「第47回思い出のメロディー」をお伝えしました沖縄。
45メートルの海の底に70年前の記憶が眠っています。
太平洋戦争末期日本軍の攻撃を受けて沈んだアメリカ軍の駆逐艦です。
傍らに転がるのは駆逐艦を沈めたとされる航空機のエンジン。
この航空機がとった戦法それが体当たり攻撃特攻でした。
搭乗員の死を前提とする特攻。
戦争の終盤日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。
戦死者は4,500人余り。
その大半が二十歳前後の若者でした。
昭和19年10月に始まった特攻は終戦までの間に急激に拡大していきます。
絶望的な戦況の中日本にアメリカ軍を迎え撃つ本土決戦も作戦の中心は特攻でした。
戦闘機に限らずさまざまな兵器が特攻につぎ込まれます。
今回新たに見つかった機密資料。
特攻作戦の立案に関わった参謀が記したものです。
明らかになったのは特攻によって加える一撃を終戦に向けての政治工作に利用しようとする軍首脳の思惑でした。
生きて帰る事を望んではならなかった若者たち。
常軌を逸した作戦になぜ歯止めがかからなかったのか。
特攻作戦の拡大の軌跡をたどります。
今から70年前。
出撃を控えた特攻隊員の遺言がラジオから流れていました。
特攻が初めて行われたのが日本から遠く離れたフィリピンでした。
海軍の航空隊が編成した最初の特攻隊の映像です。
その後日本軍全体を巻き込む事になる特攻は僅か13名の作戦として始まりました。
特攻隊が編成された10月20日。
アメリカ軍がフィリピンレイテ島に上陸を開始。
20万の大軍が押し寄せました。
太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは南方の資源地帯と日本をつなぐ最後の重要拠点でした。
しかし主要な航空戦力を失っていた海軍には強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。
状況を打破するため立案されたのが爆弾を抱えての体当たり攻撃特攻。
その戦果は予想をはるかに超えたものとなります。
6機の零戦が空母5隻に命中しうち1隻を撃沈。
隊員たちの命と引き換えに上げた大戦果でした。
この結果を受け現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。
フィリピンの基地からは連日多くの隊員が出撃していくようになります。
拡大していく特攻の最前線に立たされた若者たち。
角田和男さんは二十歳前後の若い特攻隊員6人を敵艦隊の上空まで護衛するよう命じられます。
午後4時。
護衛に当たる角田さんの目の前で隊員たちは一機また一機と敵艦に突入していきました。
その夜角田さんは出撃を控えた別の特攻隊員の宿舎を訪ねました。
特攻隊の活躍は長引く戦争に疲れ果てた日本国民に熱狂的に迎えられました。
海軍の特攻隊の戦果に大きな衝撃を受けたのが陸軍でした。
海軍による最初の体当たり攻撃から10日後。
陸軍は78機の特攻隊を編成します。
陸軍の航空参謀田中耕二中佐は当時の陸軍内部の空気を後にこう語っています。
陸海軍の首脳は特攻の戦果を天皇に上奏しました。
戦意高揚のため特攻隊員の肉声がラジオから次々と流されました。
若者たちが命と引き換えに上げた戦果。
フィリピン戦全体で陸海軍は500機以上の特攻機を出撃させました。
その戦果について日本側は232隻の艦艇を撃沈または撃破としていました。
ところがアメリカ側の記録を見ると特攻機による損害は58隻にとどまっています。
特攻が拡大していく一因となった戦果報告。
なぜ日本側の数字は膨れ上がったのか。
フィリピンでの特攻作戦に参加した木下顕吾さん91歳。
いいですか?今子どもが案内しますので。
木下さんは当時上官に対し偽りとも言える戦果報告をした事があるといいます。
(取材者)皆さん特攻隊の?
(木下)はい。
みんな特攻隊で亡くなったんです。
これだけ一緒に並んでおってね…その戦果報告とは少年飛行兵学校の同期生村岡義人さんが出撃した時のものでした。
2人は共に靖国隊と呼ばれる特攻隊に所属していました。
悠久の大義に生きる靖国隊。
神にして人ならず。
忠烈万世を貫く神々の出陣である。
出撃から2時間。
木下さんの目の前で村岡さんが急降下を始めます。
程なく暗がりの海面に赤い火の玉が見えたものの何に突っ込んだのかは確認できませんでした。
木下さんは敵艦船を発見できないまま基地に戻り上官にこう報告します。
「村岡は敵輸送船らしきものに激突」。
特攻隊の戦果は軍の上層部によって誇張される事もありました。
村岡さん戦死の3日後に出撃した八紘隊。
出撃機数は10機。
「敵艦船2隻に命中」という報告に対し参謀は「10機で10艦を撃破」と記録しています。
特攻隊の戦果が過大に膨らむのには理由があると語る陸軍航空隊の元将校生田惇さん。
死を前提とした特攻を部下に命ずる事への自責の念が働いているといいます。
実態とはかけ離れて伝えられていく特攻の戦果。
一方フィリピンの日本軍は壊滅状態に陥っていきます。
アメリカ軍の日本本土への侵攻が確実な状況になりました。
軍や政府首脳の間では戦争遂行はもはや不可能という空気が広がり始めます。
講和の道をとるのかそれとも戦争継続か。
アメリカ軍が沖縄に迫っていました。
ここで日本はあくまで戦争継続を選びます。
昭和20年3月1日。
陸海軍は合同で沖縄戦に向け作戦方針をまとめ上げました。
その中心に据えられたのは特攻。
日本は国の命運を特攻に懸けるしかなくなっていました。
陸海軍の総力を挙げた特攻で戦い抜くとされた沖縄戦。
作戦の立案を行う事になる陸軍作戦部長宮崎周一はそのねらいについて後にこう語っています。
特攻によって敵に手痛い一撃を与える。
そうすればより有利な条件で戦争を終わらせる事ができる。
いわゆる一撃講和という考えです。
近代日本の政治史を研究する古川隆久さんは一撃講和が持ち出された背景には軍事や外交と異なる別の思惑があったと指摘しています。
一撃講和の方針は徹底抗戦を主張して譲らないいわゆる主戦派への配慮とも絡み支持を広げていきます。
当時陸軍の中堅将校の間には和平は弱腰であるとして強く反発する動きがありました。
海軍で和平への模索を始めていた高木惣吉少将。
海軍内部の主戦派を恐れる空気を語っています。
主戦派の矛先をかわす上でも有効と考えられた一撃講和を天皇も支持していました。
昭和20年2月14日。
元首相の近衛文麿が宮中に参内し自らの考えを述べた時の事です。
最悪なる事態は遺憾ながらもはや必至と存じます。
一日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきものと確信致します。
それに対して天皇はこう答えたといいます。
もう一度戦果を上げてからでないとなかなか話は難しいと思う。
アメリカ軍の日本本土への空襲は激しさを増していきました。
焦土が広がる中軍上層部は特攻による沖縄での一撃に期待をつなぎます。
多くの若者の死を前提とした史上類を見ない戦いが始まろうとしていました。
全軍特攻です。
昭和20年4月アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始。
1,500隻の大艦隊と50万の大軍が押し寄せ激しい地上戦が始まります。
沖縄を取り囲む大艦隊を目がけ九州や台湾の基地から特攻隊が次々と出撃していきました。
しかし隊員の多くは実戦での経験が全くなく訓練も不十分でした。
沖縄戦直前海軍が全搭乗員の訓練状況を記録した資料です。
経験豊富なAランクから戦闘に参加できる技量にないDランクまで4つに分けられています。
Dランクが全体の4割以上を占めていました。
しかもこの基準は搭乗員の技量低下を取り繕うため前の年に改定されたものでした。
元の基準に照らせば9割近くが実戦に出してはならない技量にあったのです。
東京で沖縄特攻作戦を推し進める宮崎。
戦後20年を経た頃作戦部長としての当時の心境を明かしています。
陸海軍が総力を挙げ初めて共同で行った特攻作戦。
最初の1週間だけでフィリピン戦全体に匹敵する500機以上の特攻機が出撃していきました。
陸軍作戦部長の宮崎は戦いに臨むにあたり詳細な日誌をつけています。
「苦闘準備」。
沖縄戦には日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。
ボートの先端に爆弾を取り付け敵艦に体当たりする特攻艇震洋。
船体はベニヤ板。
敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。
1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた桜花。
搭乗員は桜花と共に攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。
しかし桜花搭乗員の多くは敵艦隊の上空にすらたどりつけず撃ち落とされていきました。
桜花の重みで身動きがとれない攻撃機はアメリカ軍にとって格好の標的でした。
かわいそうに。
日本にとってより有利な講和に結び付く一撃を期待され送り出されていく特攻隊員たち。
「沖縄周辺に対する特攻の戦果に関し吉報あり。
相当の戦果ありしは確実なり」。
「天に謝し若人に謝す」。
アメリカ軍はレーダーや対空砲火の精度を上げ次々と特攻機を撃墜していきます。
沖縄戦終盤。
日本軍は本来戦力とはなりえないものまで特攻兵器に仕立てます。
入隊したての練習生を指導する練習航空隊の教員だった原田文了さん。
原田さんの部隊に下された命令は練習機による特攻でした。
訓練に使われる布張りの複葉機。
これで体当たりしろというのです。
機銃も持たず速度もアメリカ軍戦闘機の僅か3/3。
爆弾を積めば飛ぶのがやっとでした。
アメリカ軍の待ち受ける沖縄に向け次々と出撃していく練習機。
しかし機体が爆弾の重みに耐えきれず途中の島に不時着する事態が相次ぎます。
「特攻精神に欠ける」として過酷な措置がとられる部隊もあったといいます。
そんでわしはもう余計にかわいそうだった。
そんな…分かっとんでそんなもんな。
「お前は死ね」って言うのと一緒やもん。
沖縄戦が終わるまでに特攻作戦に送り出された練習機は120機以上。
戦果を上げる事はほとんどありませんでした。
陸軍作戦部長の宮崎周一。
戦況悪化の中愛読書の「忠臣蔵」の一節を引用しています。
5月31日。
沖縄守備軍が司令部を置いていた首里がアメリカ軍の手に落ちます。
総力を挙げて臨んだ沖縄特攻作戦は一撃講和につながる事なく終わります。
アメリカ軍の本土上陸が現実味を帯びる中国の行く末を大きく左右する会議が開かれます。
天皇臨席の御前会議。
集まったのは陸海軍の首脳と政府の要人たち。
この会議で本土決戦への流れを決定づけたのが海軍の最高責任者豊田副武です。
特攻による一撃はなおも可能だとする発言でした。
「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは水際到達前に撃破しうるの算ありと信ず」。
しかしこの発言は豊田の手元の海軍が準備した原稿とは大きく異なるものでした。
「おおむね6〜7割程度の敵軍には遺憾ながら上陸を許す」。
沖縄で戦力のほとんどを失った海軍は本土決戦は極めて困難だという見通しを持っていたのです。
なぜ豊田は原稿の内容を覆したのか。
この会議では本土決戦を声高に主張する主戦派が場の空気を支配していました。
「特攻は敵に痛烈なる打撃を与えている」。
和平論者と見られていた人物も強硬論に同調します。
後に豊田は海軍の悲観的な見通しを公にできなかった心中をこう語っています。
海軍の最高責任者である豊田の発言は終戦への道筋を模索していた早期和平派を失望させるものでした。
御前会議は本土決戦をあくまで戦い抜くという決議で幕を閉じました。
かつてない巨大特攻作戦が動き出しました。
搭乗員を訓練する練習航空隊の参謀を務めた磯部利彦さん。
本土決戦に向けある命令を受けます。
それはあの練習機を使った特攻隊の編成。
全国の基地に残っていた練習機2,300機をかき集めろというものでした。
敬礼!沖縄戦でほとんど戦果を上げなかった練習機がなぜ大量に本土決戦に投入される事になったのか。
今回その背景を語る海軍の極秘文書が見つかりました。
作戦参謀が本土決戦に必要な戦力を割り出し分析したものです。
左のグラフが表しているのは1,500隻の輸送船から成るアメリカ軍の上陸部隊。
軍は御前会議での豊田の発言に沿うようその半数を撃滅するのに必要な航空戦力を積み上げました。
その数合わせのために持ち出されたのが練習機の大量投入。
この期に及んでも特攻の拡大に歯止めをかける者はいませんでした。
7月4日。
陸海軍は合同でアメリカ軍が九州南部に迫ると想定し図上演習を行います。
その結果上陸前に撃滅できる敵戦力は34%にとどまりました。
しかし軍はこう結論づけました。
「各種の要素が我に有利なる場合は戦果50%に達する事もありうるであろう」。
終戦の決断が下されないまま国は焦土と化していきました。
特攻作戦への準備は8月に入ってもなお続けられました。
終戦によって史上最大規模の特攻作戦は発動される事なく終わります。
磯部利彦さんは自ら編成した練習機の特攻隊を送り出さずに済んだ事に安堵の念を抱いたと言います。
しかしあの時若者たちを死に送り出す準備に自分を駆り立てたものは一体何だったのか。
(取材者)その当時そういう事を考えなかったっていうのはどうしてですか?フィリピンに始まり日本軍全体を巻き込んだ特攻作戦によって4,500人を超える搭乗員が戦死しました。
狂気という言葉でしばしば語られてきた特攻。
その拡大を推し進めたのは与えられた職務を忠実に果たし場の空気を重んじる組織人たちでした。
終戦まで陸軍作戦部長を務めた宮崎周一。
自らの職務について語った言葉が残されています。
出撃を前に家族に宛てた別れの言葉をレコード盤に吹き込んだ特攻隊員がいます。
人間魚雷回天の搭乗員塚本太郎さん。
21歳の若者が後の世に残した最後の言葉です。
2015/08/08(土) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「特攻〜なぜ拡大したのか〜」[字]
爆弾を抱え航空機ごと体当たり攻撃する「特攻」。太平洋戦争末期、搭乗員の死を前提にした他に類を見ない作戦はなぜ拡大し続けたのか。軍の機密資料と証言をもとに探る。
詳細情報
番組内容
爆弾を抱え航空機ごと空母などの標的に体当たり攻撃する「特攻」。昭和19年10月フィリピン戦で陸海軍が始めた特攻作戦は終戦まで加速度的に拡大する。魚雷を改造した水中特攻兵器やボートに爆弾を積んだ特攻舟艇など特攻専用の兵器も次々開発され4500人を超える戦死者を出した。その多くは20歳前後の若者だった。搭乗員の死を前提にした他に類を見ない作戦はなぜ拡大していったのか。軍の機密資料と証言をもとに探る。
出演者
【語り】浜田学,広瀬修子
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ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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