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【茨城】

あの歴史を後世に(1) 特攻…後ろめたい生還

「笑って死にます」と書いたアルバムを見せる柳井さん=広島県府中町で

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◆元隊員 柳井 和臣さん(93)

 生きて帰れない出撃は緊張したが、死の恐怖は、ほとんどなかったという。太平洋戦争末期の一九四五年五月十四日の早朝、鹿児島県の鹿屋基地。当時二十三歳で特攻隊員だった柳井和臣さん(93)=広島県府中町=は、ゼロ戦に五百キロ爆弾を積んで飛び立った。

 両親の顔が一瞬、頭に浮かんだ。鹿屋の山並みを見て「これが祖国の見納めか」と思ったことを、今もよく覚えている。十七機が出撃した。三、四機ずつに分かれ、米艦を探して体当たりするのが任務だった。

 奄美大島沖へ海面近くを低空で飛行中、巡洋艦が見えた気がした。「一発やってやるか」。高度千メートル以上に急上昇したが、錯覚だった。結局、命令された飛行コースに米艦の姿はなく、二時間以上、飛んで基地に戻った。

 安堵(あんど)ではなく、後ろめたさを感じ、上官に何を言われるか心配した。一緒に出撃した十七人のうち、十四人が戻らなかった。「特攻隊員になった時点で、生の選択肢はない。死ぬのが延びようが早まろうが一緒だ」と割り切っていた。

 柳井さんは慶応大に在学中の四三年末、学徒出陣で海軍に。現笠間市の筑波海軍航空隊でパイロットの訓練中、四五年二月に特攻隊に志願した。勝てない戦況と分かっていたが、使命と責任を感じた。未婚で、長男ではなく、操縦の上達も早い自分は適任と考えた。

 周囲の隊員の間では、弱音や愚痴めいた会話はなかったという。「それが美学だった。誰だって生きたいが、やりたいことや夢をあきらめ、二十歳ぐらいで人生を閉じる。みんな葛藤はあっても、気持ちを整理して覚悟を決めた。整理したふりだったのかもしれないが…」と語る。

 それでも、「両親より早く死ぬのは本当に申し訳ない」と思っていた。遺書の代わりに、アルバムを残しておいた。最初のページに「お父さん お母さん!! では出発します 笑って死にます」と書いた。訓練期間中に仲間と一緒に笑ったり、操縦席で少しおどけたり、楽しそうな写真を選んだ。「息子は満足して死んだ」と母親を安心させたかった。

 六月の二度目の出撃命令は、体調を崩して飛べなかった。間もなく、本土決戦の準備で鹿屋基地を離れ、終戦を迎えた。

 戦後は民間企業に就職した。親友が特攻で戦死した五月十一日と、自分が出撃した五月十四日には毎年、仏壇で手を合わせる。「隊員たちは、みんなナイスボーイだった。優秀な人材を失った」と思い起こす。

 戦後七十年がたち、危機感を覚えている。「人間は二度死ぬ。一度目は肉体が死んだ時で、二度目は忘れ去られた時、完全に死ぬ。私のように隊員たちを知る人間は、もう少ない。戦争の悲劇を二度と起こさないためにも、彼らを忘れてはいけない」

      ◆

 筑波海軍航空隊は太平洋戦争末期、特攻隊員を養成する訓練所だった。時間とともに記憶が薄れゆく中、若者たちの悲劇を、どう語り継ぐのか。関係者に思いを聞いた。 (宮本隆康)

<筑波海軍航空隊> 1938年に旧友部町で編成。主にパイロット養成を任務とし、1500人以上が訓練を受けた。戦争末期は特攻隊員を養成し、沖縄などへの特攻出撃で約70人が戦死した。旧司令部庁舎は戦後、県立友部病院の管理棟に転用され、老朽化により解体が決定。映画「永遠の0」のロケ地になったのを機に、地元有志らが保存を訴え、2013年12月から記念館として戦争遺構や史料を一般公開している。

 

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