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イデオロギーの復権

 近年アカデミズムでもネット論壇でも、「実証に基づく議論」が主流になっており、旧来のような価値や「イデオロギー」に基づく議論はすっかり影を潜めている。1980年代や1990年代には哲学者や社会学者の社会批評が隆盛したが、現在は実証性に乏しいとしてかつてほどの読者を獲得できなくなっている。では実証に基づく社会分析や政策論が増えたことで、議論の質が向上しているのかと言うと、必ずしもそうとは言えない現状がある。むしろ、意見の異なる者同士の論争がますます成立しなくなっているという、より深刻な事態をもたらしているように見える。

 「イデオロギー」の時代は、議論の質はともかくとして、少なくとも対立や闘争という形の「対話」が最低限成立していた。昔の保守派は批判するためにもマルクス主義の文献や左翼知識人の論文に目を通していたし、全共闘の学生はつるし上げの対象である大学教師の本をよく読んでいた。佐高信と西部邁が対談本を何冊も出しているように、「イデオロギーの時代」を生きた世代の知識人には、意見が異なるからこそ対話が必要だという感覚はまだ残っている。

 しかし最近流行の「実証に基づく議論」は、そういうレベルの対話すら起こらない。自分と意見の異なる人間が、価値やイデオロギーが異なるのではなく、「事実」「データ」を知らない、あるいは知っていても理解できない人間として位置づけられているからである。それゆえに、偏った「事実」「データ」とその解釈を共有する仲間内の共感や、「こうした事実をなぜ他の人たちは無視しているのか」という少数派意識のルサンチマンが蔓延する結果になっている。ネット上のジャーゴンでは、批判者を「デンパ」「トンデモ」呼ばわりすることが横行している。

 こうした議論の最たる存在が「在特会」であろう。在特会の指導者や関係者が出版している本には、実のところ彼らが街頭で呼号しているような扇動的な差別表現はほとんどなく、むしろ一見したところ「事実」が淡々と記されているかのような記述が続く。そして、そうした「事実」が「国民に知らされていない」ことへの「義憤」を表現する、という体裁を取っている。

 かつての『嫌韓流』も、韓国の(かなり戯画化された)民族主義者を「実証的に論破する」という体裁をとるものであった。ヘイトスピーチの根っ子が素朴な差別感情に過ぎないのであれば、「差別はよくない」とストレート言い返すことも可能である。しかし彼らが厄介なのは、「なぜ『事実』『真実』を見ようとしないのか」と迫ってくることにある。差別扇動をやめろと訴えても、なぜお前たちは「真実」を見ようとしないのか、はやく目を覚ませ、とまくし立てられてしまう。

 在特会は極端だが、脱原発問題や経済・財政などの問題でも、その内容の当否はともかくとして、「真実」「事実」を直視したがらないという批判で、意見の異なる者の議論をそもそも聞こうとも読もうともしない、という態度が広く蔓延している。在特会がアカデミズムにおける在日研究を一行も参照しないまま在日をバッシングしているように、消費増税を財務省陰謀論で攻撃的に批判する経済学者の文章には、財政学や社会保障論で蓄積されてきた実証研究は全く登場しない。

 そもそも消費増税の問題などは、財政健全化に関心を持つ者、社会保障財政の強化と充実を目指す者、景気に対する悪影響を懸念する者という、それぞれの問題関心を抱えた者同士が徹底的に議論し合い、妥協・調整すべき問題である。それにも関わらず、そうした論争の場はほとんど成立しないため、結局一部の専門家の主導とその時々の政治の力関係で政策が決まり、大多数の人にとって疎外感と不満感が残り、政治不信を醸成するという結果になっている。

 本来「事実」は意見の異なる者同士が対話するための、共有財になり得るはずのものであり、またなるべきものである。しかし現在、むしろ「実証的な議論」への強い志向性それ自体が、論争の成立を妨げて一方通行の(しかし「なぜ理解されないのか」というルサンチマンばかりは強い)議論を大量に生み出している。

 断わるまでもないが、実証的な議論の重要性は、強調してもし過ぎることはない。問題は、本来価値やイデオロギーの水準で議論すべきことまで、無理に「実証的に論破」しようとしている傾向が強まっていることにある。例えば「従軍慰安婦の強制連行」問題がそうだが、本来これは戦争責任や女性の人権、ナショナル・ヒストリーなどはどうあるべきか、という次元で争うべき問題のはずである。それが、瑣末な実証の水準で相手を「論破」しさえすれば、相手の価値やイデオロギーまで覆すことができるという、倒錯した論理が横行している。

 消費増税の問題もそうである。景気後退のリスクを背負ってでも社会保障制度を支えるのか、それとも社会保障費の削減を甘受してでも目の前の景気を優先するのか、そもそも社会保障制度にとって消費税は公平な税制なのかどうか、といった「価値」の問題については全く議論がなされないまま、「消費増税と景気の関係」というレベルの問題ばかりに関心が集中している。そのため、「自分は実証的に確かなことを言っているのに理解できない人がいる」という、批判者の知性を劣等視するような愚痴っぽい議論ばかりが目に付く。実際、現在の「アベノミクスの是非」を争点とした今回の選挙では、こうした類の議論が広く蔓延し、健全な政策論争などほとんど期待できない結果になっている。

 価値やイデオロギーは人を狂信的にする危うさを孕んでいないわけではないが、自らの主義主張を言語化し、その偏りや特殊性への反省を可能にするための役割を果たすこともあることも確かである。政策を語るに当たって実証性が重要であることは言うまでもないが、それと同時に、価値やイデオロギーをどう政治的に組織化していくかも、これからの課題とならなければならないと考える。

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