【萬物相】ひざまずいて謝罪した鳩山元首相

【萬物相】ひざまずいて謝罪した鳩山元首相

 天皇の降伏宣言が数時間後に迫った1945年8月15日午前、朝鮮総督府のナンバー2にあたる遠藤柳作政務総監は、朝鮮人指導者の呂運亨(ノ・ウンヒョン)と会った。日本敗北後、日本人の生命・財産の保護のため、治安維持を頼もうとしたのだった。この時、呂運亨は条件を出した。「監獄に閉じ込められている政治犯・思想犯を釈放せよ」。翌日、西大門刑務所から、囚人服を着た民族志士らが飛び出してきた。彼らは、出迎えにきた市民と抱き合って一体となり、鍾路を駆け回った。解放の喜びは、まず西大門刑務所からやって来た。韓国人にとっては、それほどに深い恨(ハン。晴らせない無念の思い)がある場所なのだ。

 600年前に朝鮮王朝が漢陽を首都に定めたとき、後に西大門刑務所ができる場所を見下ろして、無学大師がこう言ったという。「よい地といえばよい地だが、やもめ3000人が嘆息する地だ」。西大門刑務所は1908年に建てられた。乙巳勒約(いつしろくやく、第2次日韓協約)と軍隊の解散で火が付いた義兵運動を弾圧しようとして日本が作った、最初の近代式刑務所だった。イ・ガンニョン、ホ・ウィ、李麟栄(イ・インヨン)といった義兵将57人がここで命を落とした。

 植民地時代に入ってからは、斉藤実朝鮮総督を狙撃した姜宇奎(カン・ウギュ)をはじめ、金九(キム・グ)、金東三(キム・ドンサム)、安昌浩(アン・チャンホ)、韓竜雲(ハン・ヨンウン)、孫秉熙(ソン・ビョンヒ)、梁起鐸(ヤン・ギタク)、李昇薫(イ・スンフン)といった民族志士が辛酸をなめた。「105人事件」で15年の刑を言い渡された金九は、このとき手錠をはめられてできた傷跡が生涯消えなかった。金九が、民と共に居たいと願って号を「白凡」にしたのもここだった。

 17歳の少女、柳寬順(リュ・グァンスン)は、三・一万歳事件を主導した後、西大門刑務所で命を落とした。柳寬順は獄中で朝晩「万歳」を熱唱し、死ぬほど殴られた。砂混じりの食事で栄養失調になった上、ひどい拷問まで受け、ついに命を落とした。おととい、日本の鳩山元首相が旧西大門刑務所を訪れ、殉国先烈追慕碑の前でひざまずいた。「ここに収容され、拷問を受けて命を落とした方々に、心から謝罪します」と言った。強い日差しの下、正装して黒いネクタイをつけたまま、靴まで脱いでひざまずいた姿が印象的だった。

 いかに政界の主流から外れた「前職」とはいえ、日本国内で自分に降り注ぐ非難のことを考えたら、こうするのは容易ではなかっただろう。ドイツのブラント首相は1970年、ワルシャワ蜂起で犠牲になったユダヤ人の追悼碑の前で、雨水がたまったコンクリートの地面にひざまずき、ドイツの戦争犯罪を謝罪した。「ひざまずいたのは1人だったが、立ち上がったのはドイツ全体」という賛辞が降り注いだ。鳩山元首相の謝罪は、日本国内の良識ある人々の心を伝えるものだと信じたい。70年になるのにこれができない安倍政権や、常識に欠ける日本の極端な勢力が、ひたすらもどかしい。

金泰翼(キム・テイク)論説委員
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