NHKスペシャル「“あの子”を訪ねて〜長崎・山里小 被爆児童の70年〜」 2015.08.09


(汽笛)また夏を迎えた長崎。
70年前の今日子どもたちを原子爆弾が襲いました。
爆心地から700メートル…1,500人の児童のうち1,300人が命を落としました。
4年後に撮られた1枚の写真。
原爆に破壊された町で奇跡的に生き残った37人の子どもたち。
その生々しい体験を手記につづりました。
「原子雲の下に生きて」。
日本で最初の子どもたちによる被爆体験記です。
「一面に血が流れていてその中に母のすっかり変った顔がありました」。
手記をきっかけに作られた原爆の悲劇を伝える歌…・「おさない文字のあの子の名」毎年8月9日に行われる平和祈念式典で歌われています。
山里小学校の子どもたちは「あの子」と呼ばれ平和を訴える象徴となってきました。
終戦から35年。
NHKは手記をつづった「あの子」たちのその後を追った番組を制作しています。
(取材者)黒川さん?はいそうです。
(取材者)松尾スナ子さん?はいそうです。
働き盛りを迎えていた昭和50年代。
被爆した過去を乗り越えようと懸命に生きていました。
更に35年がたった今年。
「あの子」たちはどうしているのか。
大きゅうなって。
多分多分ね。
しかし70歳を越えた「あの子」たちは癒える事のない原爆の傷と向き合っていました。
7歳で両親を失った女性。
被爆の苦しみを今も夫婦で抱えています。
足に大きなケロイドが残った男性。
被爆者である事をずっと隠し続けてきました。
平和を訴える象徴とされながら原爆に翻弄された人生。
「あの子」たちの70年です。
先月末山里小学校で慰霊祭が行われました。
原爆で命を奪われた子どもたちをかつての同級生が追悼しました。
受け継がれてきた歌「あの子」です。
校舎の脇にある…悲劇を忘れないようにと建てられました。
原爆の炎に襲われる少女の姿が刻まれています。
歌や碑のもととなる手記を書いたのが被爆当時4歳から11歳だった37人の子どもたちでした。
手記は長崎大学の医学博士によってまとめられ原爆の悲惨さを世界に訴えてきました。
最も幼い女の子の手記です。
4歳で両親を亡くした体験をつづっています。
「『ばくだんがおちるゾオー』とだれかがわめいてはしってきました」。
この手記を書いた「あの子」。
長崎市の中心部から車で1時間近く走った山の上にいました。
被爆者のための養護施設原爆ホームで暮らしています。
身寄りがなかったり介護が必要な被爆者の中で38年を過ごしてきました。
長崎を破壊した原子爆弾。
山崎さんは当時4歳。
爆心地の近くに出かけていた両親は数日後容体が急変しました。
両親を失い孤児となった山崎さんは親戚に引き取られました。
新しい家族になじめず暴力を振るわれた事もあるといいます。
たたかれたりとかしましたからね。
泣きそうになってしまって…。
ああごめんなさい。
中学卒業後山崎さんは親戚の家を出て電話交換手として働き始めました。
30代の山崎さんです。
視力が落ちたため盲学校に通いマッサージ師を目指していました。
思っているから。
昭和50年代。
両親の墓参りをする山崎さんです。
この頃弱視に加えてんかんの発作が頻発。
仕事を一方的に辞めさせられました。
頼れる人はなくたどりついたのが原爆ホームでした。
当時山崎さんは35歳。
ほかの入所者はほとんど60歳以上でした。
次第に外に出る事は減っていきました。
38年間変わらない生活です。
穏やかな暮らしと引き換えに薄れていった社会とのつながり。
結婚して子どもを持つ事はありませんでした。
(山崎)私自身…戦後70年そうね。
戦後70年そうねって感じでね。
思う事ありますもん。
私ね思うんですけど私…だからきっと結婚してたんじゃないかと思うんですよ。
うん分かんないけどねそれこそ分かりませんよ。
どんな家庭作っていたかなって思いますよ。
どうもありがとうございました。
失礼します。
70年を振り返って山崎さんは言いました。
「戦争よりも戦後の傷の方が大きかった」。
この手記を書いた女の子。
写真の中で一人だけ靴を履いていませんでした。
貧しい暮らしを乗り越えようと必死に生きてきた70年でした。
爆心地からおよそ700メートル北にある山里小学校。
難波さんは6歳の時学校に程近い自宅で被爆しました。
家は全壊し父は失業。
家族7人食べるものもありませんでした。
あっそうですそうですこれね。
そうですね。
(難波)みんなきれいな洋服着て…
昼間彼女は病院の薬局で働いている
35年前の難波さんです。
女手一つで2人の子どもを育てていました。
ふくしまさ〜ん。
夜間中学で薬剤師を目指して勉強し少しでも収入を増やそうとしていました。
子どもには自分が経験した貧しさを味わってほしくないと必死でした。
とにかく私は仕事この子たちは勉強。
夜も勉強するのが日課。
はあ〜うまいね。
2人の子どもが独立したあとは生活にゆとりができました。
50歳を過ぎ息子の真悟さんが一緒に住もうと呼び寄せてくれました。
ところがある日真悟さんから思いがけない言葉を投げかけられます。
自分の子どもに…。
もう絶対に言っちゃ駄目。
言うな言うなっていうそういう言葉態度それが一番つらかったですね。
生まれつき心臓病を患っていた真悟さん。
11年前亡くなりました。
放射線の影響が遺伝する科学的な根拠は見つかっていませんが病気は被爆のせいだと最後まで思い込んでいました。
何でも分かり合える話し合える人だったけど…家族との間にもある被爆に対する考え方の違い。
話を聞きたいと依頼していた「あの子」の一人深堀輝行さんから手紙が届きました。
「妻はプロポーズを受けた時から私が被爆者である事が不安だった」。
「語らない方が良いと言います」。
被爆体験を語る事を妻から反対されたという内容でした。
お疲れさん。
(取材者)お疲れさまです。
手紙が届いた4日後。
深堀さんは自宅ではなくマンションの共有スペースでならと話を聞かせてくれました。
妻が気にしているのは被爆者が世間からどう見られているかだといいます。
私はもう別にね協力というより自然な形でね対応してますけどね。
家内にしたら…。
その気持ちしかないんですよ要するに。
原爆が投下された時防空ごうにいた深堀さん。
けがややけどはなくこれまで被爆の影響を気にする事はありませんでした。
戦後大阪で出会った妻と結婚。
妻は深堀さんが被爆者である事について何も言わず支えてくれました。
5年前初孫が誕生。
そのころから妻は家の外であまり原爆の話をしないでほしいと言うようになったといいます。
孫が大きくなった場合例えば…私はそこまで考えないけどもそういうふうに素直にパッと取ってそうなったんじゃないかなと思う。
どうも。
「つらくはないけど寂しいね」。
深堀さんはそうつぶやきました。
山の上にある原爆ホームで暮らす…ちょっとグラウンドの方見せて下さいね。
は〜い。
こんにちは。
この日山里小学校に足を運びました。
私たちの取材を受けるうちに久しぶりに母校に行きたくなったと言います。
(取材者)今は明日が運動会だそうでなので週末の運動会の準備中だそうです。
(山崎)そうですか〜。
私たちの頃は運動会…ここでしたもんね。
運動会はここでしたもん。
(取材者)グラウンドがこっちだったから。
はいそうですよ。
だけど…終戦から5年。
「あの子」たちが手記を書いた頃の山里小学校の映像です。
戦後の苦しい生活の中でも子どもたちは元気にグラウンドを走り回っていました。
あ〜本当だ。
山崎さんが一番訪ねたかったあの子らの碑です。
かやちゃん…。
かやちゃん…。
石碑に刻まれた少女の像に幼なじみの姿を重ねていました。
手記を書いた「あの子」の一人…同級生で一番仲のよい友達でした。
どうもしばらくでございました。
35年前の2人です。
同窓会で再開し手を握り合っていました。
(山崎)やっぱり痩せてらっしゃるんですね〜。
どうも本当に。
茅乃さんは7年前がんで亡くなりました。
37人の「あの子」。
5人が既にこの世を去っています。
・「壁に残ったらくがきの」・「おさない文字のあの子の名」・「呼んでひそかに耳すます」・「あああの子が」・「生きていたならば」戦後日本で初めて被爆体験をつづった子どもたち。
それぞれの人生が今埋もれていこうとしています。
「ピカッ…と光ったことだけは私もおぼえている」。
私の被爆体験っていう事で話をさせて頂きます。
80歳になった「あの子」…語り部として手記に書いた被爆体験を1万回以上話してきました。
どのくらい時間がたったか分かりません。
「しっかりしろ!」と頭をたたかれて気が付いた時…語り部を続けてきたのは妹の死を無駄にしたくないという思いからでした。
これが妹です。
2歳下の妹遼子さんです。
被爆の影響で免疫力が低下。
傷が治らずウジがわいて臭いといじめられました。
被爆から10年後。
遼子さんは列車に飛び込みました。
最近下平さんは次の世代に伝える難しさを感じています。
5年ほど前から下平さんは入退院を繰り返すようになりました。
被爆体験を語る回数も減る一方です。
頑張ろうと思うんだけど体がいう事をきかないていう面もありますね残念ながら。
弱気になっちゃってる。
もう辞退させて頂こうかな迷惑かけるからと思ったりするんだけどね。
原爆の悲劇をどう伝えていけばいいのか。
残された時間は限られています。
70年たった今言い残したい事がある。
一度も取材を受けてこなかった「あの子」がインタビューに応じてくれました。
35年前の番組で取材を拒否し自転車で走り去る男性。
(取材者)今日はよろしくお願いします。
はい。
これまで押し殺していた原爆への怒りを語り始めました。
自宅の前で遊んでいた時に被爆した本田さん。
足に大きなケロイドが残った事を手記につづっています。
普通やったら5歳の時の事は覚えてないんだけど原爆の事だけははっきりと覚えてる。
日がカンカン照る中半ズボンに半袖の姿で下の家の子と3人で遊んでた。
その時にピカッド〜ンという音がしてこれ何やろ思うて地球が破裂したんか思うて…。
体だけでなく心も深く傷つけられる事がありました。
アメリカ政府が設立した…ケロイドの回復の過程を調べていました。
同級生が見ている前で何度も教室から連れ出された屈辱。
中学校を卒業するまで続きました。
本田さんは今回の取材のためにABCCから受けた調査の記録を取り寄せました。
(本田)「重症残る」。
原爆のせいでどんな目に遭ったのか分かってほしい。
裸にされて撮られた写真を私たちに見せたいと思ったのです。
72枚の書類の中に写真は一枚もありませんでした。
70年たって…何で原爆遭うたんかな思うて何で戦争…戦争になってこんな目に遭うたんかな。
10年前から喉や肺にがんが見つかっています。
一度きりと決めて受けたインタビュー。
ため込んできた原爆への恨みをメモにしていました。
「あの子」を訪ねた私たち。
37人のうち18人が話を聞かせてくれました。
最後に出会ったのは1組の夫婦でした。
(取材者)こんにちはよろしくお願いします。
話すのは苦手だと言いながら70年間を振り返ってくれました。
岩間さんは7歳で被爆。
両親を亡くしました。
「もんぺの柄から…に見覚えがありました。
『かあちゃん』と呼んで私は走りました。
しかし母は『志津子』とは呼んでくれませんでした。
一面に血が流れてその中に母のすっかり変わり果てた顔がありました。
私はぽかんとしてそばに立ったまま母の死がいを見つめていました。
あまりのことに涙も出ず悲しくも何ともありませんでした」。
孤児になった岩間さんは10代20代と仕事を探して全国をさまよいました。
そのころの惨めさは絶対に話したくないといいます。
それを話してもその境遇にならないと分からないと思うので話さないの私は。
本当にもうその時はボロボロ。
人間がボロボロになる。
両親を亡くしたよりもまだボロボロになってた時。
ただ一人打ち明けられたのが同じ長崎の被爆者だった夫の勝さんでした。
生活が苦しく高校に行けなかった岩間さん。
子どもが独立したあと勝さんの後押しで通信制高校を卒業しました。
「一人で苦労する事ないよ」って言ってくれた事はもう一生忘れない。
4年前勝さんは脳梗塞で倒れました。
今は認知症が進行し会話が次第に難しくなっています。
(取材者)旦那さんと話せない事でですね一番悲しいなと思うのはどんな時ですか?おっ?学校に行ってない時が悲しいの?被爆者の苦しみを分かち合ってきた夫婦。
そうよ。
ここ3回回ったから今度は階段。
階段階段って…。
この先も2人で生きていきます。
私たちがインタビューを終えようとした時岩間さんは言葉を続けました。
大事な事ですので。
二度とこういうね親のいない子になったら本当に今だって苦労すると思いますよ。
私たちはもう死んでいくだけだけど後に残る若い人は特にそういう事考えてほしいって思います。
ほかの事よりもそれだけを苦しむのは自分たちなんですから。
伝えてほしいと思います。
(ガイド)ポーズをよく見てもらいたいんですけど天を指さした右手は原爆の恐ろしさを表しています。
水平に伸ばした左手では平和を呼びかけております。
原爆の悲劇を語り継いできた長崎。
その原点となる手記をつづった37人の「あの子」たち。
家庭を築く幸せを手に入れられなかった無念。
社会に受け入れられず抱え続けた怒りと悲しみ。
「原爆で苦しむのは自分たちで最後にしてほしい」。
被爆から70年「あの子」たちの願いです。
2015/08/09(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「“あの子”を訪ねて〜長崎・山里小 被爆児童の70年〜」[字]

敗戦から4年後に撮影された1枚の集合写真。写っているのは長崎での被爆体験を手記に残した37人の子どもたちだ。戦後70年をどう生きてきたのか、その足跡をたどる。

詳細情報
番組内容
「ぼくの手はすっかり焼け、皮がなくなって、赤い肉が出ていた」「一面に血が流れていて、その中に、母のすっかり変わった顔がありました」。手記を残した37人をNHKでは継続的に取材してきた。今年再び彼らを訪ねると、見えてきたのは、70年たっても癒やされることのない原爆の傷跡だった。被爆したことを周囲に話せず、ひっそりと生きている男性。家族のひと言に深く傷ついている女性。被爆者の70年の人生に耳を傾ける。
出演者
【語り】渡邊佐和子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:32097(0x7D61)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: