馬鹿女の方だった。

「も、もう無理ですぅ、許してくださぁい……」

 女が上げたカチカチと歯を鳴らしながらの甘ったるい懇願に、俺はさすがにイラっとして顔を上げた。かれこれ二時間、土壌が腐葉土と呼べる柔らかさであった事も幸いしたが、何より俺の勤勉さの甲斐もあって山間に掘り続けた穴は人一人簡単に入る程の深さに達していた。俺はその穴の底から女を見上げる。馬鹿女はレザー製の黒のライダースジャケットに同色のホットパンツ、それに網タイツ姿。「あたしなりのボニーを意識したってわけ」と五時間前に語った時と同じ馬鹿な格好のままだったが、破れた網タイツの左膝、そこに滲んだ血は止まったらしい。
 まだ雪は降ってはいないとはいえ季節は十二月、肌寒さを増す人里離れた山中で女のカチカチと鳴らす歯の音だけが静寂に消えていく。
 ふいに声が聞こえた。男の声。

「だぁめだよ、最高のお粥はさぁ最低でも二時間半は磨いでから作らないと、だぁめなんだよ」

 馬鹿女の脇に男が歩み寄る。柄の悪い男。ぱっと見は商店街のオヤジのような禿げ上がった恵比須顔。だがその顔は左のこめかみから右唇の下に掛けて長い傷が縦断していた。柄の悪さというのは着るものにも表れるのか、ダウンジャケットの下にはこれまた柄の悪いシャツ、そして大振りな鎖で出来た金色のネックレスをしている。
 男は穴の底でも覗き見るように、ちらと俺の顔を一瞥した。

 馬鹿女の名はミッシィーといった。本名は、知らない。
 ミッシィーが俺の回りをうろちょろし始めたのは、確か五年か、六年頃前。マイティーことこの俺が率いる、マイティー・ボン・ジャックのライブに来ていたのがすべての始まりだった。
 後で聞いたところによれば既に高校過程は修了していた年齢だったらしいのだが、ライブ中ノリにノッているブレザーの制服姿の女学生風がいるのを俺は何度か目にしていた。
 ある日ライブ終わりの出待ちをしていたブレザー姿の女学生風は、俺の顔を見るや開口一番こう言った。

「このバンドは最高よ! きっと今世紀最高のバンドになるわ!」

 それこそがミッシィーの、俺の運命を狂わせた馬鹿女の最初の一言だった。
 その言葉に俺が気持ち良くなったとしてそれは果たして俺のせいだろうか? いやそれは違うだろう。きっと誰だってそう言われれば俺と同じ気持ちになったはずだ。だからその後、銀縁の細いフレームの眼鏡を掛けたミッシィーが楽屋にふらと現れ、マネジャー気取りで居座るようになったとしても別段気にも留めずに受け入れたのだ。
 彼女は言った。

「このバンドは音は最高だけど売り方が良くないのよ」

 ……なるほど、そうかも知れない。目の上にアイシャドーを塗りながら聞いていた俺は妙に納得したものだ。大して深い考えもない馬鹿女の発言ではあったが仕方がないのだ。普段の冷静な俺ならいざ知らず、その時の俺は馬鹿女に乗せられていただけなのだから。それにいつの間にかマネジャー兼プロデューサーとなった彼女の売り出し作戦に面白がって乗っかったのは俺だけじゃない。バンドの他のメンバーだって最初こそ乗り気だったのだから。だが結局、馬鹿女の売り出し作戦が功を奏するなどという事もなく、そのメンバーもこの数年で、一人また一人といなくなった。
 この一年マイティー・ボン・ジャックは俺一人で活動を続けている。勿論俺だって辞め時かと考えた事はある。だがそのたびにミッシィーは言うのだ。

 まだ世間があたし達の音楽に追いついていないだけよ――。
 夢の印税生活はもはや目前ね――。

 だから俺はステージに立ち続けた。無名のバンドが連なるいつものライブハウス。今にして思えばこのライブハウスからビッグになったバンドは輩出されていないから、俺が売れなかったのはこのライブハウスのせいでもあるかもしれない。

「マイティー・ボン・ジャックが売れない理由がようやく分かったわ」

 そうミッシィーが言ったのは昨夜の事だった。さして根拠など無いくせにライブも終わった楽屋で彼女は続けた。

「このバンドに足りないもの、それは伝説よ!!」

 俺は正直伝説という言葉に高揚した。だがそれは仕方のない事だ。今にして思う。ミッシィーは馬鹿女のくせにこの数年のうちに俺がどういう言葉に興味を示すのかを調べつくしていたのだ。だからひょっとしたら俺はこの数年で馬鹿女に暗示をかけられていたのかもしれない。そうか! 今の今まで馬鹿女の言うとおり動かされていたこれはマインドコントロールだったのか!
 高揚する俺の隣でミッシィーはその伝説の作り方を説明する。
 このライブハウスの二階部、ミキサーが設置されたステージを見下ろすそこでは毎週土曜日のライブ中にいかがわしい男達の取引が行われているらしい。明日はまさに土曜日。だから……「その売り上げを盗もう」と馬鹿女は事も無げに言った。
 さすがの俺も言葉に詰まったが、「人数は多い時でも三人くらい、取引を終えて帰る気の緩んだ所を横から掠め取っちゃえば楽勝ってわけよ」と締めくくった後で向けられたミッシィーの自信に満ちた、それでいて何かを期待するような視線を向けられては逃げる訳にはいかない。なぜなら俺は今世紀最高のロッカーなのだ、という暗示をかけられていたのだから。

「ああ、楽勝だな」

 揺るぎない自信と高揚の中にいた俺は、馬鹿女の求める言葉を易々と吐いていた。

 明けて土曜日、俺にはクライド気取りのつもりは毛頭無かったが、ボニー気取りの馬鹿女との大した計画性も無いその計画はあっさりと成功し、そしてあっさりと失敗した。
 取引場所には馬鹿女の言ったとおり男が二人出入りしただけだったから、そいつらが仕事を済ませてライブハウスから出てきたところで襲うのは訳もない事だった。
 馬鹿女が催涙スプレーを撒き散らし、サングラスにマスク姿の俺がいかにもといったアタッシュケースを剥ぎ取る。
 男達の咽ぶ声を尻目に駆け出した俺と馬鹿女の計画は確かに成功した。だがそれもそこまでの話だった。金の詰まったアタッシュケースを強奪するところまでは考えていた馬鹿女ことミッシィーだったが、逃亡の計画までは練っていなかったのだ。適当に路地裏に駆け込んで走れるだけ走ろう、出来るだけ遠くへ。そう俺が考えた時、じつにあっさりと計画は破綻していた。
 取引に赴くのは確かに男が二人だけだったが、外で男達を待っていたのはそれ以上にいたのだ。俺の駆ける先を塞ぐようにして黒塗りのセダンが路肩に乗り上げる。後ろを塞ぐようにしてもう一台のセダンが俺の退路を断った。中から出てきた男達は総勢五名、それに充血した目を擦りながら駆けて来た男二人が加わる。見れば馬鹿女は早々に転倒しとても逃げ切る状態ではなかったらしい。左膝から血が滲んでいる。
 ぐるりを取り囲んだ男達、ボスらしき恵比須顔の男は馬鹿女の計画性らしさもない強奪計画を愉しむように俺達を交互に見た後で、笑った。

 俺達を後部席に押し込めた後でセダンは走り始める。
 俺達と同じく後部席に乗った恵比須顔は、馬鹿な俺達に気を良くしたのか今の商売の主戦力だという白い粉、ハロウィン・パーティなるその薬物を少量ずつ俺達に吸引させてくれた。そしてその後で「時間つぶしにゲームをしよう」と言い出した。
 なんの事はないじゃんけん。
 だが俺達には当然メリットは無い。
 第一ゲームの参加者は馬鹿女ことミッシィー。
 先ほどの薬物にどれほどの麻薬効果があったかは分からないが、じゃんけんで負けるたびに馬鹿女はラジオペンチで黒いマニキュアの施された生爪を一本一本剥がされて悲鳴を上げた。
 馬鹿女は往生際悪く無駄な抵抗をしようとして手を隠そうとする。三人がけの後部席で恵比須顔が言った。

「おいお前、女の腕を押さえておけ」

 だから俺は従順に従った。
 女が罵声を俺に浴びせかける。
 そして俺はコイツの本性を悟った。やはりこの女は馬鹿女の糞女だったのだ、と。
 ゲームは思いのほかあっさり片がついた。セダンは走る、安全運転に近いスピードで。
 一時間とちょっと経った頃目的地へとついた二台のセダン、それから降ろされ更に三十分程歩かされる。
 そして俺達はざっと二時間、米磨ぎと穴掘りという仕事に勤しんでいた。

 馬鹿女は生爪の剥がされた手で米磨ぎをしていたが、どうやら限界だったらしい。カチカチと歯を鳴らしながら並べ立てる哀願の言葉、それを遮るように恵比須顔の取り巻きが馬鹿女の下手くそに染まった金髪のブリーチを引きちぎるほどの力でぐいと掴みながら、馬鹿女の手から米の入った飯盒はんごうを引き剥がす。馬鹿女は悲鳴を上げたが男は気にも留めず、女の左頭部を掴んだままで別の男へとその飯盒を手渡した。
 男はそれを持って自分達が暖をとる焚き火の方へと向かった。悠長にもこれから粥を炊くという事なのだろう。
 俺は視線を戻すと悲鳴を無視して、しかし主犯のくせにさっさと根を上げた馬鹿女の態度にイラつきを覚えつつも穴を掘り続ける。
 するとそこで恵比須顔が思いがけない言葉を発した。

「よぉし、ゲームをしよう。僕らだってねぇ、暇なわけじゃあない。もし君らがゲームに勝ったら君らを解放して僕らは次の仕事に向かうとしよう」

 そこで目潰しされた男のうちの一人が噛み付いたが、恵比須顔は鋭い視線で男を黙らせる。そこにリアルがあった。だから俺はスコップを地面に落として拾い上げもせず、恵比須顔の言葉を聞き漏らさぬように全神経を張り詰めた。

「ウミガメのスープって話は知ってるかい? これから話す話がどうしてそうなったのかっていうのを推理するゲームなんだけどねぇ。さっきも言った通り僕らも暇じゃあない、だから質問は三回までって事にしておこうか」

 暇じゃないなどと言っていたくせに、恵比須顔は勿体つけるように十分に間を持たせた後で話し始める。

「……そこは色の失われた世界。聞こえるのはエンジンが起動する音と排気音、それのついたり消えたりが繰り返されるだけ。そこにある日行列が出来た。機械的に並ぶ長い長い行列だった。そこへある男がやってきた。男は列と列との繋ぎ目、上手い具合に見つけた列の後尾へと並んだ。どれくらいの時間が経っただろうか。一時間、いや二時間以上はその行列の一部と化していた男は、ふいに自分の一つ手前に並んでいた初老の男に声を掛けられると目を見開き絶望の内に、眼前を見つめて拳を打ちつけながら叫んだという。……さて、男の身に起こった出来事とは?」

 俺は脳内をフル稼働させるようにして速やかに熟考を始める。しかしその間近では、

「そこは人間の世界じゃない?」

「いいえ」

「男の知らされたのは家族の悲報にまつわる事?」

「いいえ」

「実は男に行列に並ぶ理由はない?」

「いいえ」

質問は既に三つ使い果たされていた。

 あの、馬鹿女!
 馬鹿女!
 馬鹿女!
 馬鹿女!
 馬っ……あ……。

「しゅーりょー」という恵比須顔の質問タイムの終わりの報せをぼんやりと聞きながら、俺はこの問題の答えが分かったような気がしていた。

 ……俺はそれを知っている。

 ……それを見た事がある。

 事の重大さに気付いた馬鹿女が叫ぶ。

「違うんです! 今のは質問じゃないんです! 独り言! ただの独り言だったんです!」

 それを見てニヤニヤと尚更に恵比須顔を丸くして見せる男の視界にも入らない穴の底で、俺はゆっくりと右手を挙げた。
 恵比須顔が俺の挙手に気付く。馬鹿女も、だ。
 馬鹿女は期待と羨望の眼差しをありありと覗かせて俺を見つめていたが、俺は一瞥して恵比須顔の顔だけをじっと見つめた。馬鹿女、お前のマインド・コントロールは解けてんだ、そうなりゃ俺はお前と違ってやれば出来る男なんだよ、バーカ、そう馬鹿女の事を心底で罵りながら。
 小さく息を吸って吐き出す。そして俺はその答えを口にした。

「おおおあえいいえうおおっえいああっあ」

 恵比須顔の爆笑だけが山中に響く。
 俺は自分の間抜けさ加減に嫌気がさした。

 ……そういやさっきのじゃんけん、俺は歯を全部抜かれちまったんだっけ……。

 穴の底で立ち尽くす間抜けな俺、その眼前にもう一人の間抜けが立つ。

「ちょっとあんた! 答えが分かったんでしょ! 何よ、もう一回言いなさいよ!!」

 俺の胸倉を掴むようにして馬鹿女がかなきり声を上げていた。それはもう絶叫に近い。
 身体中を泥まみれにして自ら地獄の底にやってきた馬鹿な女。
 その馬鹿な女に罵られながら、馬鹿で間抜けな俺はぼんやりと空を見上げた。
 粥の炊ける臭いが鼻腔をついた気がする。
 月は満月。
 その視界を覆うようにして、腐葉土が空を舞った。

 終

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