「准看護師養成所入学者が減少」−CBニュース、「従軍看護婦」-毎日新聞 地方版 和歌山、の紹介です。

准看入学者が減少- 日医調査 2013.8.14 CBニュース 日医が全国の医師会立の353校を対象に行った助産師・看護師・准看護師学校養成所調査によると、2008年度に215校あった准看護師課程の学校数は、今年度には193校に減少。11年度まで増加傾向にあった応募者も昨年度から減少に転じ、今年度は昨年度比約2000人減の2万5348人。入学者は227人減の9166人だった。 
 日医は、准看護師が中小病院や有床・無床診療所などの地域医療を支えているとし、「応募者が減少することのないよう、准看護師の重要性について積極的なPRが必要」と指摘。来年以降も准看護師学校養成所を維持する考えを示している。・・・私は、准看護師養成は、看護師の半分の教育で看護業務を課す本質的な制度的矛盾を孕み早期に停止すべきと考えています。養成を続けられるならば、2年課程の看護教育を継続されることを希望します。2年課程も12校減少し、准看護師養成の4割余りのため、多くの人が通信制へ、通信制は10年の就業経験が求められ、その間、労働力となり(医師会の看護職確保政策?)、向上心を維持する困難さを招く要因の一つと考えられます。  ・・・・
次に「従軍看護婦」の記事、長いですが、8月15日は敗戦記念日です。
戦没者追悼式が持たれます、お読みいただきたく転載します。
 ◇従軍看護婦
 日中戦争の開戦(1937年7月)から太平洋戦争の終結(45年8月)まで、日本赤十字社は軍からの要請に基づき、960班延べ3万3156人の救護看護婦を各地の陸海軍病院や兵站病院などに派遣した。−後略−
日赤の全従軍看護婦のうち1187人が戦死、または戦病死した。

戦場の看護婦:日赤和歌山第490班の記憶/ ビルマ最前線、薬も包帯もなく /和歌山 毎日新聞 2013年08月13日 地方版 軍刀を持った旧日本軍将校の後ろに、20歳前後の女性たちが立ち並ぶ白黒の集合写真がある。戦場の傷病者の救護に当たる「従軍看護婦」として、太平洋戦争中にビルマ(現ミャンマー)に派遣された日本赤十字社和歌山第490救護班。主に県内出身者で構成され、戦闘に巻き込まれるなどして23人のうち15人が戦死という悲劇的な最期を迎えた。現在、存命者は3人だけ。歳月に消えかかる同班の苦難の記憶をたどる。【岸本桂司】 
岩本(旧姓谷)あや子さん(89)=新宮市出身大阪府枚方市=は、骸骨のようにやせ細った兵士のうつろな表情が忘れられない。
   
ビルマで最後に勤務した病院には、マラリアや赤痢に冒された兵士らを施す薬も包帯もほとんどなかった。「看護婦として十分な仕事ができなかった。体をさすってあげることしかできなくて」。
病室から次々と運び出される遺体。戦後68年の夏、遠い目をしてその姿を思い浮かべた。 
日赤第490救護班は、1943年11月に召集。男性班長以下、女性看護婦21人と男性使丁(用務員)1人で構成された。平井(旧姓松山)越子さん(93)=かつらぎ町出身、和歌山市=は、和歌山を出発した日のことを今も覚えている。国鉄東和歌山駅(現JR和歌山駅)で無数の日の丸に見送られながら、報国の使命に誇りを感じ、「早く戦地に行きたかった」と思い返す。
 
救護班はラングーン(現ヤンゴン)などでの病院勤務を経て、44年3月、分院勤務を命じられた。当時のビルマ戦線は、英領インドにある英軍の要衝攻略を目指した旧日本軍のインパール作戦の失敗で、患者が増え続けていた。病棟とは名ばかりのわらぶきの小屋に、ござのような物を敷き詰め、患者を寝かせた。兵士たちは、ぼろぼろの軍服を身にまとい、空襲を避けるため夜間に搬送されてきた。
 
45年1月には最前線に近い第118兵站(へいたん)病院に転属した。既に、後方からの医薬品の補充は途絶えていた。膿(うみ)がこびり付いた包帯やガーゼは使用後、洗浄・消毒して繰り返し使い、時には木の葉を包帯代わりにした。高熱にうなされる患者を冷やす氷も解熱剤もない。おむつも不足し、便所に行けない患者の衣服は大便にまみれた。
平井さんはある時、息も絶え絶えな兵士の上着ポケットからこぼれ落ちた写真を拾い上げた。幼い子供の笑顔があった。郷里に残した我が子なのだろう。涙無しでは見ることができなかった。
明日は敗戦記念日、68回目、即ち68年間日本は戦争をしませんでした。憲法9条に戦争放棄を謳い守られてきました。戦争しない国を維持することを誓いましょう。

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