2015年08月16日

信仰と文学

これまで論じてきた信仰についての見方は、多くの信仰者、とりわけキルケゴールを納得させるものではないだろう。

たとえ同時代の者が「我々は神がこれこれの年に卑しい僕の姿を取って地上に現れ我々の前で行き、教え、そして死んだということを信じた」という言葉以外の何も残してくれなかったとしても――これでもう十分のわけだ。『哲学的断片』p−212

「永遠的なもの」が時間的なものの中に出現したというキルケゴールの≪逆説≫を尊重するとしても、これで十分であろうか? これによって信仰はごく形式的な信仰個条の如きものになってしまう。

それに対して、私は伝承されたテクストのどの部分が他の部分より重要だとか重要でないなどとは言わない。文学を読むように、テクストとの出会いを尊重し、それを単純な観念に還元しようとはしない。信仰の本質はこれだ、などと言うべきではないからである。

各人各様の読み方と出会い方があってよく、「各国語で」(『使徒行伝』2・4)それを述べ伝えればよいのである。

教会とは、共通のテクストを読む読書会のようなものである。古い読みの伝統は尊重され、テクスト自身に次ぐ権威さえも与えられるだろうが、自由な読みに常に開かれている。

それでは、『聖書』と言えども他の文学と同じではないか?

同じである。

そもそも、近代文学そのものが、かかる『聖書』の読み方から生まれてきたものなのであり、信仰の代わりとして誕生したものだとさえ言える。

かつて人々は、共同体や伝統の権威が振り当てる役割と意味を保持することで、それぞれの人生を全うしてきた。それぞれの人生には、村社会の中に固定された空間と、祭りや儀式によって画されえた時間ごとに果たすべき役割が与えられており、それらが全体の中でどう位置付けられるかは、個々人を超えた超越的権威へ委ねられていた。

近代は、これらの時間・空間の垣根を破壊し、世界市場という擬似全体を出現させることによって、諸個人を大きな不安の中に突き落とした。これは古代の都市国家や、ローマ帝国の末期に人々が感じた寄る辺なさにも似たものであったに違いない。古代国家の強い政治的絆から解き放たれた個人は、エピクロス主義やストア主義に満足できないで、キリスト教の信仰に救いを求めた。それと同様の孤独が、近代初期にも蔓延していた。

そこで、諸個人が権威に頼ることなく、己れ自身で世界とのつながりを確認する必要が出てくる。これが宗教戦争の中で、己れの信仰を再吟味しつつ聖書を読み返す習慣を生み出す。これが小説の読者を、小説の出現に先んじて用意したのである。

つまり、テクストの中に己れの人生のアレゴリーを読み取るという読み方である。

テクストはただ情報を伝えるのではない。ある物語は、直接読者に役立つものを伝えるわけではない。フィクションにおいては、そのような「直接的伝達」(『非学問的あとがき』上p−132)の路は絶たれている。むしろ、読者にとってその物語は、何かの意味の生成の物語として、その生成過程そのものとして読まれなければならない。それが物語が、主体の実人生のある大きな意味を浮き彫りにするための比喩として、理解される瞬間である。

テクストが、我々の実人生の意味を浮き彫りにする比喩やアレゴリーになるのは、それが実人生との間にある似た構造連関を、よりくっきりと夾雑物をまじえない形で表現するからである。

テクストを読むことによって、主体はどこか遠い世界の事実ではなく、自分自身の人生のある真実を発見するのである。そうであれば、そのような読み方が聖書に対して取られるのも当然と言えよう。

キルケゴールにとって、客観的真理と区別される主体的真理が、なお「真理」と呼ばれるのは、それがこのような比喩の形で自己自身の実存の意味を表現しているものと理解されたからである。

しかし、信仰においては、テクストはその背後に存在する超越的人格を示唆する。テクストがそのアレゴリーによって読者の実存を一瞬照らし出すとき、そこに読者は超越的な人格からの呼びかけを聴くような気がする。そうなると、もはやテクストは重要ではなく、その超越的な存在に主体の注意は集中することになる。したがって、その過程の中でテクストの細部は忘却されてしまう。テクストを読む複数の見方の錯綜が重視されず、単一の見方が絶対視されてしまう。

このようなことはキルケゴールにおいても生じている。彼にとってテクストの細部は、神が人となったというひとつの≪逆説≫の前では、どうでもいいものとなってしまう。

ところが、神が人となったという逆説に対する理解は、テクストの細部に頼る以外にないのだ。とりわけ言語的表現としてこの世に到来するということこそが、受肉の本質なのである以上、このテクストに我々がどのように接近するか(そして、どのように接近し損なうのか)を問題化せざるを得ない。つまり、≪逆説≫自身の意味が、それを解釈する読み方と相即的にかかわっているのだ。それゆえ、逆説の意味をテクスト総体の読み方と独立して確定するようなことはできない。つまり、≪逆説≫はそれ自身、近代文学の弁証法的性格そのものの表現であることになろう。


Posted by easter1916 at 15:10│Comments(0)TrackBack(0)

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