番組概要
戦争終結から70年…我々は何を教訓として、どう生かすべきなのか!?番組は三部構成で「いま、言い伝えるべき」戦争体験者の貴重な証言を縦軸に、明日への教訓を紡ぎ出す
2015年8月14日(金) 19:00 〜 20:54
戦争終結から70年…我々は何を教訓として、どう生かすべきなのか!?番組は三部構成で「いま、言い伝えるべき」戦争体験者の貴重な証言を縦軸に、明日への教訓を紡ぎ出す
◇番組内容1「アクタン・ゼロの真実」…1943年、米軍はそれまで手こずっていた日本のゼロ戦を次々と打ち負かし、戦況は一気に日本に不利な状況に陥っていく。なぜ、突然「無敵のゼロ」は敗れたのか…それは1年前、日本から4千キロ以上離れたアリューシャン列島の小さな島で起きたある出来事がきっかけだった。その真相を、ご存命の日米関係者の証言や海外現地取材などで追う。
◇番組内容22「戦争と笑い」…国策の名のもとに、笑いが抑圧された時代があった。戦地兵士の士気を上げるため派遣されたお笑い芸人たち。その名も「わらわし隊」。更に政府・軍部の意向をふまえた「国策漫才」も作られる。しかし芸人たちが海を渡り、命がけで届けた「笑い」は、死と隣り合わせで戦う兵士たちに、束の間の「生」を与えていた。戦局とともに悪化していく“笑いの年代記"を、貴重な音源や発掘映像・関係者への独自取材で追跡。
◇番組内容33「還ってきた“軍神"」…太平洋戦争末期、約4000人の若者が命を散らした特攻攻撃。そんななか、9回出撃を命じられたものの、9回とも生還した特攻隊員がいた。上官からの度重なる死への強要をはねつけ、「俺は絶対死なない」と壮絶な覚悟で生き抜いた伍長。その陰には、出撃直前に非業の死を遂げた隊長との深い絆があった。戦後70年、今、本人の口から初めて明かされる“特攻隊の真実"とは!?
◇出演者【ナビゲーター】渡辺宜嗣
◇おしらせ☆『スーパーJチャンネルSP 終戦70年特別企画』番組HP
http://www.tv-asahi.co.jp/sengo70/
太平洋戦争終結から70年…あの時、日本人に何が起きたのか?どんな困難に直面し、何を失い、そしていかにして日常の暮らしを取り戻したのか?終戦時に成人の方々も90歳。証言をうかがうには最後とも言うべき時節に差し掛かった。戦争による“傷”と再生の体験談…それは日本の未来を考えるうえで、貴重な財産である。あの戦争とは何だったのか。
何を教訓として引き出し、学び、そしてどう生かしていくのか…安保法制・憲法改正問題など、戦後70年の道のりが大きな転換期を迎えている今だからこそ、様々な立場の戦争体験者の言葉に耳を傾けて、日本の針路の選択に反映していく必要があるのではないだろうか。そこで番組は「軍関係者」など直接戦闘に関わった人々と、間接的に戦争の被害を被った「市井の人々」を多層的に取材。後世の日本人に「いま、伝えるべき」貴重な証言を縦軸に、戦争の悲劇と明日への教訓を紡ぎだす。
○「無敵のゼロ」は何故敗れたのか〜“アクタン・ゼロ”の真実
1943年、南鳥島を空襲した米軍は、新型戦闘機を投入し、それまで手こずっていた日本のゼロ戦を次々と打ち負かしていった。なぜ、突然「無敵のゼロ」は敗れたのか。
実は、米軍は「ゼロ戦の秘密」を知り尽くしていた。それは空襲の1年前となる1942年、日本から4000キロ以上離れた小島・アクタン島で起きたある出来事がきっかけだった。小さな島で何が起きたのか?
存命の元ゼロ戦パイロット、ゼロ戦と対峙した元米軍機パイロットや元整備士など関係者の証言、さらにアリューシャン列島・アクタン島を取材し、ゼロ戦が敗れた秘密を明らかにする。
○その時、“笑い”が消えた…“市井の人”たちの証言
かつて「国策」の名のもとに、笑いが抑圧された時代があった。戦地兵士の士気を上げるために派遣された柳家金語楼、横山エンタツ・花菱アチャコ、ミスワカナ…。彼らは「わらわし隊」と呼ばれた。
さらに政府・軍部の意向をふまえた「国策漫才」、「国策落語」が作られ、「笑い」がプロパガンダの役割を担わされ、純粋に「笑う」ことは許されなかった。
それでも芸人たちが海を渡り、命がけで届けた「笑い」は、故郷を離れ、死と隣り合わせで戦う兵士たちに、つかの間の「生」を与えていた。
当局の要請に従ったかのように見せつつ、「笑い」という武器で時代の空気にあらがった「わらいびと」たちの誇りと苦悩とは?そして、「笑い」さえも利用しなければならなかった「あの戦争」とは?
吉本興業や朝日新聞社の協力で入手した多数の映像、音源、資料、さらには朝日新聞記者として戦地で慰問団を取材、今年100歳を迎えたむのたけじ氏や戦地を慰問した芸人・内海桂子への取材などから「わらわし隊」を解き明かす。そして、「国策落語」、「国策漫才」の台本を基に若手芸人が再現する。
○生きて還った“軍神”〜知られざる陸軍特攻隊
太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を打開するため、海軍の神風特別攻撃隊に続き、陸軍でも航空機特別攻撃隊が編成された。陸軍最初の特攻隊は、茨城県鉾田教導飛行師団で結成された“万朶隊(ばんだたい)”。そこに選ばれた佐々木友次伍長は、派遣先のフィリピンで9回も出撃を命じられながら9回とも帰還。参謀長から「なぜ死なぬのか」と罵られ、2度も“戦死”扱いされながら、奇跡的に生きて終戦を迎えた。しかし、帰郷した彼を待ち受けていたのは「戸籍上の死者」という過酷な運命だった…。
現在92歳になる佐々木元伍長や当時を知る関係者の取材などから、「特攻隊」が直面した状況と戦争の苛烈さを検証する。