(新) 日本の黒い霧

日本航空123便ジャンボジェット機墜落事故の真相、その他の未解決事件、改竄された歴史について考える。

旧陸軍士官が語った歴史の真実(2) − 70回目の終戦記念日に向けて −

2015-08-15 14:51:52 | 日記
本日は平成27年8月15日、70回目の終戦記念日となりました。過去の世界大戦で亡くなられた全ての方々に哀悼の意を表したいと思います。

* * *

さて、戦争について考える日に相応しく、本タイトル「旧陸軍士官が語った歴史の真実(1)」、の続編を掲載したいと思います。前掲載から久しく時間が経過したので、同記事の要点を再掲します。

「二・二六事件の首謀者たる青年将校は全員処刑されてなどいなかった」

これは、旧陸軍士官T氏の証言ですが、彼らが処刑されなかった本当の理由を私は

「その後の計画戦争(太平洋戦争)に向かわせるための茶番劇」

と推論しました。そして、その茶番を画策したのが日米欧の軍産複合体、私が定義する秘密組織「クロカモ」、もしくはその前身だったのではないかという予想です。


■原爆投下写真の出自はどこか?

下記の写真は、歴史の教科書などであまりに見慣れてしまった、広島への原爆投下後に発生したキノコ雲の写真です。


写真1:広島における原爆投下後のキノコ雲

さて、この写真はいったい誰が撮影したのかみなさんお考えになったことがあるでしょうか?常識的に考えればエノラ・ゲイ号に随行した米国友軍機内の兵士と考えるのが一般的ですし、書籍・ネットでも、「米軍撮影」とキャプションが打ってあるものがほとんどです。これについて、T氏は再び驚くような証言をされます。

T氏「教科書によく掲載されている広島の原爆投下の写真ですが、あれは私が撮影したのですよ。戦後、進駐軍に接収されて米軍のものになってしまいましたが。」

日月土「どうやって撮影されたのですか?敵機が多かったと思いますが?」

T氏「キ○○式(正確な名称は失念しました)という偵察機からです。当時の日本軍機には珍しい機内与圧が可能な偵察機で、敵爆撃機よりも高い高度で航行が可能でした。敵機による新型爆弾の爆撃情報が事前に入ったので、状況を記録するため出撃したのです。私は、敵爆撃機の動きをその更に上空から観察していたのです」

T氏が搭乗していたという偵察機については、その後その存在を調べましたが、既存の年鑑などでは見つけ出すことができませんでした。ただし、ある旧軍機マニアの方から次のような回答を頂いてます。

「その型の存在を知ってるのですか!よほどの軍機マニアしか知らない情報ですよ」


■原爆を投下したのはエノラ・ゲイ号ではなかった

T氏と私の会話は更に続きます。

日月土「それでは、原爆を投下したのはB29、エノラ・ゲイ号だった・・」

T氏「それは違います。私が見た爆弾投下機はB29ではなかった。しかも、その投下機は爆風の回避行動に失敗して損傷を受け、しばらく飛行を続けていましたが、山口県の山中に墜落しました。私の乗った機は、その爆撃機の行動を上空からずっと追跡していたので、間違いありません」


写真2:エノラ・ゲイ号(左)とB29の全体写真


写真3:写真はボーイングB17、T氏が目撃した爆撃機とも異なるが、形状は
    こちらが近いとのこと。使用されたのは、おそらくB17の原爆投下用
    改造機材と考えられる。B29と見間違うはずがない。

何ということでしょうか、広島に原爆を投下したのはB29ではなかった。つまり、エノラ・ゲイ号ではなかったということ。世界中の戦史、歴史教科書に記されているだろう、悲惨な原爆の記述は、その投下機材の説明から嘘で始まっていることになります。

ただし、米国内プロパガンダの視点から考察すれば、原爆を投下したのが特殊なカスタム機材で、それが墜落・消滅してしまったため、量産型のB29を引っ張り出し、エノラ・ゲイ号としてヒーローに祭り上げ、戦意高揚に用いたという米国軍の意図はわからなくもありません。

しかし、理解できないのは、原爆投下機が国内に墜落しながら、その情報を一切表に出さない日本軍の不可解さです。原爆投下情報を日本軍が事前にキャッチしていたとの話は、戦史研究家の間でも有名な話なので、ここでは敢えて取り沙汰しませんが、国内プロパガンダ、または米国・世界に対してアピール力の高い原爆投下実機の存在を、何故今もって内外に隠すのか全く不明です。


ここからは推測になりますが、投下機墜落事実の隠蔽は「米国が原爆で日本をねじ伏せた」という日米合意の戦争シナリオに悪影響を与える危険があると判断されたからではないのか?もしかしたら、広島原爆投下の9日後にバタバタと終戦を迎えたのは、日本が原爆の威力に屈したからではなく、不都合な情報が拡散する前に、戦争をシナリオ通りに終結させるするためだったのかもしれません。何だか、その40年後に起きる未曾有の航空機惨事に似ていなくもありません。


 * * *


T氏は、その偵察任務からの帰還中に米国P51戦闘機隊に銃撃を受け負傷します。この会話の最後、今でも少し引きずる足の脛をさすりながら、その時の負傷跡がこれだと教えてくださいました。

T氏のお話はさらに戦後へと続きます。それはまた、GHQによる日本占領が予め決められた規定路線であったことを疑わせる内容となっています。


写真4:米国P51戦闘機


 身はいかに なるともいくさ とめにけり
 ただたふれいく 民を思ひて
           昭和20年 昭和天皇


※戦争当時、実権なき張子の最高統治者として祭り上げられた昭和天皇についても、いよいよ語るべき時が来たようです。クロカモ、三ツ巴の皆さん、必読です。


遠つ祖霊の始まりの地より
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