Soka Spirit

断簡17 錫杖の音

ふって湧いた御本尊模刻問題

山崎正友は、右手に反学会活動家僧という刀を握り、左手に〝法主〟という玉爾を握ることになった。山崎は創価学会に対して、ある時は、

「活動家僧侶がこれでは治(ママ)まらない」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

と言い、ある時は、

「これが猊下の御内意である」(同)

あるいは 「それは猊下の御意志ではない」(同)

などと、自在に刀と玉爾を使い分けた。山崎は僧の権威を利用して、信徒団体である創価学会に切り傷を入れ、そこに塩をもみ込み始める。

昭和五十三年六月頃、創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。山崎も一時は浜中和道に、

「学会のほうでは、あれは猊下が会長さんに、ハッキリ『いいよ』と許可を出したと言っているんだよね」(同)

などと言っていたが、そのうち、

「その御本尊問題を取り上げて、ガンガンやったほうがいいですよ」(同)

などと、反学会活動家僧らに言い始めた。

結局、この騒ぎを収めるため、九月二十七日、創価学会によって謹刻された八体のうち、七体の板御本尊が東京・国立の大宣寺に運ばれ、翌二十八日に大宣寺から大石寺奉安殿に納められた。

大石寺に運ばれた七体の板御本尊は以下のとおりである。

 「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある池田会長への賞与御本尊(細井日達管長書写)

 「大法興隆所願成就」の脇書のある関西本部常住の御本尊(水谷日昇管長書写)

 創価文化会館内・広宣会館の御本尊(細井管長書写

 創価学会会長室の御本尊(細井管長書写)

 創価学会ヨーロッパ本部の御本尊(細井管長書写)

 日蓮正宗アメリカ本部の御本尊(細井管長書写)

 池田会長のお守り御本尊(水谷管長書写)

これら七体の板御本尊が納められたにもかかわらず、その後、この本尊「模刻」問題は創価学会に暗い影を投げかける。創価学会による本尊「模刻」に疑念を持ち、脱会する者たちも多く出た。

昭和四十九年一月二日、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。一月十日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌十一日、総監・早瀬日慈より、

「御本尊に関することは、一応申し上げました」(記録文書より)

と返事が来た。

また、昭和四十九年九月二日、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部三階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第六十四世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。

翌三日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、

「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(同)

との返事があった。

細井管長は事前に許可していたのに……

また、反学会活動家僧らは、この御本尊を謹刻する際に、御本尊を写真に撮ったことを問題にしているが、それはこれまでも宗門でおこなわれていたことである。

たとえば、当時、日蓮正宗御用達の仏師であった赤澤朝陽では、堀米日淳管長の時代においては、保田妙本寺の万年救護本尊を写真に撮り、十体の板御本尊を謹刻した。また、細井管長の時代にも日向・定善寺の御本尊を写真に撮り、七体の板御本尊を謹刻している。

一般に紙幅の御本尊を板御本尊に謹刻する場合、紙をそのまま板に貼り付けて彫ると、紙の厚みのため、板に刻まれる文字が細くなる。そのため、板御本尊にする場合は、最初から薄い紙を使用している。近代においては写真に一度撮り、薄い印画紙に焼きつけたものを板の上に貼って彫刻するという方法が取られるようになっていたのである。また、広島県福山市の正教寺の場合、客殿安置の板御本尊が大きすぎたため、細井管長の指示により、一度でき上がった板御本尊を写真に撮り、縮小して彫り直した。

写真を使う以前は、薄い紙に臨書(見ながら模写すること)するか、「籠抜き」といって、御本尊の上に薄い紙をあてがって文字を写し取り、その薄紙を板の上に貼って彫刻する方法もあったという。

ともあれ、細井管長は創価学会がこれらの板御本尊を謹刻することについて、自ら許可していたことを忘失していたと思われる。しかし、それを忘れていた細井管長にしても、昭和五十年一月十日、庶務部長・藤本栄道に次のように話をしている。

「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない.正月登山の時に、会長から『板御本尊にしました』という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」(庶務部長・藤本が書き止めた「藤本メモ」より一部抜粋)

この「日昇上人御本尊」とは、創価学会本部三階に安置されていた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことである。

赤澤朝陽の社長であった赤澤猛は、細井管長から板御本尊謹刻について直接指示を受けた模様を、詳細な書面として残している。

「それは、この本部師弟会館の御本尊様の御謹刻の依頼を受けてとりかかったかどうかという頃ですから、昭和四十九年の十一月頃と思います。何かの仕事のことで、日達上人にお目通りしたときのことです。私は、仕事柄、猊下にはしばしばお目通りしておりますので、正確な日付は、ちょっとわかりません。日達上人は私と会うときは、ことが御本尊様の話になるときは、たとえ高僧でも他の人はさがらせますので、このときも大奥の対面所で二人きりの面談でした。

そのときの本来の用件が済んで、日達上人は立ち上がって部屋を出て行こうとされたのですが、思い出したように私のそばに来られて、『そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫っているんだよね』とおっしゃったのです。私が、『そうです。池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが、お聞きになっていませんか』と申し上げますと、『いや、池田会長から聞いているよ』と言われました。さらに日達上人は、『ほかのもやっているね』と言われましたので、私は、『はい、やっております』とお答えしました。日達上人は、『そうか。あと五、六体やらせてもらいたいと言っていたな』と言われて、部屋を出て行かれました。

この日のやり取りは以上ですが、これからわかるとおり、日達上人は、学会本部が師弟会館の御本尊やその他の御本尊を私のところで御謹刻していることは、すべて御承知でありましたし、今後さらに五、六体の御本尊を御謹刻することも御了解されていました」(「陳述書」より)

赤澤はすでにこの時、細井管長の決裁を受けた「賞与御本尊」の謹刻を終え、創価学会本部三階の師弟会館に安置された「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊の謹刻にあたっていたのだから、「あと五、六体」ということになれば、細井管長が創価学会に対し自ら裁可したと認識していた謹刻御本尊の数は、全部で七、八体であったことがわかる。

僧俗和合のため、反論しなかった創価学会

ところが昭和五十三年になると、細井管長は反学会活動家僧の雰囲気に押され始めた。昭和五十三年六月二十九日に全国教師指導会がおこなわれたが、この時、細井管長は以下のように発言する。

「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩をしないように」(『蓮華』昭和五十三年七月号)

この「知らなかった」という細井管長の言い分は、前記したように、昭和四十九年一月と九月の連絡会議で創価学会側からなされた板御本尊謹刻の申請を自ら事前に承諾したという事実に反する。また、板御本尊を彫った日蓮正宗御用達の仏師・赤澤朝陽社長であった赤澤猛の証言にも反する。

創価学会は僧俗和合の大義、そして当時の宗内を広く覆っていた「法主に反論することは謗法」といった宗教的禁忌観の故に、

「それらの板御本尊の謹刻については、細井管長の許可を得ていた」

とは言えなかった。細井管長が忘却したのか、意図的であったのかは別にして、許可したことを〝法主〟自らが明言しない状況では、創価学会側はそれが事実であったとしても、板御本尊の謹刻が管長によって事前に許可されたものだったと反論できなかったのである。

反論すれば僧俗の対立は決定的になるし、細井管長が事実に反してでも「許可していない」と言い張れば、当時の状況では創価学会からの脱会者はとどまることがなかっただろう。繰り返すが、当時の創価学会員の多くは、〝法主〟を「唯授一人血脈相承」の体現者と信じていた。また、宗門を外護する立場にある創価学会が、細井管長の権威を失墜させるわけにもいかなかった。

とはいえ、細井管長にしても、この本尊「模刻」問題がこれ以上深刻化し、創価学会側より事前承諾の経過が公表されれば、退座によって引責するしかなくなる。

そこで、事前承諾の有無には言及せず、細井管長が現状を追認する〝御指南〟を出すことにより、決着が図られることとなった。

「今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった」(昭和五十三年九月三日付『聖教新聞』)

しかし、こうした政治的決着が通用するような反学会活動家僧たちではなかった。

九月十四日、大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。

佐々木はこの会談の後、浜中和道に次のように電話をしている。

「一つだけ大事なことを教えてやるよ。原島が認めたぞ。『御本尊を何体、作った?』と聞いたら、ブルブル震え出して『八体です』って正直に答えたぞ。じゃ、詳しくはまたな」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

この佐々木からの電話を受け、浜中は山崎に電話を入れた。

「『今、佐々木さんから聞いたんだけど、学会は八体も御本尊を作っていたんだって。原島さんが認めたって言ってたよ。これじゃ、御前さんがなんと言っても大問題になるよ』

すると山崎氏は、含み笑いするような声で、

『知ってるよ。僕が原島にそう言えって言ったんだから。坊さんのほうから出た話じゃ、猊下も怒るかもしれないけど、原島がしゃべったんだったら、猊下も怒りようがないでしょう。これで安心して坊さんたちもガンガンと学会を攻めれるよ。野崎たちも泡くっていたけど、あとの祭りだよ。ハッ、ハッ、ハッ』

と、笑いながら話した」(同)

細井管長の政治的決着を、〝玉〟を握った山崎がひっくり返した瞬間である。八体の板御本尊の「模刻」という〝大事件〟は、反学会活動家僧の口から口を経て、たちまちのうちに全国に広がった。もはや〝政治的決着〟などで収まる状況ではなくなった。現状を追認する政治的決着では、細井管長が反学会活動家僧らから突き上げられ、批判の対象とされてしまう。創価学会側も〝実は事前承認だった〟と言えない立場である以上、燎原の火の如く広がるデマに反論する術はなかった。

事実に反する御本尊「模刻」

山崎はさらに〝もう一手〟を打ってきた。創価学会本部三階安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の七体を、創価学会側から本山に納めさせるという〝調停案〟である。

この〝調停案〟には、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲も一枚噛んでいた。先述したように、七体の板御本尊は大宣寺を経て、大石寺奉安殿に移された。これにより、七体の板御本尊を創価学会が勝手に「模刻」したかのような状況が作られてしまったのである。

しかし、事実はそれを覆している。

ここで、参考のため、「〝法主〟不許可で模刻」とされた八体の板御本尊について述べておく。

関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和五十年十月二十日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下十一名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌二十一日の『聖教新聞』に報じられている。

本部三階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和五十年十月二十三日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌二十四日付の『聖教新聞』に報じられている。

創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和五十年十一月十七日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長三十二回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。

昭和五十二年十一月九日には、学会創立四十七周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他六名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌十日付の『聖教新聞』で報じられた。

宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で報じられたものだけでも四体の板御本尊について入仏式をおこない、創価学会本部にある三体については、細井管長自らが礼拝していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された三体(うち二体は細井管長自身が拝んだ)を含めた七体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「三体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。

これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の四体の板御本尊もまた、報道された三体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この七体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった〝外護〟の行為であった。

創価学会側が細井管長の許可なく板御本尊に謹刻することなど、当時の信仰観からしてあり得ず、日蓮正宗御用達の仏師である赤澤朝陽が勝手に謹刻することもまたあり得ないことである。

細井管長自身が拝んだ三体の板御本尊のうち、本部三階の板御本尊については、「許可した覚えがない」と言いながらもそのまま安置を認め、「賞与御本尊」と広宣会館安置の二体の板御本尊については、大石寺に返納させた。この事実は〝法主〟が自らのメンツを守るために、事実過程を無視し、御本尊をご都合主義的に取り扱ったことを示している。

なお、細井管長は昭和五十年十月十二日に池田会長と話し合った際、

「謹刻した御本尊については、僧侶二、三人で拝むようにしてください。それで結構です」(記録文書より)

と述べていた。それらのことからして、創価学会が御本尊を勝手に「模刻」し、あたかも別の本尊を作り出したかのように言う反学会活動家僧らの主張は、まったく事実に反するものである。

山崎が細井管長を指南

だが、創価学会は僧俗和合のために、細井管長と山崎との間で作り上げられた「決着」のレールの上を走らざるを得なかった。不本意なことではあったが、創価学会には七体の板御本尊を大石寺に納めるしか、道は残されていなかったのである。それのみが反学会活動家僧らを鎮める方法であり、細井管長の〝権威〟を保つ手立てであった。

昭和五十三年十一月七日、池田会長以下創価学会員二千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下六百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」をすることになった。この時、創価学会を代表して「反省」の弁を辻武寿副会長が述べたが、本来なら「模刻」の問題は解決済みのことであり、細井管長も六月二十九日に、「つつくな」と言っていた。十月三日には、以下のような宗務院の「院達」も出されていた。

「①九月二十八日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。

 ②学会本部安置(三階)の板本尊は猊下の承認。

 ③よって、板本尊に関して論議無用」

しかし、細井管長は反学会活動家僧らから、この「お詫び登山」の際、本尊「模刻」の問題に関して、創価学会側に謝罪をさせてほしいとの強い要望を受けていた。このため、十一月七日に大石寺大客殿において辻副会長が読み上げる原稿には謝罪の言葉が盛られた。その原稿に細井管長は事前に目を通した。その原稿にあった「ご謹刻申し上げた御本尊」との文言に、細井管長は「不用意に」との一言を加筆し、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊」とした。創価学会側はただそれを呑むしかなかった。この文言は、大石寺大客殿において僧俗代表の前で発表され、翌日には『聖教新聞』にも掲載された。

しかし、これだけ誠意を尽くしても、反学会活動家僧たちはおさまらなかった。それどころかますます創価学会を侮り、攻撃を仕掛けてきた。細井管長もそれを止める様子すらなかった。

実はこれに先立ち、山崎は細井管長に対して、「現下の状勢(ママ)について」という文書を渡している。その文書には次のように書かれていた。

「情勢は、宗門側にとって極めて有利に、学会側にとってはことごとく作戦がはずれた形ですゝんでいます。 ・しかし、学会側がここに来て事態を正視し、思い切った転換を覚悟しつつ、それでもなお池田体制と、これまでの学会の地盤だけは保守しようとする決意を固めてきていますのでいよく重大な段階に差かゝります」(「現下の状勢について」より一部抜粋)

「・具体的には、十一月中に、総会、又はこれに近い臨時幹部会で、正式に会長の発言によって収拾する、という方針ですゝんでいます」(同)

「・学会側の根本的なねらいは、第一に、池田体制の実質的温存であり、第二に、組織防衛であり、そのためには何としても路線変更は最小限にくい止めなくてはなりません。従って、今回の学会の作戦の最大のねらいは、何といっても檀家作りという名の組織攻撃をくいとめることです」(同)

「会長の本心は口惜しさと復しゅう心で一杯であります」(同)

「学会側からは、会長を先頭にすさまじい和平工作が展開されると思われる。宗門側としては一貫して〝政治ではない。信仰である。学会の出方を見て決める。これが最後の機会である。これからの宗門をになうのは若手である。若手が納得する修正をしてもらいたい〟という態度をとりつづける〝要は、誠意が感じられるかどうかである〟との態度も重要である」(同)

「学会側がしかるべき姿勢を十一月に示した後(但し、会長退陣はまだ無理と思われる)は、宗門としても、一応和平に応じなくてはならない。但し、檀家作りは、止めない」(同)

山崎はこの文書の他にも、同日、「海外について」との文書を細井管長に渡している。そこには次のように書かれている。

「宗門に、『海外部』を設置すること。海外経験者の僧侶を集め、(現に海外寺院にいる人もふくむ)これを統括する意味で、菅野先生をキャップとして発足する。

これまで海外は〝別法人〟という名目で宗門は手が出せなかったが、宗務院にはっきりした機関を置き、海外の寺院僧侶を直轄させることによって、海外の諸問題を直接すい上げ、宗門として学会側及び現地法人に発言し対抗できることになる」(「海外について」より一部抜粋)

その目的は、創価学会の海外組織を根こそぎ宗門の直接支配下に置こうとするものであった。

福島源次郎の発言が火に油を注ぐ

十一月七日の「お詫び登山」以降も、反学会活動家僧の檀徒作りの動きは止まらなかった。いや、逆に以前よりもその勢いは増していった。僧俗一致のために妥協の産物として生み出された、辻副会長の「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」云々の「不用意に」の文言が、檀徒作りに弾みをつけたのである。

昭和五十四年に入ると、反学会活動家僧の創価学会組織切り崩しの動きは、ますます盛んになった。そうした折も折、創価学会副会長の福島源次郎が、福岡の大牟田会館でとんでもない発言をする。この当時、福島は妙な「師弟論」を振り回していたため、第一線からはずされていた。福島はその失地を挽回するため焦っていたのだ。福島は同会館においておおむね次のように話した。

「今回の一連の吊るし上げについては、僧侶が供養をフトコロにして、カツラをかぶってバーへ行って遊んだりしていることに、男子部員が義憤に駆られてやったことである」

「会長本仏ということは僧侶から起こった邪推である。会長が本山へ行ったりすると、〝先生、先生〟とみんなが慕っていくのに反して、猊下を誰もお慕いして近寄ろうとしない(猊下が通っても、どこのおじいさんだという感覚しかない)ところから、僧侶がやっかんで会長本仏などと邪推したのである」

「本山の宿坊は旅館等と同じで、宿泊費をとられるが、霧島研修道場は無料である。これは会長のポケットマネーでまかなわれているのである。会長先生の御恩にお応えしなければならない」

この発言内容は、この会合に地元の創価学会員として出席していた浜中の母親から浜中へ、浜中は反学会活動家僧の佐々木に電話。つづけて山崎に話をした。山崎が細井管長に連絡すると、翌朝、御仲居の光久諦顕から浜中に問い合わせがあった。福岡・大牟田の法恵寺住職・秋山慈泉の立ち会いのもと、浜中の母親ら四名から浜中、秋山が事情聴取をし、あらためて細井管長へ文書で報告された。宗門にも創価学会にも、大激震が走る。

四月二日におこなうべく創価学会より申し出のあった、戸田城聖第二代会長の追善供養の法要出席を細井管長が断った。日蓮正宗法華講連合会が、機関紙『大白法』の号外を四月三日付で出した。その報ずるところによれば、同会緊急理事会では、池田会長が務めていた日蓮正宗総講頭の辞任を勧告する決議をしたということであった。この法華講連合会の「総講頭辞任勧告」について、四月二日、山崎は、

「猊下もやるね」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

と浜中に電話で話している。確かに、法華講連合会がこのような決議を自主的にするはずはない。細井管長がその意思を間接表明したとみるのが妥当だろう。だが、このようなことよりも、池田会長は、師匠の追善供養を〝法主〟がしなかったことについて、断腸の思いで日々を過ごしたのではあるまいか。

しかも、創価学会中枢の一部には、局面をなんとか平穏に収束させようとする空気があった。何ゆえに師が攻撃の矢面に立っているのか、仏法に照らしてその本義を考える余裕を失っていた。それは、創価学会の不変の価値であるべき師弟不二を相対化させるものであった。今にして思えばまことに恐るべきことで、池田会長は暴虐なる衣の権威と戦う陣形をとり得なかったのである。

自身の欲望実現の道具として細井管長を利用

すべての状況を打開するため、池田会長は四月二十二日、細井管長に日蓮正宗総講頭と創価学会会長の辞任を申し出る。細井管長はそれを認めた。四月二十四日、創価学会は記者会見を開き、池田会長の辞任を公にした。五月三日、創価学会第四十回本部総会がおこなわれた。これには細井管長が出席した。細井管長は出たくないと言っていたが、大宣寺住職の菅野が説得したものだ。細井管長は菅野に、

「総会で、どうしゃべったらいいかわからないから、山崎さんに聞いてくれ」(同)

と述べたという。事後、山崎は、

「僕の書いた原稿を猊下はそのまま読んだ」(同)

と、浜中に話したという。山崎は五月四日付で日蓮正宗法華講大講頭になった。大講頭になった山崎は、

「天下の創価学会の会長と僕は同格だよ。池田さんの上だよ。戸田会長と並んだよ」(同)

と語った。

この後、池田名誉会長は自由に会合に出席することもできなければ、創価学会機関紙にその勇姿が報じられることも制限された。池田名誉会長はこの創価学会最大の危機にあたって、八月下旬より創価学会草創の功労者宅を訪れ座談会をおこなった。創価学会に再び師弟の絆は蘇り、座談会で同志の談笑の輪が拡がった。戸田会長が戦後、焼け野原に一人立ち広宣流布の歩みを始められたと同様に、地を這うような池田名誉会長の戦いが展開されたのである。それによってしか創価学会は「時流」を変えることができなかった。今にして思えば、この時、池田名誉会長が〝能忍の人〟でなければ、多くの人が法に迷った。能忍は慈悲より発するものであるといえる。

六月二十一日、山崎は「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー・西崎弘文のクルーザーに細井管長を招待する。山崎と西崎とのつながりは、西崎が手塚治虫プロから独立するときに手助けをした仲である。このクルーザーには細井管長のほか、大宣寺住職・菅野、富士宮の日原博、その他、銀行や金融関係者が招待されていた。山崎は銀行から融資を受ける裏づけとして、細井管長を利用したのである。ただ、この時細井管長が突然体調を崩し、急きょ熱海にクルーザーを着け同管長を下ろすことになった。

七月一日、山崎は海外部長に就任した大宣寺住職・菅野とともに、アメリカ、ブラジルへと向かった。出発前日、山崎は浜中に次のように電話で話した。

「僕は明日からまた、アメリカとブラジルに菅野さんと行ってくるよ。ブラジルの寺はボロだから、『今度、買い替える』って菅野さんが言っているから、僕がやらなくちゃね。彼女を連れてのんびり行ってきますよ。僕がいない時の佐々木さんや山口さんたちの頑張りに期待してね」(同)

山崎の帰国は同月十三日。この頃、山崎は得意の絶頂にあった。同月十九日、大宣寺・菅野から山崎に連絡が入る。細井管長が、

「苦しい」(同)

とのこと。細井管長の容態が急激に悪化したのである。東京に運ぶのは危ないという判断で、主治医の日野原重明医師と関係のあるフジヤマ病院(富士宮市)に緊急入院することとなった。診察の結果、心臓には異常がないが腸の動きがにぶいということであった。腹痛と吐き気。これ以降の経過は浜中の『回想録』に生々しく綴られている。以下、その一部を紹介する。

細井管長の突然の死

「翌二十一日の夜遅くなって、山崎氏から電話があった。

『今、猊下のお見舞から帰ったよ。いやあ、一時はどうなるかと思ったけど、もう大丈夫だよ。猊下が菅野さんと光久さんにも、〈もう休むから、帰れ〉とおっしゃったから、みんなで一緒にお部屋から引き上げたんだよ。あとは猊下の奥さんが泊まられることになったよ』

私はそれを聞いて胸を撫で下ろした。山崎氏は受話器の向こうでひと呼吸おくと、話を続けた。

『それでね、猊下が奥番に、〈明朝、どんなことがあっても本山に帰るから、大奥の対面所に布団を敷いておけ〉と言われて、菅野さんと光久さんの二人に、〈その時、必ず、来い〉と言っておられたけど。和道さん、どう思う?』

 山崎氏は緊張した声で言った。

『それは間違いなく御前さんは、血脈相承をなされるつもりだよ』

 私は自分でも声が上ずっているのを感じた。山崎氏も慎重な声で、

『うん、僕もそう思うんだよ』

 と答えた。私は、

『御前さんが対面所に来いと言ったのは、旦那と御仲居さんの二人だけなの? 他に誰か呼ぶように奥番とか御仲居さんに命令しなかった?』

 と尋ねた。山崎氏はきっぱりとした口調で、

『うん、二人だけだよ』

 と言った。

『それじゃ、御前さんは御仲居さんか旦那さんのどっちかに相承するつもりだよ。そして一人を立ち会いにするつもりだよ』

 山崎氏は、

『二人の中でどっちに猊下はあとを譲る気かな? まあ、明日になればわかるよ。ともかく僕も疲れたから、ひと眠りするよ。そして明日の朝、また本山に行くよ』

 と言うと電話を切った。

 私も高ぶる胸を押さえて布団にもぐり混んだが、目が冴えてなかなか寝つけなかった。 真っ暗な中で鳴り響く電話の音で目が醒めた。時計を見ると、もう午前二時を回っていた。電話は山崎氏からであった。山崎氏の声は緊迫していた。

『今、猊下の奥さんから電話があって、猊下の容態が急変したらしい。〈至急、日野原先生に連絡を取ってくれ〉って。日野原さんも〈病院にすぐ行く〉って言っていたけど、どうも難しいみたいだよ。僕もすぐ今から病院に行くよ。光久さんはもう病院に向かったらしいけど、大宣寺には連絡が取れないんだって』

 私はいっぺんで目が醒めてしまった。しかし、九州にいる私は、動きようもない。私は起き出して茶の間に移動した。茶の間ではたまたま伝法寺に遊びに来ていた私の両親と、両親の友人で今年の五月に亡くなった長万部・説道寺住職の大藪守道師の奥さんが寝ていたが、三人とも〝何事か〟と目を覚ましていた。

 私が、

『どうも、御前さんのお身体の調子が悪いみたいなんだ』

 と言うと、みんな驚いて起き出した。私は病身である父を気遣って、

『いいから、みんなは休んでいてよ』

 と言ったが、私が茶の間の電気を点け、電話の前に陣取っていては、とても寝れたものではなかったであろう。それでも三人は布団をかぶり眠ろうとしていた。

 茶の間の時計の音と自分の心臓の鼓動とが同時に響いているようであった。私の両親と大藪さんの奥さんは布団から半身を出して眠るのを諦めていた。三人とも心配そうな表情で身動きしないでいた。みんなそれぞれ、

『猊下様は大丈夫なの?』

 と尋ねたが、無論、私に答えられるはずはなかった。

 電話が鳴った。飛びつくように受話器を取ると山崎氏からであった。

『和道さん……』

 と言う悄然とした声の調子に、私は日達上人の身が朽ちられたことを感じた。

『猊下は亡くなられたよ。間に合わなかったよ。医師が心臓マッサージとかいろいろしたけど、ダメだったよ』

 私は、

『あとのことはどうなったの?』

 と尋ねずにはいられなかった。山崎氏は、

『わからないよ。光久さんもがっくりしてるよ。僕もどうしたらいいかわからないよ。今から御遺体を本山に帰すために、みんなバタバタしてるよ。とりあえず僕も東京に帰るよ』

と言って電話を切った」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)。

断簡17 錫杖の音

誰も相承された者はいなかった

細井管長は亡くなる前夜、大奥の寝室ではなく対面所に布団を敷けと命じ、菅野、光久両名にそこへ来るよう厳命した。後継指名の儀式をしようとしたことは疑いない。その願いもむなしく細井管長は逝った。このドタバタの中で阿部信雄(この時、総監)は、法道院の早瀬日慈とともに菅野を大奥の一部屋に誘い込み、

「日達上人から何か聞いてないか」(同)

と念を押した。菅野は、

「はい。何も聞いていません」(同)

と答えたという。この時、阿部とともに菅野を詰問した早瀬が後年、法道院の地元・豊島区の創価学会幹部に、

「藤本は小心者で、実質的に阿部しかいなかったのです。私が我慢したからそうなったのです」(筆者註 「藤本」とは当時、庶務部長だった藤本栄道)

と述べている。細井管長の本葬は八月八日、大石寺において真夏の太陽が照りつけるなかでおこなわれた。在家が錫杖を持ち、長い葬列の先頭に立ち歩いた。錫杖が大地に打ちつけられるたび、先についた金具の輪がシャン、シャンと音を立てる。その翌日、浜中が山崎に葬列で暑い中を歩いたことをねぎらった。山崎は大講頭であったから葬列に加わっていたのだ。浜中のねぎらいに山崎は答えた。

「なに、大したことじゃないよ。銀行関係を僕が葬式に呼んでおいたからね。あの連中の前でシャン、シャン、シャン、シャンという行列に僕が池田さんと並んで歩んでいるのを見たら、あいつらはいくらでも金を貸してくれるんだよ。だからあのシャン、シャンという金棒の先から札が降ってくると思えば、どうってことないさ。あれぐらい歩くことなんか」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

冷血漢・山崎は、細井管長が死んでも、その威光を自らの欲望のために利用したのだった。

なお、山崎が浜中に話したところによれば、

「猊下の直接の死因は、腹が固くなって割れた」(同)

ということだった。