1933年1月のヒトラー政権誕生後、わずか「半年」の間に、ヴァイマル共和国の議会制民主主義は、ナチ党の一党独裁体制に取って代わられた。しかも「合法性」の装いを維持しながら……いったいなぜそんなことが可能になったのか? 鍵を握るのは、ヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかった「全権委任法」である (*石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』より「第四章 ナチ体制の確立」を特別公開)
3 授権法の成立
授権法
ヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかったもの、それは授権法だった。
授権法は、「全権委任法」とも呼ばれる。それは、この法によって立法権が政府に託されるからである。首相は国会審議を経ずにすべての法律(予算案を含む)を制定できるようになる。近代国家を特徴づける権力分立の原則が壊され、行政府の長=首相への権力集中がなされる。しかも政府には「憲法に反する」法律を制定する権限までも与えられ、憲法を改正したり、新憲法を制定したりする必要もなくなるのだ。
聞いただけで恐ろしい法律だが、新政権が発足した直後に、なぜそんな法律が成立したのだろうか。
すでに述べたように、歴代の少数派内閣を支えてきたのは、大統領緊急令だった。だがヒトラーの前の政権、とくにパーペン政権時代にあまりに頻繁に出されたため、大統領緊急命令権の濫用、つまり憲法違反の疑義が発せられるようになった。
ヒンデンブルクは、たとえ表面的でも合法性にこだわる人物だった。そのため、この問題で神経質になり、大統領緊急令による統治をいつまでも続けるわけにはいかないと考えるようになっていた。そこで浮上したのが授権法だったのである。
授権法により、国会の立法権を政府に付与し、強い政府を作ればよい、とヒンデンブルクは考えた。国会は有名無実となるが、ヒンデンブルクはかねてより議会政治からの決別を望んでいた。実は、授権法はこれまでにも何度か(立法範囲と有効期間を限って)ヴァイマル共和国期に制定されており、憲法改正と同様、国会の三分の二の賛成が得られれば成立していた。国会に基盤のない政権にこれを望むことはできないが、ヒトラー首相の下では不可能ではない。
副首相のパーペン、連立与党国家人民党の党首フーゲンベルクも、自分たちが思い描く強力な「新国家」の実現に向けて、必要な政策を容易に実行できる授権法の制定に期待を寄せていた。これが保守派の権力基盤を掘り崩すヒトラーの道具になろうとは、彼らはナイーヴにも気づいていなかったのだ。
保守派の閣僚たちが授権法の制定に傾いたことは、ヒトラーにとって千載一遇のチャンスだった。授権法によって議会政治の幕引きができるうえに、国会に責任を負うことも、大統領に依存することもない強力な安定政権が手に入るのだ。