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【埼玉】

戦後70年 語り継ぐ(下)旧陸軍造兵廠川越製造所(ふじみ野市) 青春奪った学徒動員

「孫たちの世代に同じ思いをさせたくない」と語る島田早苗さん=ふじみ野市で

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 第二次大戦末期、深刻な労働力不足を補うため、現在の中学生以上に相当する十代の少年少女が軍需工場に学徒動員された。まだ幼さの残る生徒たちは食糧不足による空腹に耐えながら過酷な作業を続け、事故による犠牲者も出た。

 入間郡福岡村(現ふじみ野市)にあった旧陸軍の弾薬工場「東京第一陸軍造兵廠(しょう)川越製造所」には一九四五年の終戦時、全所属の三割に当たる約千四百人もの動員学徒がいた。

 「自分がやっている仕事は学友にも話してはいけなかった。内部のことを家族に話すことも禁じられていた」。元動員学徒の医師島田早苗さん(85)=ふじみ野市=は振り返る。島田さんが通っていた旧制川越中学(現県立川越高)の三年生二百人は四四年八月十五日から同製造所に動員された。島田さんの班五人が最初に担当したのは航空機用機関砲弾の先端に信管を取り付ける作業だった。「作業は朝九時から午後四時まで。休みは日曜だけだった。毎日腹をすかせていて、週一回配給される『栗(くり)まん』と呼ばれたまんじゅうが楽しみだった。当時、甘いものは外にはまずなかった」

 三カ月余りたった十一月二十一日朝、機関砲の焼夷(しょうい)弾に薬剤を詰める建物で九人が死亡、六人が負傷する爆発事故が起きた。死者の中には同学年の生田巌さんがいた。当初の説明では、学徒には危険な作業をさせないことになっていた。しかし、日時は不明だが別の三年生も爆発事故で左手を失う重傷を負っている。

 川越製造所での事故は、作業内容が軍事機密に当たるため、一切公表されなかった。当時の川越中教員による報告書は生田さんの事故について「当日九時三十分頃(ごろ)事故の為見学中止なる故に後の作業状況判明せざる」との記述しかなく、その後の報告書にも葬送の記述がひと言あるだけで、事故内容には触れていない。青春真っただ中にあった生徒の死は、機密保護と国民総動員のスローガンの下に埋もれてしまった。

 「『血液型O型の者、集合』と構内放送が流れ、事故があったのを知った。学徒でも死ぬことがある危険な作業なんだと思った」。当時、高階(たかしな)村(現川越市)の高階国民学校高等科二年だった今井良男さん(84)=同=は振り返る。同年十月九日に同級生と動員されたばかり。初日に血液型を調べられた意味を構内放送でさとった。偏西風に乗せて米本土を攻撃する風船爆弾の部品作りを担当したが、当時は何を作っているのか知らなかった。「工場の周りは憲兵が巡回していた。三人集まると『何を話していた』と厳しく問いただされるので怖かった」という。

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 終戦を告げる昭和天皇の玉音放送があった四五年八月十五日正午、島田さんは三キロ離れた倉庫まで大八車で製品を運ぶ途中だった。「石材店でラジオを聞かせてもらった。聞き取れなかったが、負けたことは分かった。そのまま倉庫に荷物を届け、翌日からは学校に戻った」

 今井さんは同年三月に高等科を卒業後も養成工として製造所に残っていた。「広場に集合して玉音放送を聞いた。将校が泣いているのを見て、負けたんだなと分かった」。夜、寮に戻ると、前日まで電球にかぶせてあった灯火管制用の覆いが外され、いやに明るく感じたのを覚えている。今井さんは現在、地元の小学四年生に年一回、昔の話をするボランティアをしている。「昔の遊びや生活が中心。先生からはしないでいいと言われるが、戦争の話も伝えていきたい」という。

 川越中は陸軍被服廠(現朝霞市)に動員された生徒を含め、学徒動員で計四人の死傷者を出した。OBの島田さんは今年七月、ふじみ野市立歴史民俗資料館での講演で、学徒動員の経験を初めて話した。講演を引き受けた動機をこう語る。「小中学生の孫がいる。学徒動員で十五歳の一年間、学生本来の勉強をまったくできなかった。これからの世代には私のような経験をさせたくないんです」

 (中里宏)

 

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