「受忍論」 新資料が語る国の方針
8月12日 19時14分
太平洋戦争の末期、アメリカ軍の空襲によって日本の各地が大きな被害を受けました。このうち原爆によって被害を受けた人には一部医療の面などで国の援護がありますが、東京大空襲など原爆以外の空襲の被害者には国による救済はありません。
どうしてこうした違いが出たのでしょうか。その鍵となる新たな資料が見つかりました。その資料とは、昭和54年から非公開で開かれた国の懇談会の議論を記録した文書です。ここでの議論がその後の戦後補償に大きな影響を与えたと言われています。
広島放送局の中村友聡記者が取材しました。
救済ない空襲被害者
大阪・堺市に住む安野輝子さん(76)は、6歳のとき鹿児島県で空襲に遭い左足を失いました。
空襲による被害を救済してほしいと国家補償を求め、平成20年に訴えを起こしましたが退けられました。控訴・上告したものの訴えは認められず、国からの補償は受けられませんでした。
安野さんは「戦後の70年間、弱い立場で虐げられて傷ついてただでさえ苦しんできました。何という社会だろうと思いました」と話します。
太平洋戦争末期、日本各地に及んだアメリカ軍の空襲。戦後の国の調査では200以上の都市が被害を受けました。亡くなった人は空襲による被害者だけでおよそ20万人に上るとされています。
方針はどのように決まったのか
空襲などの被害者は国の救済の対象としない。その方針に大きな影響を与えたと言われているのは、実は原爆の被爆者への対応について話し合われた国の懇談会でした。
当時の厚生省が昭和54年に設置。メンバーは元裁判官や元外交官といった有識者7人で厚生省の官僚も議論に加わり、非公開で進められました。
被爆者の救済がテーマでしたが、議論の過程で突き当たったのが空襲などの被害者への対応でした。当時被爆者には原則、放射線被害が認められた人に対して医療面などでの援護がありました。これに加えて懇談会では、放射線被害は認められなくても原爆でけがをした人などは救済できないか議論されました。しかしこれを認めた場合、空襲などほかの戦争被害者にも救済の範囲が広がってしまうと指摘されたのです。
懇談会の委員からは、「原爆の被爆者に対して特別の国家補償的な処置をするということなら、3月10日(東京大空襲)の被害者はどうなるのか」とか、「もしそれをやろうとすれば無差別に補償要求が出て日本の財政はとてももたないし国民は納得しないと思う」といった発言も出されていました。
新資料が明かす国の思惑
今回、NHKはこの懇談会の議論を記録した文書を入手しました。すでに公表されている議事録の要旨の原案に当たるものです。
そこには当時の厚生省の官僚が、「政府は一般戦争損害への波及をおそれて表向きは特別の社会保障であると説明してきた.国家補償であると明言されると国家補償という言葉のみが独り歩きして他の各方面に悪影響を及ぼすのではないかという強い懸念が一部にある」という、要旨には書かれていない発言も記されていました。
空襲などほかの戦争被害者にも救済の範囲が広がることを懸念した内容でした。
1年半にわたる議論の末、答申で示されたのは戦争の被害者がおしなべて我慢するという「受忍論」の考え方でした。
答申の基本理念には、「戦争という非常事態のもとで国民が何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは国をあげての戦争による『一般の犠牲』としてすべての国民がひとしく受忍しなければならない」と記されたのです。
当時の官僚や政治家は今、何を思うのか
懇談会が設置された当時、厚生省の担当課長だった館山不二夫さん(81)は、「空襲被害まできたら巨額ですよね。寝た子を起こすようなことはしてくれるなと。原爆の被爆者だけでも大変なのに、なんで平地に波乱を起こすんだと」と、当時の厚生省幹部から国家財政を優先して救済の範囲を広げないよう釘を刺されていたと証言します。
また、懇談会に出席していた別の元官僚もNHKの取材に手紙で応じました。
そこには議論は国家の財政を守るという大前提のもと進められたとしたうえで、「当時の国民経済の状況から見て、戦争被害をすべて補償することは不可能という以上に在り得ないという感覚も当時の常識的な意識ではなかったろうか」とつづられています。
当時の大平内閣で総理秘書官を務めていた森田一元衆議院議員は、「空襲を受けた人全部に補償をするのは財政面から認められないというのは歴代内閣の共通の考えでした。政権のほうとして基本的に補償できるのはごく限られたものだから、それ以外の方は我慢していただくほかしょうがないという考えでした」として、「受忍論」的な考え方は戦後を通じての内閣の共通認識で懇談会で覆ることはなかったと振り返りました。
その後、裁判の判決でも「受忍」の文字が目立つようになり、戦後処理問題の基本方針として「受忍論」の考え方が固まっていきました。
一方、イギリスやドイツ、フランスなどヨーロッパの各国は戦争の被害を受けた民間人を支援する制度が設けられています。
戦後70年いま私たちは
日本の戦後補償について取材を続けてきたジャーナリストの田原総一朗さん(81)は、国民への補償が財政上の課題を理由に官僚主導で結論づけられたとして問題だとしたうえで、「『受忍論』がいいか、悪いかではなくて、財政は国民の税金で決めるので、被害が少なかった国民が、被害が多かった国民にどう補償を出すかという話だから、当然国民が参加する形で、分かる形で、分からせる形で決めなければなりません。被害を受けた人は身を持って分かっているんだけど、その人たちがいなくなると、そのこと自身が分からなくなってしまいます。いまこそ言わないと、若い戦争を知らない世代に伝えないと、戦争のひどさはみんな分からなくなってしまいます」と話しました。
取材者として感じたこと
戦後70年のいま、空襲被害者への補償について国がこのような議論をしていたことはあまり知られていないと思います。
戦後の日本の歴史の一断面がうかがえる新たな資料。戦争を知る世代が減っていくなかこうした事実を知り、考え、そして伝えていくことが現代を生きる私たちの務めだと今回の取材を通して改めて強く感じました。
戦後70年の節目に向け広島局の記者として原爆の取材を続けてきました。今後はデスクとして、戦後の日本を考えるうえで重要な史実に迫る取材に同僚と共に取り組んでいきたいと考えています。