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モテの極意とその適性に関する中間報告

モテとは何か。不特定多数の人から恋愛感情を寄せられることだとわたしは思う。非モテとは何か。不特定多数の人からは恋愛感情を寄せられないことだとわたしは思う。

 

でもその境界線は曖昧で「たった一人からでも恋愛感情を寄せられたら、それは非モテに入らないのだ!」とか「恋愛感情なんか寄せられなくても毛嫌いされていなかったら非モテじゃない!」とか言う人もいる。

また「それなりの年齢になれば浮いた話のひとつやふたつはあって当然。そんなのはモテのうちに入らない」とか「100人、200人に好かれようとも相手のレベルがたいしたことなかったらモテとはいえない」とか、まーいろいろな意見がある。

 

でもここではいったんわたしが思うモテの定義でモテについて考えることにする。つまり不特定多数から恋愛感情を寄せられるのがモテ。それ以外の、特定少数に惚れられる人は非モテの人。モテじゃないからね。誰にも好かれなかった、これまで恋人がいたことがない、これもモテじゃないから非モテね。

 

ほいで思ったんだけど、モテ指南とかナンパ塾とか恋愛工学とか、あれみんな非コミュによる非コミュのための非コミュを貫く方法だわ。非モテのみなさんでもコミュ力ある人は参加不可能だわ。

 

わたし、ついにわかったのよ。モテの極意が。

 

無差別モテ三原則

・他者、特に恋愛対象となる性とは基本的に絶対にわかりあえないと確信する

・他者から求められるように自分の外面と行動をカスタマイズし、演出する

・話の通じない相手と過ごすことによるストレスを緩和する手段を見つける

 

これが不特定多数からモテる秘訣。相手が異性でも同性でもそう。ナンパもモテも、大事なことはこの三つに集約される。隠密行動するくノ一みたいだ。

 

相手に自分をわかってもらおうとか、相手を理解しようとか、そういうのは危険。感情移入したり、相手の気持ちを自分のことのように想像したりするのもダメ。相手は自分と同じ人間ではなくキャベツくらいに思っておくこと。

好かれることより嫌われないこと。話の通じない相手なんだから、絶対に、絶対に、自分を理解してもらおうと思わないこと。泣き言がゆるされるのは相手が自分に盲目になってから。そのときも感情をあらわに見せるのはストレス発散のためで、相手が自分を理解してくれるとは思わないこと。

 

理解してほしいという欲を捨て、自分が望むように相手に動かす工夫をすること。要望は直接伝えずに、相手が受け入れやすい状況を作ったり、そうしたいと思うように率先して動く。サークラ目的なら「なんていい子なんだろう」と思ってもらえるように動く。ヤリ目のナンパだったら身体をゆるしてくれるように仕向ける。本心を知らせるなんてとんでもない。

 

相手の鈍さにイラついたら「聞き役にまわって深呼吸。いつも穏やかでいるように心がけましょう」という言葉を思い出す。相手の話にうんざりしたら「自分の言いたいことを言い終わって気がすむまで待ってあげましょう。『はひふへほ』で相槌を打つと会話がスムーズです」という言葉を思い出す。何より相手の心を掴むという目的を忘れてはいけない。嫌われないこと。好かれること。

 

これでは自分が何を思っているどんな人か伝わらないし、相手のこともわからない。でもそれでいい。モテの神は言われた。「わかりあえないを信じよ」と。「わかりあいたい」はモテ社会において冒涜的で反逆的な思想だ。わかりあうとか迷信。幻想。「完全に人を理解するのは不可能です」「他人を変えることは出来ません」だからわからなくていい。

 

「女性はこれを望んでいる」「男性はこれが嫌い」そういった細々した教えを常に忘れず、修行を重ねてモテ仕様に自分をカスタマイズする。役作りに専念して演技に没頭する。擬態した自分に夢中になる人とつきあう。これがモテ。さまざまな理想の投影を受け入れられるよう、特定の主義主張は持たない。対立する陣営の両方から好かれなければならない。

 

モテ系の怨み節と復讐心

こうして不特定多数から好かれるモテ系が誕生する。でも好かれた相手に心をゆるしているわけでも、気が合っているわけでもないから、一緒にいても楽しくない。疲れる。自分が望むように相手が動かないこともある。そこであらためて「しょせん女には男の話が通じない」「やっぱり男って女の気持ちがわからない」と人間不信を強化する。

 

あいつらすきだの愛してるだの言うけど、結局自分の表面だけしか見ていないよな。誰も自分をわかってくれない。むなしい。孤独だ。自分かわいそう。あいつら、もっと酷い目に合わせたい。そうなって当然だ。

 

そんな人間不信と自己嫌悪をベースに、自分の殻の中から、相手の殻の表面を見て、怪我しない程度に先っぽで突っつくようなお付き合い。危なくなったらいつでも逃げられるように警戒は怠らない。これ、コミュニケーション障害だよね?

 

「女を、男を叩くやつは非モテ」と思われがちだがそうでもない。恋愛対象の心を掴むため日夜努力しているぶんモテ側の人間は苦労も多く、男女への恨みつらみはある。ただモテ側はキャベツは栄養あるからな、とも思っているから表立っては言わないし、わざわざいうようなことでもないと思っている。偉大なるモテ神の人を信じてはならないという教えにより期待することから守られているからだ。

 

モテ適性がない人

「少しずつでも人と知り合いたい」「互いを分かち合いたい」「嫌われることより勘違いで好かれる方が嫌だ」と思う不信仰な人には、モテの適性がない。喧嘩をしたり仲直りをしたり、一言では言い表せない深い思いを寄せる気の置けない友人や家族がいる人、こういう人もダメだ。

 

難攻不落の人間不信、他者の理想を投影されることを受け入れられる自己否定力、心の繋がりのない人に囲まれることへのストレス耐性。この三つが揃っている人にはモテの才能がある。どんな美男美女、どんな富裕な人でも、この三つがないとモテ側にとどまることはできない。

 

少しでもコミュ力があり、普段着で友達と趣味の話をしてフヒヒと笑ってしまうようなコミュニケーション強者はモテ側には入れない。そういう人にとってモテることの報酬はあまりにも貧しくてストレスが多く、割に合わない。