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【神奈川】

軍都の記憶(2)横須賀基地 反戦訴え働くジレンマ

基地反対の運動を振り返る菊地さん(奥)と三影さん。奥に見えるのは、旧日本海軍施設だった米海軍横須賀基地=横須賀市で

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 「日本だったら、十メートルの鋼板だって真っ平らなものをつくるんだけどなあ、と思ったものだ」

 米海軍第七艦隊の拠点、横須賀基地。かつて横須賀市の民間造船会社に勤めた団体役員、三影(みかげ)憲一さん(68)=同市=は懐かしむ。一九八六年、米海軍横須賀基地にある艦船修理廠(SRF)で行われた、米空母ミッドウェーの大規模改修で資材運搬に関わった。

 荷上げされた米国製らしい鋼板は「ゆがんで波を打っていた。やっぱり日本の技術の方がすごい」と鮮明に覚えている。旧日本海軍の施設を継承する日米同盟の要には、多くの日本人も関わっている。溶接工として海上自衛隊の護衛艦建造にも携わった三影さんもその一人だが、同時に反戦平和運動の「闘士」でもあった。

 七三年、ミッドウェーが米空母として初めて、横須賀を事実上の母港にする問題が浮上。労働組合運動にどっぷりつかっていた三影さんは連日、反対デモに参加し、配備容認の姿勢だった当時の長野正義市長に詰め寄った。「『革新市長といわれているのに、何をやっているんだ』と、青二才がよく言ったもんだ」

 八〇年代後半からは、在日米軍基地従業員でつくる全駐労神奈川地区本部書記長に請われ、中央本部副委員長も歴任。基地従業員の待遇改善を主張しながら、「外国軍が駐留していること自体が問題。最終的に基地はなくすべきだ」と訴えてきた。

 ただ、そこには基地の仕事をしながら反基地を訴えるジレンマがあった。一見分かりにくい組み合わせに対し、組合員には温度差があった。「職場でもさんざん議論したよ。だけど商船ならいいのか。戦争に荷物を運ぶのに使われているかもしれない。言い出したら切りがない。運動と仕事は別だ」

 敗戦から朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦。好むと好まざるとにかかわらず、軍需と雇用確保の裏表の関係は続いた。

 造船会社出身で横須賀地区労働組合協議会の事務局長だった菊地武廉(たけやす)さん(72)も反基地運動の中心的な役割を担った。ベトナム戦争時の七二年、横浜・村雨橋(神奈川区)で米軍戦車の通行を阻止した「戦車闘争」で最前列に立ったこともある。

 基地返還後の跡地利用を唱え、米軍・自衛隊関係の仕事がなくなっても働く場が保てる姿を目指してきた。「民間造船を中心とした地域になれば一番いい」が、現実味を持ってとらえられないもどかしさがある。「もし返還されても自衛隊が使うだろう」

 基地の現実に身を置きながら反基地を追求してきた二人はいま、「軍」への抵抗感の薄れを懸念する。集団的自衛権行使容認や武器輸出三原則見直しで、これまでとは別次元の動きが出ている中で違和感は募る。「横須賀も最近は『軍都』を売り物にする傾向が目立つ。ミリタリーショップは大盛況、海軍カレーの大売り出し。これでいいのだろうか」

  (原昌志)

 <横須賀海軍工廠と米海軍艦船修理廠(SRF)> 戦前、横須賀にあった旧日本海軍工廠は、太平洋戦争で真珠湾攻撃に参加した空母「飛龍」「翔鶴」などを建造。大戦末期には特攻兵器「海龍」も生産した。乾ドックなどは現在も現役で使われている。戦後はSRFが施設や人員を継承。一方、86年のミッドウェー改修には、旧海軍や自衛隊の艦船を手掛けた浦賀船渠(浦賀ドック)を前身とする住友重機械工業が従事した。SRF設計部長などを歴任した関口丈信さん(59)は「大掛かりな工事で、SRFだけでは対応できなかった。現在も空母の甲板の滑り止め処理などは、外部に担ってもらっている」と民間の貢献度の高さを話す。

 

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