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【千葉】

<九十九里の赤とんぼ>幻の本土決戦 米軍におびえた漁師町

「昔はここも砂浜だったんだ。東洋のマイアミビーチと呼ばれてね」。戦中戦後の九十九里浜の変遷を見つめてきた鈴木さん=大網白里市で

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 一九四五年八月十五日、十二歳だった白里町(現大網白里市)の鈴木茂(82)は、九十九里浜を臨む真亀川のほとりに一人で散歩に出掛け、ぼんやり考え事をしていた。「これからどうなるのかな」

 この日の正午、両親は不在で自宅近くの祖父母宅にいた。茶の間には近所の大人たちが集まり、鈴木は足を崩してラジオに向かった。玉音放送は聞いてもすぐには理解できなかった。「戦争、負けたんだ」。大人のだれかが言った。「これまで負けたことなんてない。敗戦なんて意味が見当つかなかったんだ。いつか勝つんだと思っていたから」

     ◇

 四四年五月、陸軍は米軍の本土上陸を想定し、九十九里をはじめ沿岸部の防衛を強化する。十月には九十九里浜の基地建設作業が始まり、潜伏場所や武器を配備するための穴を掘った。「九十九里に米軍が上陸する、と町は緊張していた」。鈴木の両親も万が一に備え、大切な家財を二川村(現芝山町)の父方の実家へ牛車で運んだ。

 鈴木によると、兵士らは戦車を入れるため築山の中を掘り、砲塔だけを海に向けて米軍を狙う「トーチカ」と呼ばれる施設を造ったり、逃げ込むための穴の「たこつぼ」を掘った。しかし、戦車が設置されず、トーチカはやがて子どもの遊び場に。たこつぼも白砂でさらさらと埋もれてしまい、一週間ともたなかった。

 九十九里一帯はイワシ漁が盛んな漁師町だった。水産加工業を営んでいた鈴木の家にも、戦争で漁に出られずほとんど使わなくなった納屋に、北海道の部隊が三十人ほど駐留した。

 ある日、兵士たちの夕食に湯気の立つ黒っぽいご飯が並んでいた。「うまそうだな」と見ていると、「代わりにおにぎり持ってこい」と笑われ、交換し食べるとコーリャン(もろこし)だった。兵士たちは夜になると細い木を削り、銃弾の代わりに射撃練習をした。

 海から五百メートルも離れていない自宅では、母親のちよが夜になると「軍艦のディーゼル音が聞こえる」とおびえた。「米軍の航空母艦に搭載された飛行機の燃料タンクが民家に落下したこともある。相当沿岸まで来ていたんじゃないか」。灯台はいつしか防空監視所になったが、警報が鳴る前に上空で銃撃戦になった。

 四五年になり、東京大空襲や沖縄戦、千葉県内でも千葉空襲、銚子空襲と続いた。「いよいよ米軍が来る」と、女性も竹やり訓練を本格化させる中、迎えた終戦だった。

 それから三年、鈴木一家は米軍による銃撃や台風でいたんだ自宅から、少し北上して豊海町(現九十九里町)との境の北今泉地区の新居へ移る。ある夜、鈴木は家の中で「ガガガーッ」という音を聞いた。九十九里浜の方に目をやると、白い砂浜で松林や民家が大きなブルドーザーに押しつぶされているのが見えた。米軍上陸は杞憂(きゆう)ではなかった。 =敬称略

     ◇

 本土決戦を免れたはずの九十九里浜に終戦から三年後、突然米軍射撃演習場「キャンプ片貝(かたかい)」が建設された。高射砲のごう音、標的となった無人機「赤とんぼ」の墜落、米兵が起こす事件…。およそ十年におよぶ住民たちの米軍との苦闘を振り返る。 (柚木まり)

 

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