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【社説】

戦後70年を考える 立憲主義を守りぬく

 権力を暴走させないために、近代憲法は立憲主義という装置を持った。戦前は軍国主義がそれを破壊した。戦後七十年にして再び、危機に立っている。

 「立憲主義の地霊が現れたかのようだ」

 東京大の大教室は約千四百人もの人々であふれ返っていた。その光景に、憲法学者の石川健治東大法学部教授は、「地霊」という言葉を頭に浮かべたという。

 「立憲デモクラシーの会」が主催した、このシンポジウムは六月六日に開かれ、憲法学の東の重鎮・樋口陽一東大名誉教授と西の重鎮・佐藤幸治京大名誉教授が並んだ。パネリストでもあった石川教授は会の運営に奔走していた。

◆機関説では戦争できぬ

 「会場となった法学部二十五番教室は、大正時代まで『八角講堂』という建物があり、美濃部達吉先生が講義をしていた場所なのです。関東大震災で焼けてしまいましたが、今もその土台は残り、二十五番教室のある法文一号館がその上に建っているのです」

 地霊とは美濃部の立憲主義による憲法学を指す。「天皇機関説」で知られた戦前の学者だ。国家を法人としてとらえ、それぞれの機関の意思を最終的に決定する最高機関を天皇とする学説である。

 天皇は機関−という考え方が、一九三五年に貴族院で糾弾された。「緩慢なる謀反だ」というのだ。在郷軍人会が怒り出し、排撃運動は大衆レベルにまで広がった。

 美濃部の著書は発禁処分になった。右翼から銃撃も受け、重傷を負った。政府は天皇に統治権の主体があるという「国体明徴声明」を出した。石川教授は語る。

 「美濃部先生は徹底的な合理主義、知性主義です。この立憲主義憲法学では、大衆の情熱と献身を国家に調達することができません。天皇機関説が描き出す無色透明な国家公共では、戦争の時代を乗り切る力が出てこないのです」

◆「公」と「私」の境界が

 命知らずの軍隊をつくるには、天皇を中心とした秩序である「国体」が大事だった。戦前の日本が神国思想や皇国史観などを国民に植え付けたのもそのためだ。天皇を憲法の下に置く機関説は、許せぬ存在だったに違いない。

 立憲主義は権力が暴走しないように、あらかじめ鎖で縛っておく発想が根幹である。戦争を始める権力は、むしろ絶対的な力を求める。明治憲法も立憲主義を採用していたが、強大化した軍国主義がそのブレーキ装置をはずして、亡国へと進んだのだ。天皇機関説事件から敗戦まで、わずか十年という短さである。

 この事件は時代が転換するときの象徴的な出来事の一つであろうと思う。立憲主義と絶対主義が対立した場面だった。「立憲」と「非立憲」の対立でもあった。

 あれから八十年、再び立憲主義が崖っぷちに立つ。これまで集団的自衛権の行使を認めてこなかった政府が昨年七月、一転して「容認」と閣議決定したからだ。「解釈改憲」である。憲法の範囲内でしか政治は行えないのに、その枠を踏み越えてしまった。

 さらに現在、安全保障法制関連法案の成立を図っている。専守防衛とは質が全く異なる。これを認めれば、憲法九条との整合性の糸が途切れてしまう。本紙アンケートでも90%超の憲法学者が「違憲」と回答した。歴代の内閣法制局長官も「違憲」と国会で述べた。立憲主義からの逸脱なのだ。

 天皇機関説事件がきっかけとなった、もう一つの重大な事象がある。「公」と「私」を切り分けていた壁が崩れてしまったことだ。

 戦前は「公」の場で神道式の儀礼と天皇崇拝が求められていたが、「私」の空間では何を信じても自由なはずだった。ところが、この事件を契機に、次第に「公」が「私」の空間に侵入し、思想統制へと結びついたのである。

 戦後は一転し、軍事的なるものを徹底的に排除して公共空間をつくった。石川教授は指摘する。

◆公共を改造するのか

 「戦後の公共空間を維持し、演出してきたのは『表現の自由』です。しかし、『公共』として強くなりにくい弱点があります。世界観的に中立な『公共』でもあり、それに命は懸けられません。だから、強い国にしたいという人たちが『公共』の改造運動をしているのです。愛国心教育をし、郷土愛を注入し、国旗・国歌というシンボルによって、強い『公共』を演出しようとしているのです」

 現在の日本で起きているのは、「立憲」と「非立憲」の対立である。立憲主義を守りぬかないと、絶対主義のような世の中を迎えかねない。「非立憲」の跋扈(ばっこ)を許せば、公共空間の色彩も変わるだろう。私たちの未来を変える重大な岐路なのだ。

 

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