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 70回目の終戦の日を迎えるにあたって、安倍晋三首相が14日、談話を発表した。かつて日本はアジア太平洋で無数の命を奪い、310万人の国民が犠牲になった。あの戦争はいったい何だったのか。人生を翻弄(ほんろう)された人々は、不戦への誓いを新たにした。

 埼玉県三郷市の藤原重人さん(90)は14日夜、談話を発表する安倍首相をテレビで見つめた。

 19歳で徴兵された藤原さんは陸軍の2等兵として、中国・江西省に送られた。日中戦争で、日本は最大約100万人の兵力を中国に送り出した。藤原さんは、第27師団支那駐屯歩兵第3連隊の分隊約15人の一人。弾薬など40キロほどの荷物を背負うと、指示に従ってひたすら歩いた。

 軍の制圧下にある集落では、手持ちの塩を渡せば米や野菜と交換してもらえた。それが、数日たつと村に近づくだけで住民が逃げ出すようになった。

 着剣し、数人で民家に入る。かまどや寝台などを手分けして食糧を探す。初めは半分以上を残しておいたが、それも「良心があるうちだ」。手当たり次第持ち去るようになった。質素な家の外では、老人や子どもが「シーサン(先生)」と両手を合わせ、命乞いをする。ふるさとの山梨県の弟や妹の顔が思い浮かんだ。しかし「奪わなければ生きていけなかった」。

 人も奪った。畑や道ばたに丈夫そうな男性を見つけると、気づかれないように複数で取り囲んだ。暴れる相手を後ろ手に縛り上げ、数珠つなぎで引き連れた。「モモタロー」「ライオン」などと名をつけて日本兵1人に2人をあてがい、てんびん棒で弾薬などを運ばせる。「同じように、自分のおやじが突然連れ去られたら」。その気持ちを口にはしなかった。いま振り返れば、奴隷同然に扱ったと感じる。しかし当時、「天皇陛下の命令」は絶対服従。それが軍隊だった。

 戦後70年。果たして自分の行為は何だったのか。「しんりゃく……」と言ったきり、藤原さんは黙り込んだ。そして言った。「武力で、食べ物も財産も何もかも奪う。それが侵略だとしたら、日本がしたことはその通りではないでしょうか」

 毎夏、24時間の断食をしている。日本への引き揚げ途中でマラリアに倒れた際、連行した中国人に介抱された。「常軌を逸した戦場。命あることへの感謝。それを伝え続けなければいけない」。9月、都内の集会で体験を語る。(清水大輔)