70年前沖縄のジャングルで戦った少年たちがいました。
(銃声)敵が登ってくるぞ。
撃て!はい!日本軍で唯一の…隊員はおよそ1,000人。
10代半ばの少年たちがアメリカ軍と戦いました。
幼くして兵士にされた少年たち。
敵と殺し合い友が死ぬのを目の当たりにしました。
少年たちが戦ったのは太平洋戦争末期。
激しい地上戦が行われた沖縄でした。
部隊の名前は護郷隊。
存在を隠して戦うゲリラ部隊だったためその詳しい実態は分かっていません。
今回私たちは元少年兵30人余りを取材。
映像も残されていない護郷隊の戦争を証言を基にアニメーションで再現しました。
敵を10人殺したら死んでもいい。
じゅ…10人?過酷な訓練によって兵士に変えられた少年たち。
お国のために死ねるか?はい…。
お国のために死ねるか!?はい…。
お国のために死ねるか!?はい。
次第に人間らしい心を奪われていきました。
なぜ日本は未来を担う子どもを戦場に送り込んだのか?兵力が不足する中兵士にできる年齢を引き下げ各地で子どもを戦争に利用しようとしていた事が明らかになりました。
(銃声)徳政!?徳政がやられた!盛一!ううっ…。
うわっわあっわあ〜っ!子どもを戦場へと駆り立てていった戦争の狂気。
70年前のあの日少年たちは何を見たのでしょうか?沖縄本島北部の東村。
海と森の間に家々が点在する人口2,000足らずの村です。
おはようございます。
この村で大工や漁師をして暮らしてきました。
有義さんには決して忘れられない記憶があります。
70年前16歳で兵士として戦う事を命じられたのです。
考えきれんね。
有義さんが所属していたのは少年ゲリラ部隊護郷隊。
「故郷を護る」という名のもとに1944年に作られました。
隊員はおよそ1,000人。
14歳から17歳の少年たちが中心でした。
山に潜み存在を隠しながら最前線で奇襲攻撃を繰り返すゲリラ部隊でした。
子どもでありながら敵と殺し合ったという記憶に長い間苦しんできた有義さん。
しかし70年がたった今このまま埋もれさせたくないとカメラの前で初めて口を開きました。
有義さんが語ったのはあどけない少年だった自分を変えた強烈な体験。
少年が見た戦場を証言を基にアニメで再現しました。
(有義)父ちゃ〜ん!随分切ってきたねえ。
有義ヤギの世話は終わったか?うん。
とっくにさ。
今日は海で大きなエビを取ったよ。
そうか。
よくやったな。
(有義)きこりもいいけどさやっぱり俺ウミンチュが向いてるかな。
それもいいさ。
山と海の恵みはいくらでもあるからねえ。
ハッハッハッ。
(母)お帰り。
アイナ有義あんたそんなにたくさんの薪持って…。
(妹)お兄ちゃん力持ち!
(有義)エヘヘ。
俺最近腕相撲じゃ負けた事ないさ。
1944年。
沖縄北部の少年たちは軍の飛行場作りに動員されていました。
ここに徴用されるのはもう2回目だぞっと。
有義!お前呼ばれてるぜ。
えっ?力持ちだからご褒美でもくれるのかな。
(青年団幹部)玉那覇有義!はい。
陸軍より名護国民学校に来るようにとの事だ。
すぐに荷物をまとめて船に乗れ!えっ?すぐに?
(有義)
この時僕はてっきり力自慢を買われ別の作業に呼ばれたんだと思い込んでいた
10月下旬からおよそ700人の少年たちが名護国民学校に集められていきました。
(分隊長)全員そろったな。
各自自分の名札を探せ!着替え終わったら校庭に集合!へえ〜本物の軍服だ。
上等だな。
(有義)
この時僕は後戻りのできない一線を越えてしまった事に全く気付いていなかった
そこ!遅れるな!ちばりよ。
これが済めば休めるさ。
何を甘ったれておるか!戦場では通用せんぞ!軍隊では情けは禁物だ!足手まといをかばう余裕はない!立て!
(中隊長)よいか!貴様たちは護郷隊に選ばれた。
故郷を護る誉れ高き部隊である。
撃て!
(銃声)
(中隊長)次!10人だ。
敵を10人殺したら死んでもいい。
じゅ…10人?
(銃声)
(分隊長)「一つ!軍人は忠節を尽くすを本分とすべし!」。
(一同)「一つ!軍人は忠節を尽くすを本分とすべし!」。
(分隊長)「およそ生を我国にうくるもの誰かは国に報ゆるの心なかるべき」。
(一同)「およそ生を我国にうくるもの誰かは国に報ゆるの心なかるべき」。
玉那覇。
「義は山嶽よりも重く」。
このあとは?「死は…死ぬのは…」。
えいっ!うっ!
(分隊長)「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」。
貴様らの命は鳥の羽よりも軽い。
死を恐れるなという事だ。
分かったか!
(一同)はい!・「国防の基地沖縄にああ驕敵の攻むあらば」
(有義)
10人殺したら死んでもよい。
死は鴻毛よりも軽し
・「鍛えし腕に銃とりて」・「その名も我ら護郷隊」よろしくお願いします。
お世話になります。
死の恐怖を突きつけられた事で異常な精神状態に追い込まれたと語る人もいます。
当時14歳だった…
(油井隊長)貴様ら!間もなくアメリカ軍が来る。
死ぬ覚悟はできているか?
(一同)はい!おい!そこの貴様。
貴様は死ぬ覚悟はできているのか?
(東江)はい!
(油井隊長)それではここに座れ。
はい!
(油井隊長)本当に死ぬ覚悟があるか試してやる。
首を出せ。
(心臓の鼓動)
(油井隊長)お国のために死ねるか?はい…。
お国のために死ねるか!?はい…。
お国のために死ねるか!?はい。
お国のために死ねるか!?はい!お国のために死ねるか!?はい。
お国のために死ねるか!?はい!
(油井隊長)よしそれでいい。
ただもう…こんな感じだったと思う。
こうしてね。
なぜ少年たちは兵士にさせられたのか。
「別れの杯を酌み交わして全機必中の成功を祈った」。
護郷隊が作られた当時日本は乗組員が命を捨てて突撃する特攻を行うまで追い詰められていました。
日本の絶対国防圏はアメリカ軍を中心とする連合国軍によって突破。
日本はアジア太平洋の拠点を次々に失い連合国軍がいよいよ沖縄に迫っていました。
「部隊は命令一下…」。
そんな中日本軍が注目したのは遊撃戦すなわちゲリラ戦でした。
ゲリラ戦とは兵力差のある敵に正面から挑むのではなくジャングルなどに潜伏し奇襲攻撃によって相手を消耗させる戦い方です。
ゲリラ戦の研究を行っていたのが陸軍中野学校。
スパイや謀略を専門とする秘密組織です。
実はこの組織の出身者が沖縄の少年ゲリラ部隊護郷隊を作ったのです。
陸軍中野学校出身の松田誠元大尉です。
アメリカ軍の本土上陸に備えゲリラ戦の計画を作るよう命じられていました。
当時沖縄には本土への侵攻を一日でも遅らせる事が求められていました。
松田さんはそれにはゲリラ戦が有効だと考えていたと言います。
1944年10月。
最高司令部大本営の命令を受け陸軍中野学校出身の将校たちは地元の軍人と共に沖縄にゲリラ部隊を設立しました。
よいか。
貴様たちは護郷隊に選ばれた。
故郷を護る誉れ高き部隊である。
次!こうして出来たのが護郷隊でした。
護郷隊は弾薬や物資の運搬などの後方支援を行うのではなく最前線でアメリカ軍と戦う日本で唯一の少年ゲリラ部隊でした。
当時の日本は兵力不足に苦しんでおり兵士にできる17歳に達していない少年たちをもゲリラ兵として最前線に送り出したのです。
陸軍は全国に先んじて沖縄で召集できる年齢を引き下げる方針を決定。
1944年12月。
沖縄と一部の地域で17歳未満であっても召集できるよう法令を変更しました。
ただし召集には条件がありました。
14歳以上でかつ自らの志願である事です。
しかし実態は志願とは程遠いものだったと語る人もいます。
15歳で召集された…いよいよアメリカとの戦だ。
やるぞ!俺は!でも俺たちみたいな子どもばっかりじゃあ…。
栄吉。
お前怖くないのか?へっ!怖いんならやめといた方がいいよ。
・校庭に集合!急げ!
(せきばらい)貴様らは誉れ高き護郷隊の隊員として選ばれた。
アメリカから故郷を護るため戦う部隊だ。
護郷…隊?嫌な者はこれから帰っても構わない。
(ざわめき)ただし!帰ったやつの所には一枚のハガキが届くだろう。
そしてこうだ!貴様らなんぞハガキ一枚でどうにでもなる。
覚えておけ!貴様らは誉れ高き護郷隊の隊員として選ばれた。
志願とは名ばかりの実態。
国はふるさとを護るという大義のもと少年たちを召集していきました。
撃て!
(銃声)こうして本土防衛の最前線とされた沖縄で少年たちがゲリラ兵にされていったのです。
アメリカ軍はおよそ18万の兵力で沖縄への上陸作戦を開始しました。
アメリカ軍は本島中部の海岸に上陸。
二手に分かれ主力は日本軍の司令部があった首里を目標に南下。
もう一方の北に向かったアメリカ軍はおよそ5万の兵力で本島北部の制圧をはかりました。
日本軍はおよそ3,500人。
このうち護郷隊およそ1,000人は多野岳と恩納岳に拠点を置きました。
厳しい訓練でゲリラ兵にされた…小柄だった有義さんは子どもである事を利用した作戦を命じられたと言います。
アメリカの陣地に夜襲をかけ燃料を焼き払い敵兵をせん滅する。
そのためには陣地内部の情報がいる。
玉那覇!貴様に偵察を命ずる。
はい!
(有義)
背が低く幼い顔だちだった僕は民間人の子どものふりをして偵察するよう命じられた
回想
(分隊長)玉那覇。
貴様の行動は山頂から見ておるぞ。
(心臓の鼓動)
(英語で)あ…甘い!
(せきこみ)
(有義)
4人が入ったテントが5つ。
入り口40メートル先にドラム缶1,000個。
恐らくガソリン入り。
子どもなら用水路で回り込める。
裏には見張りなし
(有義)サ…サンキュー。
サンキュー。
グッバイ!
(アメリカ兵)グッバイ!
(有義)
4人が入ったテントが5つ。
入り口から40メートル先にドラム缶
(中隊長)よし。
玉那覇の情報どおりだ。
爆破班は用水路から回り込め!
(口笛)
(爆発音)
(中隊長)よし攻撃!あ…。
ああ…。
回想
(中隊長)10人だ。
敵を10人殺したら死んでもいい。
(悲鳴)護郷隊を率いた中野学校出身の将校は戦場での少年たちについてこう語っていました。
(爆撃音)北部全域の制圧を目指していたアメリカ軍。
圧倒的な兵力で村々を占領していきました。
護郷隊はアメリカ軍が占領した村でゲリラ戦を行うようになります。
ふるさとが戦場になる事で少年たちは新たな葛藤に直面していきます。
護郷隊はアメリカ軍を奇襲するためこの山を進んでいました。
この時照屋さんは15歳。
部隊の道案内を務めていました。
護郷隊の攻撃目標は照屋さんのふるさと真喜屋でした。
(村上)フンッわんさかアメリカがいるぞ。
まさか奇襲を受けるとは思っておるまい。
照屋この道でいいんだな?はい!
(義松)
まさか自分の村に戦いに来るとはな。
ハッうちだ!まだ無事さ。
父ちゃんが出稼ぎして建てた家…
(母)義松みんなのごはんよそってくれるか?
(義松)は〜い。
(父)おっ今日は白飯か。
(弟)アイナお米だ!
(義松)行儀悪いぞ。
(笑い声)
(義松)
戦が終わったらすぐ帰りたい
(村上)突撃〜!ハッ!何をしとるか。
うわ〜!
(隊員)照屋隊長命令だ。
真喜屋の家は全部焼き払え。
えっ?命令だ。
家を焼くんだ。
ああっ…。
アメリカに使わせないためだ。
さあお前もやるんだ!
(隊員)早くやらんか!
(義松)家が…。
あ〜っ!あっあ〜っ!あっ…。
(隊員)退却だ急げ!70年前この辺りに護郷隊が燃やしたかつての家がありました。
照屋さんは戦後焼け野原となった真喜屋に戻り家々を再建するための木を切り出す仕事に就きました。
ふるさとを護るはずだった護郷隊。
照屋さんの妻絹代さんも真喜屋に生まれ護郷隊に家を焼かれた一人でした。
日本本土のために戦った護郷隊。
照屋さんはその姿が今の沖縄に重なって見えると言います。
アメリカ軍は最前線で攻撃してくる少年兵をどう見ていたのか。
私たちは今回初めてアメリカ軍の極秘資料を入手しました。
アメリカ軍は上陸直後の4月の段階で既に護郷隊の存在を把握。
少年たちを捕虜にするなどして詳細に分析していた事が明らかになりました。
「護郷隊は訓練によって軍国主義の精神をすり込まれている。
天皇のため自らの命を犠牲にしてまで攻撃を行う部隊だ」。
実際に少年兵と戦ったアメリカ兵に話を聞く事ができました。
海兵隊の兵士だった…アメリカ軍は当時沖縄各地の戦場で少年たちと遭遇していました。
ニュートさんは民間人と区別がつかない少年兵に脅威を感じたと言います。
更にアメリカ軍の情報部がまとめた報告書も見つかりました。
日本軍による民間人の戦争利用について分析していました。
アメリカ軍は本土決戦に向け少年兵への警戒を強めていたのです。
取材を進めると日本本土でも護郷隊と同様の少年ゲリラ部隊が実際に計画されていた事が明らかになりました。
沖縄のあとにアメリカ軍の上陸が予見されていた九州で実際に計画を立案していた人物に今回会う事ができました。
こんにちは。
陸軍中野学校でゲリラ戦を学んだ元少尉です。
1944年12月大本営陸軍部からの命令を受け宮崎におけるゲリラ戦の計画を作ったと言います。
高橋さんによれば100人を超える中野学校出身者が九州各地で兵隊や軍隊経験者にゲリラ戦を指導。
それを学んだ人たちが少年を訓練する事で部隊を作ろうとしていたと言います。
西東です。
どうもどうも。
八児さんは1945年1月に中野学校出身者の指導を受け大分県の少年たちにゲリラ戦の訓練を行ったと言います。
それがあったと思うんですよね。
更におよそ500人の中野学校出身者が本土決戦のため全国に配置されていた事も今回の取材で分かりました。
アメリカ軍の上陸地点と見られていた静岡では10代の若者数百人にゲリラ戦の訓練を行い千葉では占領されたあとも住民に紛れて抵抗を続ける計画を作っていました。
沖縄の護郷隊と同様の部隊が全国各地で作られようとしていたのです。
沖縄北部はアメリカ軍に制圧されつつありました。
護郷隊は追い詰められていました。
護郷隊が潜んでいた恩納岳には付近から逃れてきた日本兵も加わっていました。
5月下旬恩納岳はアメリカ軍によって包囲されました。
アメリカ軍が撮影した映像です。
5月24日恩納岳に対し砲撃を開始。
護郷隊にとって最後の激戦が繰り広げられたのです。
戦後恩納岳一帯はアメリカ軍の訓練場とされ一般の立ち入りは禁じられてきました。
今回特別な許可を得て訓練場に入る事ができました。
70年間封印されてきた戦場。
当時山頂付近には隊の幹部と少年たち300人ほどが潜んでいたと言います。
その最前線にいた元隊員に会う事ができました。
当時17歳だった玉那覇盛一さんです。
激しい銃撃戦を経験した盛一さんは亡くなった戦友たちの事が今も頭を離れません。
うっ…。
盛一いい夢でも見てたのか?楽しそうな寝顔だったぜ。
いやまあな。
しかし腹減ったな〜。
もうカンパンもないし。
(おなかの鳴る音)・
(徳政)お〜い!あ…。
雨があがったぜ。
飯にしよう。
飯って?
(徳政)いつものあれさ。
あ〜あやっぱりヘゴかあ。
ぜいたく言うなって。
このヘゴだっていつまでもつか。
俺たちは最前線の機関銃分隊なんだからうまいもん食わないとやってられないよ。
さあ愚痴はそのくらいにして雨で崩れた壕を直すぞ。
(盛一)なあ徳政豊秀俺最近ちょっと変なんだ。
そりゃ3か月も雨ざらしで風呂にも入らずシラミにたかられていたら変にならない方が変さ。
(盛一)怖いんだ。
弾が飛び交い始めると頭が真っ白になって自分が自分じゃなくなるみたいなんだ。
こんなのがずっと続くと家族の事もお前らの事も分からなくなってしまうんじゃないかって。
俺も同じさ。
敵を殺すのも自分が死ぬのも友達が死ぬのもどうでもよくなってしまう。
ハハハハハ…。
みんな腹が減って気がめいってんのさ。
戦に勝ったら俺たちはふるさとを護った護郷隊の勇士さ。
丼何杯でも白いごはんが食えるぞ〜!ハハッハハッ。
(3人)ん?敵が登ってくるぞ。
撃て!はい!徳政!?徳政がやられた!盛一徳政が…!
(盛一)
この時僕は徳政の死を目の当たりにして何も感じず目の前の敵を殺す事しか考えられなかった
豊秀敵の数が多すぎる。
このままじゃ駄目だ。
中隊長に状況を報告に行け!はい!
(爆発音)
(分隊長)豊秀もやられたか…。
盛一代わりに行け!はい!
(爆発音)ううっ…。
うわっわあっわあ〜っ!恩納岳では分かっているだけで36人の少年兵が命を落としました。
しかし何より盛一さんを苦しめたのは親友の死を目の当たりにしても何も感じない自分の心でした。
盛一さんが語った…徳政がやられた!盛一徳政が…!心が動かなくなり自ら判断もできず命令のまま行動してしまう状態でした。
更に少年たちを待ち受けていたのは悲劇的な結末でした。
それは恩納岳から少年たちが撤退する時に起きました。
こんにちは。
失礼します。
東村に住む…当時15歳でした。
仲泊さんは恩納岳の戦いで負傷した人を山頂近くの野戦病院に運んでいました。
山頂上…。
頂上で。
そこで事件は起こりました。
同じ村出身の高江洲義英さん。
自力では歩けず撤退できない状態でした。
あんなあれはもう…。
二度ともう…できないあれだからね。
撤退できない少年兵を軍医が射殺したという証言。
別の隊員もこうした行為を目撃したと語りました。
仲泊さんは当時どうする事もできず戦争だからしかたがないと自分に言い聞かせたと言います。
しかし心に受けた傷は消えずその記憶を胸の内にしまい込んできました。
高江洲義英さんの遺族はこれまで肉親の死の真相について知らされてきませんでした。
亡くなった義英さんの10歳年下の弟義一さんです。
沖縄戦の犠牲者の名前が刻まれた平和の礎に通い続けています。
これがお兄さんですね。
ケガが原因で亡くなったとだけ伝えられてきた兄。
遺骨が届けられた時母が泣き崩れた事を今も覚えています。
僅か17歳だった兄がどのように傷つき亡くなっていったのか。
義一さんはそれを知りたいと願い続けてきました。
私たちは兄の死について知りたいという遺族の思いを仲泊さんに伝えました。
真実を告げれば遺族を傷つけてしまうのではないか。
仲泊さんは遺族に会って決めたいと語りました。
沖縄戦の戦没者を追悼する慰霊の日。
かつての隊員や遺族が護郷隊の慰霊碑を訪れ祈りをささげました。
高江洲義一さんも兄の慰霊碑を訪れました。
仲泊栄吉さんがやって来ました。
どうもどうも。
高江洲と申します。
あんた…。
義英の弟です。
仲泊さんは自分が見た事実をなかなか打ち明ける事ができませんでした。
70年の時を経てようやく知る事ができた兄の最期でした。
国のために兵士となりそして命を奪われた少年。
少年たちは一体何のために戦ったのか。
護郷隊の死者は分かっているだけで162人に上ります。
日本軍の組織的戦闘が終結。
沖縄は占領されました。
しかし護郷隊の戦いは終わっていませんでした。
護郷隊を率いた陸軍中野学校出身の将校の言葉です。
「沖縄部隊玉砕後も遊撃戦を展開」。
少年たちには正規軍が敗れたあともゲリラ戦を続ける事が課せられていたのです。
同じ6月23日。
政府は一つの法律を公布しました。
義勇兵役法です。
子どもであっても男性は15歳女性は17歳から戦闘に参加させる事ができるというものでした。
一つ塊となって決勝戦に突撃するのだ!
(一同)はい!この法律によって動員できる人数は2,800万人に上りました。
1億総特攻の精神のもと全国の子どもを戦場に送る事が国家を挙げて進められていったのです。
(一同)オ〜!起きよ!
(一同)オ〜!
(岩波隊長)第二護郷隊は今日一旦解散する!みんなこれまでよく戦った。
だがこの戦力では戦闘は続けられん。
おのおのふるさとに戻り潜伏せよ。
本土から援軍が到着次第再決起する!どういう事だ?終わりじゃないのか?命令があるまで待てという事だろう。
(盛一)
徳政も豊秀も死んでしまった。
俺一人村に帰ったって…
(盛一)
どうしよう…
あっ…。
(母)盛一!盛一!おかあだよ。
よく生きていてくれたね。
こんな子どもに人殺しをさせるなんてお偉いさんたちは何を考えているのかね。
盛一!おかあ…おかあ!
(泣き声)70年前戦場に送られた少年たち。
現在の中学生から高校生にあたる年頃でした。
戦場で友人が次々と亡くなっていくのを目の当たりにした…戦後大勢の子や孫に恵まれ共に暮らすひ孫は中学2年生になりました。
70年前最も大切な子どもを戦争に利用した日本。
少年たちが見たのは戦争が心を変え命を奪い去るという現実でした。
ひとたび戦争になれば国も人も変わってしまう。
あの日を繰り返してはならない。
今少年兵たちは訴えています。
2015/08/11(火) 19:30〜20:43
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル アニメドキュメント「あの日、僕らは戦場で〜少年兵の告白〜」[字]
沖縄北部の山中で米軍と戦った少年兵がいる。戦後70年、30人余りの元少年兵が初めて語った戦争の真実—少年たちは戦場で何を見たのか、アニメドキュメントで伝える。
詳細情報
番組内容
「目の前で幼なじみが撃たれ、倒れた。ぼくは彼を見捨てて戦闘を続けた。あの時、ぼくの心は異常だった…」(当時17才)沖縄北部のジャングルで米軍と戦った少年兵がいる。戦後70年経った今、30人余りの少年兵がこれまで秘められてきた事実を語り始めた。少年たちはなぜ戦場に送られたのか?証言と新たに発掘された資料から、子どもたちが戦争に利用されていった知られざる歴史を、“アニメドキュメント”で伝える。
出演者
【語り】大沼ひろみ,【朗読】速水けんたろう,比嘉久美子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 報道特番
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