ご覧のとおり。
宗佑君さっぱり仕上がりました。
初めてでも簡単にできるスキバサミカット。
是非親子で試して下さいね。
皆さんお久しぶり!ふくにゃんよ。
今日はすてきなお宅をご紹介するわ。
木のぬくもりいっぱいでコテージみたいでしょう。
お庭もあるのよ。
くつろげるリビングにお手製のおやつも〜。
実はここ児童養護施設なの。
いろんな理由で親と暮らせない子どもたちが一緒に生活しているの。
こういう施設が日本でたくさん作られたのは戦争が終わって間もなくの頃よ。
大勢の子どもたちが厳しい規則の下で集団生活をしていたんですって。
こんな家庭的な雰囲気になるまでいろいろあったのよ。
過去の歴史をひもとき未来へのヒントを探る「シリーズ戦後70年」。
第3回のテーマは「親と暮らせない子どもたち」です。
終戦後家族を失った戦争孤児たちが町にあふれていました。
その対策のために整備されたのが児童福祉法です。
子どもたちを保護して社会が親の代わりとなって育てる制度が始まりました。
その一つが今に続く児童養護施設です。
それから70年。
子どもたちが親と暮らせない理由は大きく変わりました。
育児放棄や虐待など問題は複雑になっています。
「シリーズ戦後70年」。
こうした子どもたちの成長をどう支えていけばよいのか考えます。
こんばんは。
「ハートネットTV」です。
今年は戦後70年。
一年を通して福祉の戦後を振り返るシリーズをお伝えしています。
今回は3本シリーズ。
1日目の今日はさまざまな理由で親と暮らせない子どもたちの歴史を振り返っていきます。
スタジオには児童養護の歴史に詳しい関西大学教授の山縣文治さんにお越し頂きました。
よろしくお願いします。
よろしくお願い致します。
そして今回もですね福祉の戦後70年に詳しいふくにゃんにも来てもらってますよ。
ふくにゃ〜ん。
は〜い。
(サヘル)元気?よろしくね。
さて今離婚や病気虐待などの理由で親と一緒に暮らせない子どもたちが増えています。
こうした子どもたちを社会で支える仕組みを社会的養護といいます。
児童養護施設などの施設や里親養子縁組の制度などがあります。
(サヘル)そうなんですよね。
この社会的養護を必要としている子どもの数っていうのは日本にはおよそ4万6,000人いるんですよね。
今日は社会的養護の歴史を見ていくんですけどもこの見ていくという事は山縣さんどういった意味があるんでしょう?そうですね福祉というのはですね時代によって変わっていくんですね。
その理由は生活が変わっていくから。
世の中の仕組みが変わっていくから。
どうやって仕組みを変えていくのか。
生活の変化に合わせていくのか。
(山縣)私はそう思います。
今日は70年の歴史をこの年表を基に見ていきます。
それぞれの時代にそれぞれの時代を象徴するキーワードがあります。
そうなんです。
「町にあふれた戦争孤児」。
続きまして「経済成長の陰で」。
そして「噴き出す矛盾」。
そして最後に「家庭的な養育を目指して」。
この4つのキーワードで見ていきます。
まずは最初のキーワードです。
「町にあふれた戦争孤児」。
終戦直後の様子をご覧下さい。
戦争によって日本が焦土と化した時代。
家族を失い身寄りのない子どもが国中にあふれていました。
いわゆる戦争孤児です。
お寺の縁の下や焼け跡などで夜を過ごしたこの子どもたちは食べ物を求めて泥のようにその日その日を暮らしています
頼る人もなく着のみ着のまま空腹に耐えながら浮浪する孤児は12万人を超えていました。
10歳の時空襲で両親を亡くした山田清一郎さんもその一人です。
当時孤児に対する世間の目は厳しかったと言います。
こうした孤児たちに対応するため国も動き出しました。
養護施設や里親などを制度化します。
家庭や親に代わり国が責任を持って養育する仕組みが始まりました。
当時出来た施設の一つ舞鶴学園です。
おいしい!おいしいやん。
さまざまな理由で家族と暮らせない3歳から18歳までの子どもたちが生活しています。
学園は70年前大陸から引き揚げてきた親のいない子どもたちを育てようと地元の人が立ち上げました。
施設長の桑原教修さんが当時の資料を見せてくれました。
出身も年齢も異なる子どもを集団で養育するため規則に沿って管理するスタイルが出来上がっていったと言います。
正直な事言うとすごく憤りというものも出てくるのはあの…家族がいる時まではちゃんと普通の子どもとして見ていたのにそれを戦争によって家族を失った瞬間に子どもたちが子どもとして扱われてない。
なぜなんですか?先生。
一つはですね子どもたちが町なかにあふれてくる。
その子どもたちに対して当然保護してあげないといけないという側面が一つあります。
一方で町なかの方で見ると不安になるんですよね。
そうすると隔離といいますかねあるいは警察的な要素といいますか当時の言葉で孤児狩りなんていうのがありまして行政がトラックでそのまま子どもたちをス〜ッと町なかから連れていく。
それを施設の方に置いていく。
それから保護する部分と警察的な形の関わりと二重の要素を持っていた。
そんな中で1947年に児童福祉法が制定されまして親と暮らせない子どもたちを里親に委託したり養護施設など福祉施設で育てる仕組みが制度化したという事でこれが一つ大きな転換点だったんでしょうか。
法律を作って子どもたちを保護するあるいは福祉を守るというのは今までなかった仕組みすなわち公的な責任で国家があるいは地方行政が子どもたちの生活を守っていくという事を明らかにしたというのは非常に大きいものだと思います。
一方でたくさんの子どもたちを1か所に集めてくる訳ですから結果としてそこでの生活というのは大規模にならざるをえなかった。
その中での体質は先ほどの桑原先生のお話にもありましたけども管理的にならざるをえなかった。
さてこのあと児童福祉はどうなっていくんでしょうか。
続いてのキーワードです。
「経済成長の陰で」。
1960年代高度経済成長期以降の動きをご覧頂きます。
1960年代日本は高度経済成長期を迎えます。
人々の暮らしも大きく変化していきました。
戦争孤児たちも成長し社会に巣立ったため施設の役割は終わるかに見えました。
ところが…。
このころ学生ボランティアとして舞鶴学園を訪れた桑原さんはその光景に驚きます。
施設には戦争孤児たちに代わり生活苦などのため親と離れて暮らす子どもたちが大勢いたのです。
東京オリンピックも含めての経済復興で日本社会というのは非常に活気づいていた部分ですよね。
でその裏にある貧困という意味ではそれはあまりにもかい離してたのでこのままほっといていいのかっていうのはすごくありました。
経済成長の陰で貧困にあえぐ子どもたち。
社会の関心は低く施設の環境もひどいものでした。
玄関入るともう目をつくようなアンモニアの臭いが強烈にして涙が自然に出るほどに強烈なアンモニアの臭いで。
それは2階のトイレの汚水が落ちてくるような雨漏りしているようなそんな状況でもうその貧困さは驚きでした。
この子どもたちのために何かできる事はないか。
桑原さんは京都の街頭で募金活動を行い少しでも生活をよくしようと奔走したのです。
1970年代になると子どもを巡る新たな問題が起こります。
都会のコインロッカーに生まれたばかりの赤ん坊が置き去りにされる事件が相次いだのです。
借金で生活が行き詰まり養育を放棄したり蒸発する親も少なくありませんでした。
舞鶴学園もそうした事情で預けられた子どもたちで100人の定員は満杯状態。
一人一人に向き合う余裕はなくより厳しいルールを子どもたちに求めざるをえませんでした。
体罰がしつけだというそういう文化が私の中にもありましたし。
で子どもたちに対して事実私も体罰を振るった事があります。
管理的な運営に走らざるをえなかった時代。
舞鶴学園が体罰をしないと宣言するまでおよそ20年かかりました。
ちょっと〜。
おっふくにゃん。
どうしたの?聞いてくれる〜?ニャッ!是非〜。
何何?このころ施設の子どもたちって戦争直後とはだいぶ変わっているの。
こちらのグラフを見て。
子どもたちがどうして施設に入ったかっていう理由なんだけど1950年代は親の死亡が1位。
戦争孤児が多かったからね。
でもね60年代に入ると親の行方不明や親の離別っていう理由が増えていくのよ。
そうですよね?山縣先生。
高度経済成長の中で一人一人の生活経験が変わってくるんですね。
豊かな家もあれば豊かでない家もある。
豊かであっても突然離婚とか経済破綻によって借金生活に入っていくという。
一人一人の持っている様子が違ってきた。
画一的な対応では養護現場がうまくいかないはずなのにそこのやり方がなかなか見つからなかった。
結果として管理が続くという状況かと思います。
その大人も悪気はないんだけれども傷ついてしまう子どもたちもどこかで必ずいますよね。
そうですよね。
サヘルちゃんまだ続きがあるのよ。
90年代はもっと大変になるの!お父さんやお母さんからたたかれたりとかけがをさせられたりとか虐待を受けた子どもたちが増えていくのよ。
本当だ。
親が信頼できないのにほかの大人をどう信頼するのか。
その傷つき度の深さというのはきっと相当違うだろうなというふうに思いますよね。
子どもたちの状況その入所理由というのは変わってきたけれどもその体制って言うんですか大人たちは…。
なかなか変わらない。
大規模な施設のままあるいは管理型の対応。
努力はしてるいろんな工夫はしてるんだけどもなかなか子どもたちにヒットしないというのが連続してたと思いますね。
はい。
子どもたちは変化してきた。
一方で大人たち施設はまだまだ変わっていないという中で矛盾が生じてきます。
1980年代に入ると児童養護施設の職員が子どもを虐待する事件が相次ぎます。
複雑な背景を抱える子どもたち。
専門的なケアが必要にもかかわらず施設内の見直しは図られませんでした。
なぜ施設内で虐待が起きる状況になったんでしょうか?経営者の倫理的な問題から来る話も当然ありますけども一方で環境として職員が少ない。
先ほど言いましたように傷つき度が非常に大きい。
あるいは長い。
その子どもたちに対して経験年数の短い職員が対応していく。
職員の方も大変だったと思います。
いい事をしてる人たち。
だからあまり追及してはいけないというふうに言われてた部分が「いや本当に大丈夫なの?」。
いろんな人たちの声を聞こうというふうな時代になった時にその声が出てきた。
だから急に始まった訳では決してないと思います。
またまたいいかしら?あ!この辺でちょっと息抜き。
クイズよ〜。
サヘルちゃん。
本当?施設出身の主人公が活躍するマンガといえば次のうちどれでしょうか?難しいかな〜?さあ考えてよ。
じゃあ「タイガーマスク」。
はい正解!ありがとうございます。
よかった。
なんだけど不正解。
えっうそ!どうして?答えは全部なの〜。
あっじゃあ「あしたのジョー」も?そうですね。
あっ知らなかった。
施設で育ってたくましい不屈の精神があるからこそ主人公なんですよね。
ところで「タイガーマスク」といえば皆さん覚えているかしら?5年くらい前児童相談所の子どもたちにランドセルが届いたっていうニュースあったわよね?差出人は伊達直人。
そう漫画「タイガーマスク」の主人公の名前よ。
彼も施設出身だったの。
こちらの男性が伊達直人の名前でランドセルを贈ったご本人。
幼い頃親と離れて育った事もあって児童養護施設で20年近くもボランティアをしているそうよ。
今回私たちにメッセージをくれました!うん本当にそのとおりだと思います。
私も言われてきましたからね。
やはり施設の出だけという理由でどこの誰の子か分からない。
どうせ犯罪に手を染めるんでしょうとか立派な大人になる訳がないとかって言われてきたんですけどそうやって偏見を持ってしまうからこそその子どもたちが社会にどうやってなじんだらいいか分からずにだんだんと離れてしまう訳ですよね。
そうではなくて一緒なんだよというのを私たちも意識してあげなきゃいけないと思います。
そうですね。
さていよいよ最後のキーワードにまいります。
こちらです。
「家庭的な養育を目指して」。
90年代に入ってこれまでの子どもを集団で管理する考え方に警鐘が鳴らされます。
国連が採択した子どもの権利条約。
親と暮らせない子どもたちにはより家庭的な環境で育つ権利があると定めています。
こうした国際的な動きの中で日本の社会的養護の在り方は見直しを迫られる事になりました。
京都の舞鶴学園も大きな改革に乗り出しました。
50人以上が一緒に暮らしていた施設をやめて戸建ての住宅を7棟建てました。
(取材者)入ってもいい?うんいいよ。
どうぞどうぞ。
1つの家に幼児から高校生まで6〜7人と職員が一緒に生活しています。
共有スペースにはくつろげるリビングやキッチン。
お風呂は少人数に合わせてユニットバスに。
入る順番は子どもたちが決めています。
家庭的な雰囲気の中で子ども一人一人の育つ力を引き出したいと考えたのです。
こうした暮らしの中で子どもたちに変化が表れています。
来たばかりの頃はパニックを起こしていた男の子。
今は大声を上げる事もなく落ち着いて生活しています。
集団の時は許可がないと開けられなかった冷蔵庫も今は自由。
年上の子が小さな子に飲み物をつぐ光景は珍しくなくなりました。
夕食の支度をする職員のそばで宿題をしたりテレビを見たり。
日々の暮らしの中でお互いの関係が築かれていきます。
頂きます。
(一同)頂きます。
この日舞鶴学園に来客がありました。
2年前に卒園した香奈さんです。
京都の大学に進学し今は1人暮らしをしている香奈さん。
長い休みには必ず帰ってくるといいます。
社会に踏み出した香奈さんにとって支えとなっているのです。
私の場合はどっちかっていうと集団で生活をしていた施設だったので今の映像を見て「あっ」と思ったのが確かに冷蔵庫を開ける時も許可がいったしテレビを見る時も許可がいってだからお母さんに引き取ってもらったあとも普通の家庭に入って普通に生活してって言われた時に普通が分からないからお母さんにおなかがグーグー鳴ってもおなかがすいたって事を言えなかったり「冷蔵庫を開けていい?」って一つ一つ許可をとってたんですね。
どれだけ…こういった施設舞鶴学園のような場所というのは今日本にどのぐらいあるんでしょうか?そうですね正確な数字は出ていませんけどもあったとしてもせいぜい1割。
全体がああいう仕組みになっているものはもっと少ないかもしれません。
そうそうそうなのよ。
ちょっとこれ見て。
日本の社会的養護では84%が施設で暮らしているんだけど舞鶴学園みたいな所は少ないのよ。
児童養護施設の半分では子どもたちが20人以上で集団生活をしているの。
でもねそもそも施設じゃなくて里親のお父さんお母さんと暮らす子どもが少ない事が問題だと言われているの。
日本ではたったの16%。
国連からもっと増やしなさいって何度も言われているのよ。
でようやく2011年に国が打ち出した方針がこちら。
施設と少人数で暮らすグループホーム。
そして里親をそれぞれ1/3ずつにしようと目標を掲げたという訳。
子どもの権利条約と社会的養護の関係のもう一つの特徴は施設よりも家庭養護養子縁組や里親を中心にケアをして下さい。
これを強く求めてるんですね。
日本は施設が非常に多い状況が続いていましたのでそこに対するくさびが入った。
里親の割合をもっと増やすと。
理想的には家庭そのものである里親とか養子縁組ですね。
ここを増やしていく。
「ただいま」って帰ってきた子がいましたけども5年たった時に「ただいま」と言って帰った時にそこに自分の担当してくれた職員がいない可能性が施設の場合ある訳ですよね。
里親さんの場合はいる可能性の方が圧倒的に高い訳ですよね。
そこの差がやっぱり子どもの心に寄り添う社会的養護をどう作るかというところの安住してはいけない場所ではないかなと思います。
そうですよね。
生まれてきた子どもが生まれてよかったなって生きてていいんだって夢持っていいんだって愛されてよかったんだっていうふうに生まれた事に誇りを持ってもらいたいからこそ子どもには本当に一人でも多く家庭に入ってほしいしまた私たち自身も私もそうですけどもやっぱりそれはこの現状があるって事を知るって事も大切だし向き合う事ってできる訳じゃないですか。
今日本の社会的養護はそこまでいけてない。
とりあえず生活できる環境だけは制度が作ってくれている。
でもその一人一人の幸せに届くような仕掛けまではまだいってないのかな。
そこに向けて私たちは努力する必要があるし住民全体がその事を理解して応援してあげる。
その立場に立って一緒に考えていくっていう一緒っていうのが大事ですよね。
そうですね。
はい。
「シリーズ戦後70年」。
明日は精神障害者の歴史を振り返っていきます。
今日はどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
また明日〜。
2015/08/10(月) 20:00〜20:30
NHKEテレ1大阪
ハートネットTV シリーズ 戦後70年 第3回「家なき子たちの戦後」[解][字]
様々な事情で親と暮らせない子どもの8割以上が児童養護施設など施設で暮らす日本。戦後70年の児童養護の歴史をたどり、子どもの利益を最優先にした福祉とは何か考える。
詳細情報
番組内容
戦後70年の日本の福祉を振り返り、未来への提言につなげる年間シリーズ。第3回のテーマは児童養護。先進諸国では、様々な事情で親と暮らせない子どもたちの多くが里親などの家庭的な環境で育てられる中、日本は今も8割以上が児童養護施設など施設で暮らしている。養護の必要な子どもを、日本は社会でどう育てようとしてきたのか。戦後の歴史をたどりながら、どうしたら子ども一人一人をより幸せにする環境が作れるのか考える。
出演者
【出演】大阪市立大学生活科学部教授…山縣文治,サヘル・ローズ,【解説】佐田明,【司会】山田賢治
ジャンル :
福祉 – 社会福祉
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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