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【茨城】

あの歴史を後世に(3) 父は特攻に反対だった

父の横山さんと写った写真を見せる松井さん=横浜市で

写真

◆飛行長の長女 松井 方子さん(71)

 伝説の人、撃墜王、英雄…。筑波海軍航空隊(現笠間市)で飛行長だった故横山保さんは、ゼロ戦パイロットとして名をはせた。長女の松井方(まさ)子さん(71)=横浜市=は、父を尊敬しながらも、英雄視する言葉に「娘としては複雑な気持ちだった」と振り返る。

 横山さんは飛行長として一九四四年六月から約一年間、若者たちを訓練し、特攻隊員として送り出す立場だった。出発する隊員たちに別れの杯を渡していたことに、松井さんは納得がいかなかったという。

 「命をかけても国や家族を守ろう、という隊員たちの純粋な気持ちは大事にしてあげたい。でも、多くの若者の前途を一瞬で奪い去った。特攻は、やってはいけないことだった」と思う。

 結婚して二人の息子を持つと、母親の立場でも考えるようになった。「究極の状況とはいえ、死ぬと分かっていて、母親たちはどんな思いで息子を送ったんだろう」。それでも、父に「なぜ送り出したのか」とは最後まで聞けなかった。

 横山さんは家では、ほとんど戦争の話をしなかった。毎年、日米が開戦した十二月八日がくると、横山家には決まった習慣があった。戦争で亡くなった人たちのため黙とうをして、すいとんを食べる。横山さんは黙とう中、死んだ部下たちの名前をつぶやいていた。戦死した部下の名前は全員覚えていて、この習慣は亡くなるまで続いたという。

 松井さんは「多くの部下や市民が犠牲になり、職業軍人の自分が生き残ったことに、負い目を感じていたのではないか」と、生前の父の心中を推し量る。

 戦後は航空自衛隊に勤務し、家では決して怒鳴ったり、子どもに手を上げたりしない穏やかな父親だった。八一年、七十二歳で亡くなった時、遺骨の中から五、六個の金属片が見つかった。体内に残ったままだった銃弾が、過酷な戦争体験を物語っていた。

 四年ほど前、松井さんは筑波海軍航空隊の元隊員らから当時の話を聞き、父が特攻に反対し続けていたことを初めて知った。上官に抗議さえしたという。

 「飛行経験の少ない若者たちを特攻隊に送り出すのは、部下思いだった父にはつらかったと思う。父の悲しみを初めて受け止めることができた」。長い間の胸のつかえが、ようやく取れた気がした。

 現在、笠間市で旧司令部庁舎の保存運動が起きたことを「負の遺産ではなくなったことが、うれしい」と喜ぶ。数年前に初めて訪れ、父が執務した部屋から窓の外を眺めた。「周りの景色は変わっても、空は同じかな」 (宮本隆康)

 

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