NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」 2015.08.09


70年前一発の原子爆弾が街を壊滅させました。
7か月後アメリカ軍が撮影した広島の街です。
黒焦げになった車。
路面電車はレールからはじき飛ばされています。
熱線で焼き付けられた人の影。
この年だけで14万人以上が亡くなったとされています。
1945年8月6日アメリカが投下した原子爆弾。
上空およそ600メートルで致死量の放射線を放ちながらさく裂しました。
直後に発生した熱線で爆心地の地表温度は3,000度以上に達しました。
更に秒速440メートルの爆風が発生。
その後火災が街を焼き尽くします。
爆心地から2キロ圏内はいわば壊滅地帯となりました。
しかしここで人々がどのように亡くなったのか。
詳細は分かっていません。
それを知る手がかりとなる写真が世界で2枚だけ残されています。
投下の3時間後人々を写した写真です。
人々の服は破れ髪の毛はひどく縮れています。
投下直後の人々を記録した貴重な写真ですがこれまで詳しく検証された事はありませんでした。
撮影されたのは爆心地から2.3キロ。
壊滅地帯のすぐ外側でした。
今この写真から壊滅地帯で起きていた事を明らかにできないか。
えっ?今回写真に写る人や当日その場所を通った人を捜し31人から話を聞きました。
更に写真を最新の映像技術で解析しました。
アングルを変えたり拡大する事で人々の姿が初めて浮かび上がってきました。
横たわる人。
うずくまる人。
ひん死の状態で逃れてきた人たちです。
また医学的な分析によってけがの状態も分かってきました。
通常では起こりえない原爆特有のやけどを負っていたのです。
証言者が語る地獄とはどんなものなのか。
写真に写る人々の姿を取材で得られた事実を基に再現します。
原爆が投下されてから70年。
写真に焼き付けられたきのこ雲の下の真実に迫ります。
広島の新聞社に厳重に保管されているものがあります。
原爆投下の3時間後に撮られた写真のネガです。
投下直後の混乱の中川で現像されたといいます。
撮影したのは新聞社のカメラマンだった松重美人さん。
爆心地から3キロ離れた自宅で被爆。
カメラを持って街の中心部へ向かう途中で惨状を目の当たりにしました。
当時国民の戦意をそぐような被害の写真は撮影を禁じられていました。
松重さんはそれに背いてシャッターを切ったのです。
「目前に見る多くの負傷者のまなざしが私に集中している。
この惨状を写真にして多くの人に伝えてほしいと言われているようにも思えた。
撮る事がむごい事か撮る事が正当なのか。
私は迷った」。
1枚目の写真は長いちゅうちょのあと伝えなければとシャッターを切りました。
10歩近づいて撮った2枚目。
涙でファインダーが曇りこれ以上撮影する事はできなかったといいます。
松重さんが写真を撮ったのは御幸橋と呼ばれる橋の上です。
当時から街の中心部と郊外を結ぶ重要な橋でした。
撮影された場所には写真が掲げられています。
そこに写る多くの人々。
なぜここに集まっていたのか。
原爆投下直後広島を覆ったきのこ雲。
その下で壊滅地帯となっていた2キロ圏内。
御幸橋は火災を辛うじて免れました。
そのため郊外へ逃げようとした人がようやく立ち止まれた場所だったのです。
カメラは人々を橋の中ほどから捉えていました。
右奥が爆心地です。
写っている人たちはどんな状態だったのか。
髪の毛はひどく縮れてボサボサになっています。
服は破け肌がむき出しです。
人々の多くははだし。
着の身着のままで逃げてきた事がうかがえます。
2枚の写真を並べてみると同じ人物が写っている事に気付きました。
セーラー服を着た女性です。
左腕は服が破れ血がにじんでいます。
手は傷ついているようにも見えます。
取材を続けるとこの女性が今も健在である事が分かりました。
はいいらっしゃいませ。
(取材者)こんにちは。
河内光子さん83歳です。
当時広島女子商業学校の2年生。
同級生と映画やおしゃれの話をするのが大好きな13歳でした。
これです。
写っているのが自分だと分かった理由はセーラー服の三角襟。
山口県に住むいとこからもらったものでした。
背中にはけがを負っていました。
この時河内さんは友達のけがの事で頭がいっぱいでした。
隣に写っているのが友達です。
服は破れ肌があらわになっています。
橋にたどりつくまでに何があったのか。
8月6日の朝河内さんたちは戦地に行った大人の代わりに働いていました。
爆心地から1.6キロの貯金局で仕事をしていた河内さん。
午前8時15分原爆がさく裂。
秒速70メートルを超える猛烈な爆風に襲われます。
シャ〜ッて何か…河内さんは吹き飛ばされ壁にたたきつけられました。
意識を取り戻し目にしたのは内臓が飛び出た姿で息絶えていた女の子。
その子を踏まないように外へ出ると顔を血で染めた友達がいました。
壊滅地帯で火災が確認された場所です。
原爆投下とともに発生した火災は徐々に広がっていきました。
河内さんは友達と自宅を目指しますが火災で近づけないと聞き引き返します。
通れる道を探しながらたどりついたのが御幸橋でした。
投下から3時間後。
何が起きたのか分からないまま傷ついた体でここにいたのです。
河内さんにとって忘れられない光景が写真に写っています。
河内さんの斜め前にいたこの女性の姿です。
走っているような姿勢。
黒っぽい何かを抱えています。
黒焦げになった赤ちゃんを抱いていたのはその子の姉のようでした。
少女はどんな様子だったのか。
やってみよ。
話を聞くうちに河内さんの記憶が鮮明になってきました。
壊滅地帯から逃れてきた人々はどんな状態だったのか。
私たちは河内さんが見た光景をコンピューターグラフィックスで映像化する事にしました。
証言を基に少女の動きや声を再現していきます。
そして確認してもらいました。
河内さんが見た光景です。
起きてや起きて。
なあなあ。
起きてや!起きてや!なあ!起きてや!起きてや!なあ!起きてや!なあ!起きてや!起きてや!起きて…起きてや…起きて…起きて…起きてや。
起きてや!起きてや!起きて…起きて!壊滅地帯から逃れてきた人々を撮影した2枚の写真。
両方に人だかりが写っています。
何をしているのか。
この人は草履を脱ぎ足に何かを塗っています。
足元には四角い箱のようなものが転がっています。
少し離れた場所で見ていた人がいました。
この男性が今も健在でした。
人々はやけどを負った体に油を塗っていたのだと言います。
坪井さんも塗る順番を待っていました。
足元に転がっていたのは食用油の缶でした。
やけどの応急処置に使うよう指導されていました。
坪井さんは当時二十歳。
広島工業専門学校の学生。
将来エンジニアになって人の役に立ちたいと考えていました。
被爆したのは爆心地から1.2キロの屋外。
2人に1人が当日亡くなった距離です。
熱線で背中や顔に大やけどを負いました。
耳の半分がちぎれました。
周りには助けを求めながら炎にのまれる人。
目玉が飛び出たまま歩く人。
坪井さんは治療してもらえる場所を探しさまよいます。
3時間かけようやくたどりついたのが御幸橋でした。
ひん死の状態で橋のたもとに座り込んだ時周りを見て死を意識したと言います。
目の前でうずくまる若い女性。
裸の上半身は焼けただれていました。
人々の奥に見える脚。
油を塗る気力もなく横たわったまま亡くなっていく人の姿だといいます。
その周りにも倒れた人が何人もいました。
坪井さんが見た光景を取材で分かった人々の声とともに再現します。
お母さん…。
坪井さんは手元にあった石で「坪井はここに死す」と地面に書きました。
人々がひん死の状態でたどりついた御幸橋。
ここは生と死の境界となっていたのです。
原子爆弾はその年だけで14万人以上の命を奪いました。
多くはやけどによるものでした。
やけどをもたらした熱線。
爆心地付近の地表温度は3,000度以上となり鉄をも溶かしました。
御幸橋の写真には熱線による原爆特有のやけどが写っている事が分かってきました。
女性の顔は黒ずみ目や口の周りが腫れ上がっています。
この人の手のひらも大きく腫れている事が分かります。
日本熱傷学会の元理事原田輝一医師に医学的に分析してもらいました。
原田医師が特に注目したのがこの女性と見られる人。
破れた服のようなものは実は肩から垂れ下がる皮膚だと言います。
通常では起こりえないやけどだという原田医師。
根拠として示したのは戦後間もなく書かれたアメリカの論文でした。
アメリカは広島に原爆を投下したあと深刻なやけどが発生した事に気付きひそかに研究を行っていました。
その結果報告されたのがフラッシュバーンと呼ばれる特殊なやけどでした。
女性のやけどもフラッシュバーンだったのではないか。
原田医師が推定したメカニズムです。
強烈な熱線が当たると皮膚に含まれる水分が一瞬で水蒸気となります。
水蒸気で膨らんだ皮膚は裂けて垂れ下がります。
これが原爆特有のフラッシュバーンです。
この時激しい痛みに襲われます。
表皮と真皮で出来ている皮膚には痛みを感じる痛覚神経が張り巡らされています。
フラッシュバーンによって痛覚神経がむき出しになっていたのです。
フラッシュバーンの苦しみを目の当たりにした人がいました。
セーラー服姿で写っていた…右側に写る男性。
娘の河内さんを捜しに来た父親でした。
屋外で被爆して大やけどを負い手は腫れ上がっていました。
河内さんが父親に声をかけ何気なく腕をつかんだ時お父さん…。
腕の皮がむけてしまったのです。
「ワ〜ッ」言うてからね。
「持つな!」と。
写真に写る人々の皮膚の色を原田医師の監修で再現します。
膝から下の長さを考えるとここが脚の底になるので。
写真には激しい痛みに苦しむ人々の姿が写し出されていたのです。
今回原爆投下当日に御幸橋を通った31人に話を聞きました。
やけどがもたらす壮絶な光景も見えてきました。
両手を突き出した人。
皮膚がめくれた腕がこすれないようにしていたといいます。
取材を基に再現した御幸橋の光景です。
皮膚をぶら下げうめきながら歩く人々。
爆心地の方から大勢やって来たといいます。
やけどを負った人々は体内の水分が急激に奪われました。
水を求めて亡くなりました。
やけどを負った人々が最期に向かった場所が川でした。
飛び込んで多くの人が亡くなったといいます。
御幸橋にたどりついた人たちが見た光景。
壊滅地帯の至る所で起きていた現実です。
壊滅地帯との境界にあった御幸橋。
写真が撮られた午前11時には救助活動の最前線となっていました。
このころ御幸橋から先は入れなくなっていたからです。
壊滅地帯は炎に包まれていました。
写真の中央に写る制服姿の男性。
やけどの治療に当たっていた警防団だといいます。
負傷者を救助するため軍のトラックもやって来ました。
郊外の病院へ繰り返し運んでいたのです。
この人を救う現場で命の選別が行われていたという証言がありました。
大やけどを負っていた…それは坪井さんの目の前で起きました。
トラックの荷台に軍人たちが負傷者を乗せていた時の事。
幼い少女がトラックに駆け寄り乗り込もうとしていました。
その時軍人が叫びました。
こらっ!女子どもは後回しだ!若い男性を優先していたといいます。
軍人にどなられた少女は泣きながら走り去りました。
その先にあったのは燃え盛る街でした。
きのこ雲の下には助けを求める小さな命さえ顧みられない戦争の現実があったのです。
原爆投下3時間後に撮られた写真。
戦後しばらく人目に触れる事はありませんでした。
その存在が世界に知られるようになったのはアメリカでの事でした。
写真雑誌「ライフ」によるスクープでした。
原爆投下から7年が過ぎていました。
なぜ公表までに7年もの時間がかかったのか。
その経緯を知る人物が見つかりました。
「核兵器」をテーマに取材を続けてきたジャーナリストです。
御幸橋の写真を撮影した松重美人さんに生前話を聞いていました。
取材をした時…戦後日本を占領したアメリカは戦争被害の写真を検閲していました。
日本人が撮影した写真を探し出しては没収していたのです。
「写真が隠された7年に重要な意味がある」と言う人がいます。
今年ワシントンで原爆展を開いた…御幸橋の写真を展示しています。
スリーツーワンゼロ。
(爆発音)終戦直後からアメリカとソ連の冷戦が深刻化。
核開発競争が加速しました。
世界には今およそ1万6,000発の核兵器が存在しています。
写真はアメリカでの公開後日本でも展示され多くの人がその存在を知るようになりました。
原爆が市民の上に落とされた事実。
忘れる事がないようにと写真は掲げられてきたのです。
原爆が投下されてから70年。
今回の取材で更に新たな事実が分かってきました。
写っている人の多くが子どもだったのです。
大やけどを負った大人の横に丸刈りの少年。
奥には上半身裸の子どもの姿も写っています。
時代考証の専門家によると橋の欄干沿いに座る人の多くも中学生ではないかと言います。
当時中学生は戦地に行った大人の代わりに工場などの労働に駆り出されました。
多くの中学生が広島の中心部に集まっていました。
壊滅地帯となった2キロ圏内にいた中学生はおよそ8,000人。
そこに原爆が投下されたのです。
子どもたちに何が起きたのか。
御幸橋にたどりついた中学生の証言から分かってきました。
当時13歳でした。
兒玉さんは写真には写ってはいませんが撮影の瞬間カメラマンのすぐ横にいました。
広島第一中学校の1年生だった兒玉さん。
315人の同級生と学校にいました。
学校があったのは爆心地から800メートル。
被爆した人の8割以上が亡くなった距離です。
校舎内で仕事が始まるのを待っていた時原爆がさく裂。
同級生のほとんどがその場で命を落としました。
兒玉さんは倒壊した校舎から脱出した時に見た光景を絵にしていました。
真ん中で立ちすくむ兒玉さん。
同級生を助けようとしましたが炎が迫ってきました。
その時がれきの下から声が聞こえてきたと言います。
同級生を残しその場を離れざるをえなかった兒玉さん。
たった一人で御幸橋に座っていたのです。
(車内アナウンス)「次は御幸橋御幸橋」。
ひん死の友達とさまよい続けた末橋にたどりついた女学生もいました。
当時13歳。
第三国民学校高等科の2年生でした。
桑原さんたち女学生は屋外での作業に当たっていました。
被爆したのは爆心地から800メートル。
大やけどを負った桑原さんと友達は御幸橋を目指しました。
避難を始めた桑原さんと友達。
しかし川を渡った所で1人。
破壊された病院の前でもう一人が動けなくなりました。
「水が欲しい」と繰り返す友達のために必死に探して飲ませてあげようとしました。
で私が…。
更にしばらく進んだ所でもう一人が力尽きます。
御幸橋に着いた時桑原さんたちは3人になっていました。
壊滅地帯にいた8,000人の中学生のうち7割もの命が奪われました。
今年行われた調査で原爆投下の当日に亡くなった人のうち最も多かったのが12歳と13歳。
中学生だった事が明らかになりました。
桑原さんは今でも度々友達と別れた場所を訪れます。
ここで友達が動けなくなったと言います。
こ…こんな感じ。
水を欲しがった友達の事を忘れた事はありません。
原爆の最大の犠牲者だった子どもたち。
生き延びた僅かな子どもたちも深い悔いを抱えてここにいたのです。
きのこ雲の下で撮られた2枚の写真。
消息が確認できたのは4人でした。
同級生の少女はその後結婚し子どもを授かったといいます。
しかし被爆者として差別されるのを恐れ写っている事を公にしてこなかったといいます。
御幸橋にいた人々はさまざまな思いを抱えながら生きてきました。
13歳で被爆した…母親は自宅で黒焦げになった姿で見つかりました。
無残に亡くなっていった人たちと生き残った自分。
向き合い続けてきました。
(ため息)御幸橋の上で死を覚悟した坪井直さん。
放射線の影響と見られるがんなどの病気と闘い続けてきました。
今年90歳。
被爆者が年々少なくなる中自らの体験を若い世代に伝えています。
取材の最後に坪井さんは「見てほしいものがある」と言いました。
よう見てよ。
見えるかな?これ。
炎で焼かれ深くえぐられた体です。
これこれ…。
骨と皮しかない。
肉がない。
ここからねず〜っと…。
被爆の真実は伝わっているのか?初めて見せました。
原爆が投下されてから70年。
御幸橋です。
生と死の境界で撮られた写真。
焼き付けられていたのは70年がたっても人々の記憶から消し去れない深い絶望でした。
なあ?起きてや起きてや。
なあ!?起きてや起きてや!なあ?起きてや起きてや!人間の尊厳を奪われながら亡くなっていった人たち。
生きたいという願いを断ち切られた子どもたち。
核兵器そして戦争が何をもたらすのか。
きのこ雲の下の写真は今私たちに問いかけています。
2015/08/09(日) 02:45〜03:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」[字][再]

広島に原爆が投下された直後の人々の惨状を捉えた写真が世界で2枚だけ残されている。NHKは居合わせた被爆者の証言や最新映像技術をもとに今回初めて写真の真実に迫った

詳細情報
番組内容
70年前、広島を壊滅させた原爆投下。巨大なきのこ雲の下の惨状を記録した写真が世界でたった2枚だけ残っている。投下3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影されたものだ。今年、NHKは居合わせた被爆者の証言、最新の映像技術や最新科学をもとに、50人あまりが写る写真の真実に迫った。原爆特有のやけどを負っていた皮膚や今にも亡くなろうとしている人々…。そこはまさに「生と死の境界線」だった
出演者
【語り】伊東敏恵

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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