ETV特集 アンコール「鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜」 2015.08.10


声が出ないって事が問題なんですよ。
立ってしゃべれば肺活量が大きくなるから声が大きくなるっていうんだよね。
今語り残したい言葉があります。
人民の記憶は私にとっては国民の記憶より重大なんだ。
ところが日本では大体人民の記憶がどうかって事は歴史家を含めて大学教授は探索しないんだよ。
国家の記憶にすり替えちゃうんだ。
国家の記憶は記録見れば分かりますよ。
年表にも残ってる。
だけど問題は人民の記憶なんだ。
人民は…日露戦争以後ずっと黙ってた。
中国に対する侵略も支持してた。
で結局負けた。
何を記憶してたんだろう。
それが問題なんだよ。
アメリカに負けてそれが一体どういうふうに人民の記憶に残ってるかそれが知りたいんだ。
それが歴史学の生きてる課題だと思うんだよ。
鶴見さんは戦前アメリカ・ハーバード大学に留学。
哲学を学びます。
しかし日米開戦。
交換船で帰国。
海軍軍属として戦争を体験。
敗戦を日本で迎えました。
戦後「思想の科学」を創刊。
普通の人々が国家に振り回されず生きていくために何が必要なのか新たな学問の場を作りました。
60年安保からベトナム戦争の時代イデオロギーや組織にとらわれず普通の市民の立場から反戦運動に取り組みました。
自由な知性がここにあります。
アメリカ哲学日本人とは何か記号論漫画アナーキズムなど著作は多彩な分野にわたります。
激動の戦後を生きる日本人として普通の人々が今何を記憶して未来に向かうのか。
それが歴史学の生きた問題だろ現在の。
去年9月。
作家黒川創さんは京都に暮らす鶴見俊輔さんを訪ね4回にわたって話を聞きました。
黒川さんは鶴見さんの著作を数多く手がける編集者でもあります。
僕にとっては鶴見さんはインデックスだったところはあるよね。
インデックスをめくると別の世界が開けてるっていう感じがした。
小説とか自分は書くとかものを考えるとか苦しいなと思ってあの人の著作集を見てるとなんとなく愉快でさ。
どんどん入っていっちゃうというか。
だからもうちょっと知っておきたいというのもあるし。
黒川さんはインタビューの前に鶴見さんに見てもらいたいものがありました。
これ出来ました。
ああきれいな本だね。
鶴見さんの最新著作「悼詞」です。
この世を去った親しかった人たち125人に贈った追悼の言葉を集めたものです。
三島由紀夫岡本太郎丸山眞男赤塚不二夫まで。
戦後日本の精神の軌跡を見つめてきました。
お世辞はないんだ。
お世辞は一切入れてない。
死んだ人にお世辞言ったってしょうがないんだから。
私が覚えてるかぎりうそは書いてありません。
一種の精神のリレーみたいなところもあるよね。
戦争を経験した人のようには分からないし。
新しい世代はね。
一回そこに置かれるものでしょ。
置かれてある時に気がついてまた拾い上げていくもので置かれた記録は大事だと思うんだよね。
これにサインするんですか?私宛てに。
黒川さんが作ったんじゃないの。
「悼詞」は僕が京都で若い仲間たちと運営している編集グループSUREという集まりの手で世に出しました。
希望者には直接に購読を申し込んでもらって届けるようにしています。
僕の父と鶴見さんが市民運動の仲間だった事から鶴見さんは僕にとって幼い頃から身近な人でした。
実にさまざまな人たちの面影が「悼詞」という一冊に鶴見さんの筆を通して刻まれる事でまた僕の中にも新しく生き始めるのを感じます。
一人の命の短さでは終わらない人々の長い命の連なりです
鶴見さんは始まりを決めていました。
8月15日から。
一応質問しながらやりたいんですけどどうですか?いいですよ。
とにかく8月15日から。
8月15日って鶴見さんが熱海にいらして。
おやじと和子と私とで住んでた。
おやじと和子は東京に勤めに行っちゃうわけ。
そうすると家に私1人なんだ。
例えば8月15日に敗戦というか終戦の詔勅というのがある。
おやじが教えてくれた。
いつですか。
前の日です。
「明日で終戦の詔勅になるよ」って。
そうそう。
だけどじかに聞きたいと思ってちょうどラジオが壊れていたんで駅前のラジオ屋まで歩いていって直ったラジオを持って家まで帰ってきてラジオに対して1人で天皇の声を聞いた。
だから1人と1人だね。
大体内容が分かっていたから聞き取れたんですか。
あんな変なしゃべり方でラジオもザーザーいってたと思いますが。
「残虐なる新型爆弾」って耳に入って私は原爆知らないんだ。
率直に言えば残虐とはよくぞ言えたと思った。
非常に腹が立った。
ファシズム国家の一員として残虐なる爆弾を使用していてよくぞ言えたなって思うわけでしょ。
どういう爆弾か知らないんだよその時。
原爆というものについての概念がないんだ。
原爆の投下により迎えた敗戦。
鶴見さんは破局を招いた日本の歩みに目を向けました。
よみがえったのは幼い頃の記憶です。
私を貫くものは5歳の時にうちに投げ込まれた号外なんだ。
まだ小学校行ってなかったから。
号外あったんだ。
大元帥ですよ。
張作霖が爆殺された。
1928年旧満州中国東北部で軍閥の長張作霖が爆殺されました。
日本の関東軍の軍人による謀略でした。
政治家のうちだからね家人が日本人がやったんだって言うんだ。
5歳の子供にとっては日本人という概念がないんだよ。
日本人てなんて悪いやつだろうと思ったね。
家人というのはその時誰ですか。
お父さんですか?あんまり言いたくないな。
後藤新平の書生だ。
後藤新平はまだ生きてますか。
生きてる生きてる。
ぎりぎりか。
生きてるよ。
鶴見俊輔さんは1922年東京生まれ。
母は愛子。
姉は後の社会学者鶴見和子。
父・祐輔はベストセラー作家であり政治家。
リベラル派の衆議院議員でした。
母方の祖父は東京市長だった後藤新平です。
母・愛子が祖父・後藤の世話をしており幼い頃は後藤のお屋敷で暮らしていました。
0歳から5歳ぐらいまでに人間のやれる悪い事ってのは知れてるでしょ。
例えば昼間ゴーフルっていう菓子をもらったね。
あの菓子も寿命長いね。
今もあるでしょ。
ゴーフル見れば思い出すんだよ。
私は朝暗いうちに起きてゴーフルがあったと思って足音を忍ばせて下まで下りていって上の方にあるからいろいろイスを組み合わせて自分で取って開けてゴーフル食ってたんだよ。
そしたらおふくろに捕まっちゃったんだよ。
おふくろは「ご先祖様に申し訳ない」って言うんだよ。
「あなたを殺して私も死にます」って。
それ脅かしじゃないんだよ。
声涙ともに下ってんだよ。
体震えてる。
3歳児にも本気だって事分かるんだよ。
殺されるかもしれない。
鶴見さんにとって母はいつも張り詰めてくつろぐ事のできない人でした。
お母さんってストイックな真面目な人ですよね。
正義の人だし。
でかい家に生まれた子は必ず悪人になるという思想を持ってたんだよ。
プロレタリア小説みたいなもんだ。
だけどそれは考えてみるとねおふくろのおやじの中に分身として幕末からずっとあったんじゃないかなと思うんだ。
彼は決して賄賂をとらなかった。
金も貯めなかった。
権力の中で腐敗していく事にお母さんはすごく自戒の念があったというか注意深かったし…。
自分が苦しかったんだよ。
日清戦争のあとだからじいさんの「swiftrise」経験してどこでもちやほやされるでしょ。
それがものすごく逆に自分の傷になったんだよ。
1929年東京高等師範学校付属小学校入学。
勉強もせず盗みも働く不良少年でした。
東京高等師範付属小学校でしょ。
ここには小学校に800人生徒がいるけども不良少年は俺一人だな。
これが自分を支えるプライドなんだよ。
それで愉快な気分になってなんとか学校行ってるんだけど。
私の姉がいくら成績がよくたってそれの競争者にはならない。
私のおやじが一高一番だってそれの競争者にはならない。
おれはこの800人の小学生の中のただ一人の不良少年なんだから。
そのプライドの方が自分を支えるものだったんだよ。
姉・和子は優等生で常に一番。
父は名門の政治家。
しかし鶴見さんは旧制中学を二度退学。
女性とつきあっても長続きせず屈辱感にさいなまれ町なかで睡眠薬をのんで5回も自殺を図りました。
おふくろに対して一つだけ親孝行したと思うのは100%確実な自殺を図らなかったって事だな。
これはおふくろにとって回復不能な打撃を与えたと思うから。
95%くらいの確率でしかもぶっ倒れた所が渋谷の百軒店っていうカフェー街である事で救われる確率はあるよね。
救われたんだけれども。
その事でおふくろには恩返しをした。
親孝行をしたと思ってるよ。
それは躊躇が働いて助かる可能性のある所で薬をのんだと思いますか?いやそれは勇気の欠如。
完全に100%というところまでやる勇気はなかった。
何かの確率がそこで転んだら死ぬだろう。
そうじゃなければまだ生きるだろうというその時。
鶴見さんとしては自分の地位というか家族関係みたいのを利用してるんじゃないかという自己嫌悪と向こうが自分の後ろにある家を見てるんじゃないかという2つの自殺に結び付くあれがありますよね。
絶望というか行き当たりですよね。
行き止まりというか…。
おやじはもう諦めちゃって土地を買ってやるからそこで養蜂場つまりハチを飼ってそこで女と一緒に暮らせって。
なんで養蜂だったんですかね?おやじもロマンチックだった。
不良少年としての国家の体制に対して国家がこうしろというのを反対したとして私には後ろめたさは感じない。
という事はその関係の事で養われた。
だから不良少年としての決断の背景はつながってるんじゃないかと思う。
鶴見さんのアルバム。
不良少年から大きく変わった事を告げる大切な一枚の写真がありました。
鶴見さんは16歳になると父親の勧めでアメリカに渡りました。
ハーバード大学へ入学。
哲学を学ぶようになります。
日本語から英語に変わっちゃったでしょう。
日本にいたやつが不良少年なんだから英語から始めなきゃならないんだから。
実際の結果から言えば16歳でハーバード入って19歳で出てるんだから。
ものすごく勉強したのは確かなんだよ。
それまでの放とう的人生とは違ってた事は確かだね。
とにかく時間がないんだよ。
1930年代のアメリカ。
さまざまな知性と出会いました。
ヘレン・ケラーに一度会った事があるんだ。
図書館で働いてる時にヘレン・ケラーが来たんだよ。
ニューヨークですよね。
日本図書館だったから。
私はその時18かな。
もうハーバード行ってる?「私はハーバード大学の2年生だ」って言ったんだ。
そしたらヘレンケラーは「私はその隣のラドクリフの学生だった。
ラドクリフで私は非常にたくさんの事を学んだ。
しかし出てからそこで学んだ事の多くをunlearnしなければならなかった」。
私はそれは今も覚えてるけど。
「unlearn」って言葉その時初めて聞いたんだ。
学びほぐすって意味だと思うんだ。
ただ忘れるって意味じゃないと思う。
つまり学びほぐさなければ人生の生きていく知恵にならないって事だね。
鶴見さんは生涯にわたる師と出会います。
当時経済学の講師を務めていた都留重人さんです。
プラグマティズムを学んだほうが良いとアドバイスされました。
都留さんは後に日本で初めての経済白書を執筆しました。
日本がアメリカの敵国となり留学生やビジネスマンなど次々と帰国を急ぎました。
開戦から4か月後。
鶴見さんはFBIに連行されてしまいます。
日本とアメリカのどちらに忠誠を誓うかと問われ「どちらも支持しない」と答えたところアナキストと判断され拘置所に送られたのです。
そんな鶴見さんの元にアメリカに留学中であった姉・和子が訪れ日本への帰国を相談しました。
監獄入ってるんだよ。
そこに会いに来たんだ。
自分は帰らないって言ったんだ。
私はね「今度帰らないとしたらもう永久に帰らない事になるよ」って言ったんだ。
ぼんやりと「それどういう意味?」って聞くんだね。
頭悪いやつだなあと思ったね。
これで切れる。
切れるって何が切れるんですか?日本と切れる。
戦争中に敵国に残ってそこでどうなるか恐らくアメリカ人と結婚してアメリカの学会には入れるだろう。
成績いいんだから。
そうしたら敗戦後の日本に帰る時には大変に後ろめたい思いをしなきゃいけないよ。
それだけなんだ。
そういうイマジネーションを彼女は持ってなかったね。
その後敵性国人の収容所に送られた鶴見さん。
日本への帰国を決意しました。
アメリカに残ってたら収容所といえども飯は結構困る事はないんだよ。
イタリア人のコックだし。
私にとって飯はうまかったんだよ。
それを戦争の合間で負ける事は分かってる。
終わりまでこれを食い続けるのは悪いなって気がしたんだ。
誰に悪いんですか?そこが問題なんだ。
平仮名で「くに」っていう言葉。
法律制度としての国家じゃないんだ。
国家は悪い事やってるんだから。
大体国家っていうのは悪いって考えなんだよ。
だけど「万葉集」以来の「くに」ってのがあるんだよ。
つまり同じ日本語を話してる。
同じように生まれてから育ってきた仲間があるでしょ。
アメリカという国に悪いんじゃなくて日本という国人に悪いって事ですか?日本に帰ってきたら爆弾が落ちてくるのは共通してて自分も死ぬかもしれないっていう確率は同じでしょ。
せめてそのぐらいの危険を覚悟しなきゃいけないと思ったんだ。
拘置所から提出した論文が受理されハーバード大学を卒業。
1942年6月鶴見さんは日米交換船に乗りました。
ニューヨークからアメリカの船に乗って東アフリカのロレンソ・マルケスまで。
ここで日本の船浅間丸に乗り換え横浜まで2か月の旅です。
日本ニュースに交換船の映像が残っていました。
鶴見さんは初めてその映像を見ました。
「既にアメリカから交換船グリップスホルム号によって引き揚げてきた邦人の一行は20日に到着。
船の中にあって欧州在住を命ぜられた…」。
来栖だ。
がらっと空気が変わるのはロレンソ・マルケスに乗り換えてからでしょ。
アメリカでの学生仲間はこれから日本に帰るんだという雰囲気がこれから変わるであろう事に対して楽観的だったんですか?日本が勝つと思っているやつはゼロなんだ。
もちろん当たり前の話なんだよ。
だから絶望的なんだよ。
それでロレンソ・マルケスに来ると日本から入ってくる役人が乗り込んでくるし軍事的な監察官が乗り込んできて日本はこういう状態になってる。
そういう説教するからますます絶望的になるんだよ。
浅間丸に乗り換えると日本のさまざまな行事を強制されるようになります。
皇居に向かって拝む宮城遥拝。
「君が代」斉唱などが頻繁に行われました。
1942年8月帰国。
日本は真珠湾攻撃以来の戦時一色の中にありました。
父・祐輔に「神風が吹いた」と言われ鶴見さんは絶望を強く感じます。
帰国4日後住民票を区役所に届けました。
帰ったら満20歳になってたんだよ。
交換船が2か月半。
私はすぐに区役所に行ったら「東京都最後の徴兵検査に間に合います」って。
この時はがっかりしたねえ。
その年最後の徴兵検査ですよね。
行ったんだよね。
そうしたら私は合格なんだよ。
日米戦争始まってるんだから今徴兵検査受けたらまずいなとお父さんだったら思ったんじゃないですか?おやじの気分というのはどれだけ自分の息子が戦争を憎んでいるか。
言いかえればどれだけ自分を憎んでいるかって事が分からないんだよ。
まっすぐに見てどれだけ自分が憎まれてるかついに分からないような人間っているんだよ。
1943年海軍軍属としてインドネシア・ジャワ島に赴任。
主に敵国の英語放送を翻訳する仕事でした。
ここで鶴見さんに生涯忘れられない出来事が起こりました。
鶴見さんの隣の部屋にいた同僚が上からの命令によって中立国であるポルトガル領ゴアの民間人を銃殺したのです。
捕虜にした民間人を殺せっていう命令が私ではなく偶然隣の部屋の軍属に下ったというような全く運が私を助けた。
自分に命令が下って通訳をして射殺する事まで命令されたら自分がどうしたかっていうのはずっと問題になって戦中から戦争が終わってからも自分の問題になってんだよね。
偶然私は運によって助けられたから人を殺した事はないんだ。
だけど問題は明らかに残ってると思うね。
オーストラリアと向き合ってるでしょ。
だから上陸がありうるんだよね。
その時にどうするのかといったらね軍というのはアヘン商売やってるんだよ。
アヘンってものは手に入るんだ。
アヘンをたばこに入れてのむと別の味がするらしいんだ。
そういう事やってるやつがよく同じ部屋であるんだよね。
私は彼らが遊びに行ったあとにそのアヘンを盗んで自分で小さいガラス瓶に入れて持ってたんだ。
自分一人で便所に入って錠を閉めてアヘンのもうと思ってたんだよ。
とにかく自殺だな。
どこで踏み切ろうと思ったんですか。
その上陸戦…。
つまり銃撃戦が起こって敵との戦い…。
自分が殺さなきゃ…。
銃を持てば殺しうるでしょ。
それが自分の決断だね。
日本の敗戦を確信していた鶴見さん。
誰一人殺さないで戦争を終わりたいという思いを一人孤独に抱えていました。
いつも心の中で響く詩がありました。
鶴見さんは胸部カリエスが悪化し帰国。
敗戦を日本で迎えました。
去年9月鶴見さんはシンポジウムの準備を進めていました。
戦後日本を代表する思想家竹内好を見つめ直す試みです。
竹内さんのイベントは本当に一生懸命やりたいんですよ。
竹内好は魯迅研究で知られた中国文学者です。
太平洋戦争が始まるとアジア解放の理念から戦争の支持に回ります。
戦後を迎えても戦争に賛成した立場を撤回せず自らの責任として引き受けようとしました。
鶴見さんはそんな竹内の姿勢に自分がこれから歩んでいく方向を見つけたように感じたと言います。
あと2か月ですからね。
その間私の頭がもってるかどうか分かんないよ。
1945年GHQによる占領統治が始まると同時に日本は大きく変わります。
天皇主権の軍国主義から国民主権の民主主義へ。
今まで正義と教えられてきた事が誤りとされました。
戦地から次々と生き残った兵士たちが帰ってきました。
しかし彼らの口から戦地の体験は語られる事はほとんどありませんでした。
戦争に行ってない人間との間でああそんな事あったんですかっていうのはよくあるんだけど。
でもそれは言ってもしょうがないというか言ってもよく分からないだろうというか。
どこまで言っても際限のない説明のむなしさがいろんな時にあるような感じがするんですよね。
戦争終わって63年間日本列島の中にそういう家という密室が無数にあったと思う。
帰ってきた兵隊は話してない。
よく「戦争体験の継承」とか「戦後経験の継承」とか合言葉として言われてるけどそういうのってうそのような感じがするんですよね。
断絶を説明しなきゃ分からないね。
父親だから母親だから兄弟だから伝わっていくんじゃないんだよ。
だからむしろ断絶は深いんだ。
鶴見さんは南方戦線から日本に戻り哲学を学んだ自分を再び取り戻そうとします。
国家やイデオロギーに振り回されない自由な思索の場を作ろうと…大きな協力者は姉・鶴見和子でした。
彼女には女だから兵隊にとられないという利点があった。
おやじの研究所のアメリカ研究所に勤めてて新聞読めるでしょ。
自分で著作を見て僅かに日本で戦争に巻き込まれない理性を保ってる人がいる事を自分で見極めたんだ。
丸山眞男武谷三男渡辺慧それに元からアメリカでのつきあいがあった都留重人と武田清子を足すと5人になるでしょ。
それに私たちきょうだいを足すと7人になる。
それが「思想の科学」の創刊同人なんだ。
戦争中の刊行物読んでると大体が「戦争万歳」でいろんな事言ってるでしょ。
そういうものと区別して見分ける力があったって事だね。
その人たちの論文を読んで会いに行くでしょう。
その人たちはこの戦争に反対する立場を持ってる事だけで精いっぱいで非常に孤独を感じてるから大変に心を開いて彼女とつきあってくれた。
それが「思想の科学」というもののオリジンだね。
武谷三男と渡辺慧っていう2人の原子物理学者と私は戦争終わった時からずっとつきあいがあった。
武谷さんは「思想の科学」という雑誌を作ろうとする時に名前をみんなで募ったんだよ。
武谷さんは「科学評論」という名前出したんだよ。
賛成者は武谷さん1人なんだ。
それは採用されなかった。
丸山さんは「思想史研究」っていうの出したんだよ。
私は「記号論雑誌」というのを出した。
みんな1票ずつなんだ。
そこに上田辰之助が入ってきてこれはラテン語でトマス・アクイナス読んでるからね「『思想の科学』ってどうですか」って言ったんだ。
外部から編集同人じゃないそれが採用されたんだけど。
武谷さんはその時「科学評論」ってなぜ出したかっていうのは今六十数年たってみると大変な着想だと思うね。
発想の基には未曽有の惨事を招いた原爆がありました。
科学の進歩が人類の絶滅を招く。
全く新しい問題が突きつけられたのです。
というのはもはや科学の作り出す結果が市民が普通の人間がね科学者じゃない人間が結果によって批評していかなきゃいけない時代が来た。
そういう事を自由に書ける場所がなきゃいけないじゃないか。
それが彼の着想の基にあったんだよ。
原子力の秘密を手に入れた時にもはや科学者はヒポクラテスの時代の科学者ではない。
ヒポクラテスの時は一人対一人だったんだよ。
一人対一人の関係で科学的知識を悪用してはいけない。
例えば患者が大金持ちだったらうまい事殺して財産を自分のものにしようというしかたで使っちゃいけない。
一対一の信義なんだよ。
それをヒポクラテスは箴言として残した。
ファラデーがいるね。
ファラデーは鍛冶屋の息子で非常に善人で勉強が好きだから「ロウソクの科学」を書いたでしょ。
ヒポクラテスがいてファラデーがいて100年前に。
そして今アインシュタインまでいった。
アインシュタインには歴史的想像力があった。
だから「日本に落とした」と聞いた時に「自分は今度生まれたら鉛管工になりたい」。
彼にはヒストリカル・イマジネーションがあった。
トルーマンにはなかったんだよ。
しかもこういう残虐なつまりその時には既に国家の予算を受けて科学的な設計をするという事はビッグサイエンスですね。
これはもう科学者が双子になってるって事なんだ。
つまりジキル博士にしてハイド氏を兼ねてるんだよ。
科学者は全て双子なんだよ。
「思想の科学」の出発の時には原爆という意識がありましたか?鶴見さんには。
武谷三男が「科学評論」という名前を出した時にその含蓄の中にそれがあったと思う。
その時は気がつかなかった?洞察する事ができなかった。
だけど武谷さんは「思想の科学」の初めから自分が死ぬまでその考えの線上を歩いていった。
驚くべき偉い人だったと思うよ。
「思想の科学」を舞台に鶴見さんの思索が始まりました。
23歳の時自ら「言葉のお守り的使用法について」を発表しました。
鶴見さんは「国体」「報国」「八紘一宇」などを例として挙げ軍国主義はこうしたお守り言葉を国民に示すだけでどんな形で戦うのかという具体的内容を明らかにせず扇動してきたと主張しました。
更に敗戦後社会が変わればお守り言葉もがらりと変わると指摘。
「民主」「自由」「デモクラシー」などが新時代に適した魔よけ言葉のように使われていると論じます。
次々とお守り言葉を乗り換えありようを変えていく日本を鋭く批判しました。
鶴見さんはこの論文を英米文学者の土居光知に送りました。
それを友人のフランス文学者桑原武夫が目にします。
仙台の桑原さんの家の2階に下宿人として土居光知がいたからなんだよ。
土居光知は基礎日本語というのを作った人だから私は自分の初期の論文を送ったんだ。
土居光知はそれを「非常に面白い」と言って晩飯食う時に桑原さんに話した。
それが私が桑原さんに京大に引っ張られたゆえんなんだ。
桑原武夫は鶴見さんの論文を高く評価。
3年後鶴見さんを京都大学の助教授に抜擢します。
京都大学に勤めていた鶴見さんはある衝撃的な出来事に出会います。
だんだん知らなかった「原爆」というコンセプトが入ってきてどうやって自分の思考を更新していきました?かなり時間がかかるんだよね。
満26歳の時に私は京大助教授だから。
そうすると医学部の学生が沖縄送りになるといううわさがあるのを覚悟して自分たちで丸物で日本で最初の原爆展を開くんだ。
1951年当時日本人は原爆の惨状についてほとんど知らされていませんでした。
GHQは原爆の被害について厳しい情報統制を敷いていました。
それを破れば重い罰則沖縄送りになるとうわさがささやかれていました。
沖縄送りって何ですか。
沖縄は日本の領土じゃないからそこに行って重労働何年という事で占領法規に違反してるから。
占領法規違反で捕まるんですか。
そうです。
それ覚悟で京大生やったんですよ。
丸物で。
大変な事だ。
1951年7月日本最初の大規模な原爆展がデパートで開かれました。
京都大学の学生たちは大学で原爆調査団に加わった医学部の教授などから資料をもらい手作りのパネルを展示しました。
学生たちに大学当局も協力したのです。
原子爆弾の原理と放射能の被害。
その悲惨さを人々は初めて目の当たりにしました。
10日間で3万人を超える人が見たといいます。
ああいう事を身近で私は京大のスタッフとして来てるわけだからそういう事が起こると全く違うしかたで巻き込まれるね。
だから原水爆反対運動にも入ったし。
それが理由で私が最初にアメリカの大学に呼ばれた時スタンフォードの助教授というポストがあったんだ。
それは京大の学長も許可して時の文部大臣も許可して旅券は出てた。
今もまだ旅券持ってるよ。
ところが神戸総領事館がストップしたんだ。
ビザ出さない。
具体的には鶴見さん何にコミットしたから?原水爆反対運動の署名運動が回ってきたから私はそれに入った。
だけどそれを逆手に取られてアメリカは入国を拒絶したんだよね。
それから私は入国申請してないんだ。
そっちがそっちならこっちもこっちだという感じ。
一度も入ろうとした事がない。
あの時は42年の6月に出たんだから66年USAの領土には足を触れた事がない。
アメリカトルーマン大統領は「戦争を早期終結するために原爆の投下は必要だった」と主張していました。
しかし鶴見さんはある文献を読む事でアメリカの公式発表とは異なる考えを知る事になります。
彼の「第二次世界大戦」を読んで非常に感心したんだ。
あの中で原爆を落とす必要がない事は情報で分かってるし。
リーハイともリーとも読むけどあれが反対した。
それを押し切りトルーマンが落とした。
その経緯がちゃんと書いてある。
だから「そうか。
これをきちんと日本側で捉えた人間はいるのか」。
アメリカの公式の発表は全部「アメリカ兵を救うため」になってるんだよ。
あんなもんアメリカ兵を救うためなんて全然意味ないんだよ。
じっとしてれば日本人は飢餓に追い込まれて負けるよ。
むしろ日本人を救うためなら分かるよ。
論理的には分かる。
アメリカ兵を救うためっていうのは論理的に「inconsequent」なんだ。
「アメリカがこんな変なふうになったのはいつからかね。
別の国になる可能性はなかったのかね」。
こういうふうに日本の大学教授は考える。
これは私の言葉に訳せば「mistakenobjectivity」なんだ。
「mistakenobjectivity」というのは私の作った言葉だから訳すとちょっと変なんだけどね「誤解された客観性」。
だけど英語の元の自分で作った状態で言うと「mistaken」の中に「take」が入ってるでしょ。
「take」って自分が進んで取るという事。
自分がやってるんだもん。
自分が進んで取った間違いだ。
だけど「mistakenobjectivity」でないところから戦後を見始めた人間はいるんだ。
羽仁五郎と対談した時に初めの言葉は「僕は牢屋にいたんだ。
君はどうして僕を救いに来なかったんだ?」。
そこから始める。
「つまり戦争が終わったので看守も皆へたばってるからね牢獄に入ってく事はできたんだ。
どうして君は入ってこなかった」。
そういうしかたで私個人を糾弾するところから始める。
という事は羽仁五郎は「mistakenobjectivity」にとらわれてないって事なんだ。
現代史に対する態度が他の日本の歴史家と違うんだよ。
私は現代史はそういうふうに見たいと思ってる。
それが現在の立場だね。
日本の占領政治は終わりを告げます。
公職追放が解除され次々と戦前の政治家が復権。
鶴見さんは「思想の科学」を母体として若い研究者と共に転向研究会を発足。
東京工業大学の助教授となり転向をテーマに研究を進めます。
共同研究「転向」。
政治体制の変化や時の権力の強制を受け日本人は自らの思想をどう変えていったのか。
マルクス主義者自由主義者など50人余りを徹底的に分析しなぜ戦争になだれ込んでいったのかを検証しました。
岸は戦時中東条内閣の商工大臣などを務め戦犯に問われた人物です。
日本がこの総理の下再び戦争に巻き込まれるかもしれない。
安保条約改定阻止と岸内閣退陣を求めデモが始まりました。
いい若い者が次々に出てきたんだよ。
1959年に共産党から手を切って国会に突入したでしょ。
あれは壮挙ですよ。
今までのマルクス主義の運動から手を切ったんだ。
自分で考えた。
誤解されやすいところだけど鶴見さんの場合はマルクス主義が良くなくて日本で言われるリベラルの方がだいぶましだという考えでは全然ないわけですよね。
おやじがリベラルだからだよ。
0歳から一緒に飯食ってて理解してるから。
穏健な立て方だからいいっていう問題じゃないわけですよね。
背後で燃えてる火という部分を見るというか背後の態度ですよね。
穏健なまま燃え続けるものもある。
鶴見さんは画家であり主婦である小林トミさんと知り合います。
声なき声の会を始めたトミさんは一緒に歩く静かなデモを始めました。
鶴見さんは声なき声の会に参加。
無党無派の集会を作ろうと呼びかけます。
抗議デモは日に日に大きくなり国会構内に学生たちが突入。
警官隊と衝突し東大生樺美智子さんが亡くなる惨事を招きました。
新安保条約は6月18日午前0時抗議が続く中自然承認されたのです。
竹内好が「60年安保は無駄じゃなかった」って言ってるでしょ。
あれが人民の記憶の中にどう残るか分からないけどあるしかたで残るだろうと思ってるしあれは非常に重大な遺産になるだろうと思ってる。
だから人民の記憶は私にとっては国民の記憶より重大なんだ。
ところが日本では大体人民の記憶がどうかって事は歴史家を含めて大学教授は探索しないんだよ。
国家の記憶にすり替えちゃうんだ。
国家の記憶は記録見れば分かりますよ。
年表にも残ってる。
だけど問題は人民の記憶なんだ。
人民は…日露戦争以後ずっと黙ってた。
中国に対する侵略も支持してた。
で結局負けた。
何を記憶してたんだろう。
それが問題なんだよ。
アメリカに負けてそれが一体どういうふうに人民の記憶に残ってるかそれが知りたいんだ。
それが歴史学の生きてる課題だと思うんだよ。
だけど完全に忘れたと思ってたら岸がもういっぺん出てきて大東亜戦争の時の大臣がもういっぺん出てきて総理大臣になって強行採決があった時に人民の記憶が一部活性化して100万人の抗議デモが起こった。
100万人というのは日本の歴史の中では前例がないんだよ。
あれだけの運動が起こるんだから記憶が動いたんだよ。
この先どうなるんだ。
なくなった経験になるのか。
必要のない原爆は2個落とされた。
第五福竜丸も入れれば2個半だ。
それが全部人民の記憶の中に残らないのか。
それが歴史学の生きた問題だろ現在の。
鶴見さんは樺美智子さんの命日6月15日には毎年国会前を訪れ小林トミさん声なき声の会の人々と共に樺さんの冥福を祈ってきました。
そのトミさんも2003年に亡くなりました。
ベトナム戦争が続く時代1965年アメリカが北爆を開始。
沖縄の空軍基地から飛び立った戦闘機がベトナムを爆撃するようになり日本が戦争に加担しているのではないか戦争反対の世論が生まれていました。
鶴見さんはベトナム反戦の運動体を作ろうと新たなリーダーを探していたところ流行作家の小田実さんに頼む事を思いつきました。
私は全く根拠なく小田に電話をかけたら小田が引き受けた。
小田は稀有のリーダーだったんだよ。
パーソナリティーなんだ。
小田の前にはああいう運動は起こせていなかった。
「ベトナムに平和を!市民連合」「べ平連」は普通の市民が戦争は嫌だと参加する運動でした。
小田実さんは「市民」という言葉を運動で定着させていきました。
普通の市民が自分で考える。
セクトとは無縁のべ平連の緩やかな連帯が支持者を増やしていきました。
1967年事件が起きます。
アメリカ空母イントレピッド号から4人が脱走したのです。
べ平連は脱走兵援助を行い第三国へ出国させる活動を行うと発表しました。
電報が来たんだよ。
それはいとこの鶴見良行が打ってきたんだけど「脱走兵出た。
すぐ電話請う」って言うんだよね。
私はうちに電話がないから植物園のそばの割合に高級なオークっていう喫茶店があったんだよ。
そこは学生が使う所なんだ。
オークから東京に電話かけた。
そしたら良行が出てきてべ平連事務所で「脱走兵って言うのはまずいな」と彼は言うんだよ。
「そば屋って事にしよう」。
そば屋の話をしてるわけだよね。
「そば屋がこうでこうで」って。
そうするとそこにいる同志社の学生や京大の学生が私がそば屋の話ばっかりしてるから聞き耳を立ててるんだよ。
これまずいんだよ。
でも聞き耳が立ってるってどうやって分かるんですか。
見てるから。
入隊当時ベトナム戦争をどう思っていましたか。
脱走兵はアメリカ軍に逮捕されてしまうためかくまわなくてはならないと考えました。
べ平連のメンバーはそれぞれの家庭に脱走兵を滞在させました。
当時鶴見さんは結婚し妻と幼い長男の3人暮らしでした。
今の憲法に対する一つのチャレンジなんですね。
黒人をどこに泊めるかというのは非常に難しい問題があって。
まあ目立つからね当時。
担ぎ屋というのは18〜19の若い学生でしょ。
駄目だろうと思って和子の所へ行って「この黒人泊めてくれるか」。
和子受け入れてるんだ。
1人で住んでるんだよ。
それからまた後で黒人が愛人を持ってるんだよ。
その愛人と一緒に「最後の夜だから泊めてくれるか」って。
それも受け入れてるんだよ。
独身の1人の日本の女性が自分の2階の部屋に泊めるっていうのは普通できない決断だと思って。
私の細君にとっても大変だよ。
そりゃ心臓病の原因は確かにそれにあると思う。
私の息子にとっても大変だよ。
野戦病院じゃないけどとんでもない状態ですね。
家が。
京都に来たらとんでもないヒゲのおじさんがいるわけだから「怖いよ」と泣きわめいてるんだよ。
べ平連の脱走兵援助で出てきた一つの新しいとこかもしれないですね。
家族の助力がないとできない事だしある程度求めるっていうかな同意っていうの。
それまでの転向論みたいな考え方で言うとやっぱり家族っていうのは運動の桎梏になるっていうかね。
故郷のお父さんお母さんへの心配っていうのが戦前の左翼運動の転向に結び付いた。
それはそうなんだけど「家族が桎梏なんだ」って言うだけではその転向論って脈がないような感じがするんですよ。
党中枢からの指令っていう体系でやるとやっぱり根腐れすると思いますね。
脱走兵援助を含めてのこれを何とかやれたのは私にとっては姉の助力細君の助力そして0歳から5歳までの息子の努力っていうのがあってそれぞれあったと思うんだ。
脱走兵援助から40周年を記念して集会が開かれました。
べ平連とはどんな運動だったのか。
鶴見さんは問い続けてきました。
セクトになるとこれは完全に殺し合いになってくるでしょ。
どうしてべ平連だけがこれから逃れられたのか。
そして今日もいいかげんな形でやっていられるかというのはやっぱり研究に値すると思います。
べ平連はいいかげんだからあんなものただの大衆の動きじゃないか。
いやそんな事はありません。
明治以後の日本の殊に知識人の運動大学を出た連中の運動の中で言えばこれは極めてユニークな運動です。
鶴見さんと小田さんの反戦運動はさまざまに形を変えながら続いてきました。
2004年に結成された九条の会に2人も参加。
憲法九条の意味と平和について考え賛同した文化人知識人で論議を重ねていきます。
太平洋戦争末期の沖縄戦の始まりに…。
国全体を巻き込む事業ですから…。
鶴見さんにとって小田さんはべ平連以来40年を経ても変わらぬ存在です。
九条の会最初の会議に行った時に小田が出てくるでしょ。
そうしたらほとんどね…「デモいつやりますか」「事務所どこに置きますか」全部小田が発言して決めちゃうんです。
ああべ平連つくった時と同じだなという感想を持ったのでそう言ったの。
それが伝わっていったら…。
2007年7月30日小田実さん永眠。
鶴見さんは葬儀委員長を務めました。
じゃあ歩きます。

(「WeShallOvercome」)去年12月評論家加藤周一さんが亡くなりました。
加藤さんと鶴見さんは九条の会で一緒に活動を続けてきました。
その訃報は鶴見さんの元へ亡くなった直後に届けられました。
先生加藤周一さんがお亡くなりになられた。
後で追悼文章を書いて頂ければと。
ゆうべ夜中にかかってきた。
それ1本だけ。
14〜15から88まで大体一筋の道を歩いていたと思う。
加藤さんにはそういう態度の一貫性があったね。
戦争に負けた時もすぐに原爆調査団の中に入ってまだ学生なんだけど広島まで行ってるでしょ?とにかく至る所で筋からは離れてないね。
鶴見さんが2年をかけて準備してきた竹内好のシンポジウムが開催されます。
竹内の戦争への発言の意味を鶴見さんは今も問い続けています。
竹内さんが大東亜戦争の始めにこれをもろ手を挙げて支持するって書いたのは事実です。
それを戦後も撤回していません。
なぜか?これは解釈の問題にも入るんですけど。
この大東亜戦争っていうものを目的どおり東亜解放のためにやるんだったらもちろん東亜の中の朝鮮を植民地にするのをそんな事やめる事になるだろう。
攻め入ってる中国人の戦いをもちろんやめる事になるだろうという事が入ってるんですよ。
つまり日本は破壊される。
それは失神するまで飲むっていうのと似てますよ。
やはりお伺いしたいと思っています。
1960年5月号の…。
あの戦争について今だからこそ考察が必要であり多くの人と共に深く考えていきたい。
その読み方が尋常じゃないわけ。
人生として読んでるわけでしょ。
戦中から戦後に至る日本の精神史を改めて見つめ直してほしいと鶴見さんは考えています。
1年の時ですね。
読んですごくインパクトを受けたんですよ。
まだ高校の時だから自分の人生にすごく迷いがあったんですよね。
その時に鶴見さんが書いた日本の思想の流れの中でいろんなものを紹介していく。
そうすると思想の中にあるダイナミズムというかロジックというかつながりが分かってくるのね。
自分にとってものを考えるスタイルの基本になったという事ですよね。
戦後の中で非常に問題になる思想に格闘されてきた鶴見先生の軌跡というのは僕にとってはそこから学ぶものって非常に大きくあるんですよね。
イラク戦争の開戦の時に僕自身は非常に疑問を持ちながらも大きな行動に移せなかったんですよね。
その時期にべ平連とかそういうものが僕たちの世代にも必要だと思ったんですね。
3年前鶴見さんは掛けがえのない人を失いました。
姉の鶴見和子さんです。
どのプロジェクトも彼女が関わってるんだよ。
鶴見さんの最近の著作は和子さんの仕事分野と重なるものが多くなっています。
姉・和子さんは鶴見さんと最も長く人生を共に歩んだ人でした。
母からぶたれる時にかばってくれた姉。
アメリカへは同じように留学し一緒に交換船で帰国。
戦後は南方熊楠研究など気鋭の社会学者として活躍しました。
ところが77歳の時脳出血で倒れ生死の境をさまよいました。
その時口をついてあふれ出たのは和歌でした。
20代で詠んで以来50年ぶりの歌でした。
人間の深層心理の不思議なんで和子は和歌から離れている間も和歌は和子を離れなかったという事なんだよね。
それまで彼女は学問というものと和歌っていうものは全然別のものだと思ってたんだよ。
それは日本の明治大正の学者と同じだ。
学問はヨーロッパのものだと思ってるんだよ。
だからヨーロッパの勉強だけをやればいい。
それが一つのものになるきっかけは倒れたその日からなんだ。
和歌と学問とが合一するんだよね。
大変な事だったと思う。
今まで分離していた追究していた学問をもともとの歌心に戻した。
歌心というのはもともとあらゆる生物が生きようとしているもがきなんだから。
詩と学問。
「ポエトリー&サイエンス」。
それが融合する地点に最後の11年は立った。
最後の10年で逆転した。
彼女が死ぬ前に私に言ったのは「あなたは一生私をばかにしてたんでしょ」って。
そらぞらしい事言えないでしょ。
私は黙ってたんですよ。
それで終わり。
1946年以来50年刊行し続けた「思想の科学」。
鶴見さんはその全体像を捉えようという仕事に取り組みました。
掲載された膨大な論文から2,000を選びそれぞれの要約を記したダイジェストを出版したのです。
3年がかりの大仕事でした。
1992年2月3日から「もうろく帖」を書いてる。
これが第1巻でこれが第8巻。
これだけ生きると思わなかったね。
例えば第1巻から引いてみると…。
これは書き抜き帖でもあり自分の思いつきでもあるんだけど。
70歳からつけ始めた「もうろく帖」。
もうろくしたからこそ見えるものがある。
その境地がつづられています。
こういう事が書いてある。
「ふとわが名忘れし老母はわが面をじっと見やがて大笑いする」。
これいい歌でしょ。
つまり息子の名前を忘れちゃったんだよ。
老いたる母親がじっと息子の顔を見てやがて大笑いする。
ここにはコミュニケーションがあるんだよ。
マリノフスキーで言うと「phaticcommunion」と言って言語交際なんだ。
母親と自分との間の言語交際なんだよ。
すばらしい歌だと思うんだね。
もうろくしてくればそういうふうになるんだよ。
それが快楽なんだ。
もうろくしたなじゃなくてお互いにそれを認識して大笑いしてんだよ。
それは人生の愉快な一コマじゃないの?それが言語の使い方なんだよ。
言語忘れの使い方なんだ。
「もうろくの春」。
鶴見さんが80歳で初めて出した詩集です。
若い時80歳になっても自分が絶対いない50年後が気になるであろうと予想してました?こういうふうに答えようね。
水木しげるが小学校に行った時に人間はみんな死ぬんだと聞いた。
びっくりしてうそだと思った。
その気分は分かるね。
人間は誰も彼もが死ぬという事は生まれた時分からないね。
だけどその気分は86歳になっても小さなかけらとして自分が生きているという感覚の中に残ってる。
今86歳だから死ぬ事が近い事は分かってるんだけどにもかかわらず自分が今生きてるという感覚の中にかけらとして自分の中に永遠がある。
それだな。
ホワイトヘッドはこういう事を言ってるね。
じかに聞いた事なんだけど。
今この建物がどれだけの立方体であるという事は説明できる。
だけどこの立方体に価値観を入れた時に今感じた事が大変重大な事だと思った時にそれは永遠なんだ。
だから永遠は価値観を入れる時に初めて生じる。
価値観を抜きにした時にはない。
それは恐らく…恐らくじゃない確実にホワイトヘッドの最終講演なんですよ。
だけど確かにホワイトヘッドの哲学にはそれを予告するようなところがあったんです。
「科学と近代世界」っていう日本語にも訳されてる「ScienceandtheModernWorld」という中に1章ワーズワースについてというのが入ってるんだよ。
どうしてこんな所にワーズワースが入ってくるんだみたいな。
彼は正直に序文に書いてるんだ。
このワーズワースの章は自分の細君の示唆によって入れたものだって。
細君がワーズワースが好きなんだよ。
ワーズワースの朗読か何かをやる時に感じた事がある。
ワーズワースの中でも「intimationofimmortality」というものだけど。
虹が出る。
虹を見る。
その時にいつでも心の中に跳ね上がるものがある。
子供の時からいつもそうだった。
自分が老人になっても同じだろう。
虹を見る。
心が跳ね上がる。
それがワーズワースには「immortal」霊魂不滅の予告として感じられる。
それはワーズワースの詩どれも必ず出てくるよ。
「Ode:Intimationsofimmortality」。
つまりワーズワースにとってはある価値観は永遠を感じさせる。
それだけなんだ。
ワーズワースは壇をおりる時に…。
ワーズワースじゃないホワイトヘッドなんだ。
ホワイトヘッドは今の私ぐらいよたよたしてたと思うな。
おりる前にぽつんとひと言言ったんだよね。
何言ったか私は聞き取れなかったんだ。
演説の最後の言葉をきちんとコピーをとって送ってくれたんだ。
そしたらその言葉っていうのはね「Exactnessisafake」。
精密さなんてものはつくりものだ。
ホワイトヘッドはラッセルと一緒に「プリンキピアマテマティカ」を作ったんだ。
「Exactness」な体系の。
そんなものつくりものだって。
それがホワイトヘッドが演説をやった最後の1行なんだよ。
つまりそこから見れば永遠の感覚っていうのは生きている感覚の一部としてある。
最後の一息の中にもある。
だから今の私はあと僅かな時間で死ぬだろうと思ってるし死と背中合わせって感じがあるんだけど同時にかけらとして永遠の感覚はあるね。
2015/08/10(月) 01:25〜02:55
NHKEテレ1大阪
ETV特集 アンコール「鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜」[字]

7月20日に93歳で亡くなった哲学者・鶴見俊輔さんを追悼し、2009年放送のETV特集を放送する。先に逝った人々への鶴見の追悼文を通して戦後精神の軌跡をたどる。

詳細情報
番組内容
哲学者・鶴見俊輔は、自分より先に逝った人に追悼文である「悼詞」を発表してきた。銀行家・池田成彬から漫画家・赤塚不二夫まで125人に及ぶ。鶴見は、知識人の戦争責任を問う「転向」など、戦後日本社会に鋭く切り込んできた。60年安保、ベトナム反戦運動など精力的に活動し、ふつうの市民と走り続けた。そんな鶴見にバトンを渡した死者125人の「戦後精神」を見つめ、鶴見の行動の軌跡をたどる。2009年4月12日放送

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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