<戦後70年>模擬原爆「理不尽な死」怒り
終戦の1カ月前、若い命を奪ったのは、原爆投下の予行演習爆弾だった。福島市渡利の斎藤ミチさん(88)は、1発の模擬原爆で弟の隆夫さん=当時(15)=を亡くした。「あまりに理不尽な死」に怒りは消えない。戦後70年。政府は自衛隊の武力行使に道を開く安全保障関連法案の成立を目指している。追悼の夏、ミチさんの心がざわめく。「戦争はもうこりごりだ。嫌なら嫌と声を上げるべきだ」
◎「戦争が嫌なら嫌だと、声に出し続けていく」
1945年7月20日。厚い雲がたれ込めた暗い朝だった。
当時18歳のミチさん一家はコメ農家。軍に供出するため、一日も手が抜けない。早朝、水田の草取りは家族が交代で行う日課だ。
「今日はおれが行ぐ」。そう言って隆夫さんが出掛けた。その数分後だった。
バリバリ−。破裂音がした。次の瞬間、地下足袋を履こうとしていたミチさんは爆風で吹き飛ばされた。
「爆弾だ」「空襲だ」。空には米軍機。「逃げろ!」
母と防空壕(ごう)に入る直前、水田から一筋の煙が上がるのを見た。
「隆夫がやられた」。すぐに分かった。
機影は見えなくなった。落とされた爆弾は1発だけだった。水田に駆け寄ると、爆風で腹部をえぐられ、体中に鉄の破片が刺さった隆夫さんが横たわっていた。言葉が出なかった。「親孝行で優しかった弟がなぜ…。あと少し遅く送り出していれば」。後悔で今なお胸を痛める。
3日後、爆弾の破片が見つかった。「弟の霊を慰めるために」と近くの瑞龍寺に預けた。盆や彼岸にそっとなでて供養している。
隆夫さんを吹き飛ばしたのは、日本国内で初めて落とされた「模擬原爆」だった。その事実を知ったのは50年ほどたってからだ。
東北では新潟市への原爆投下を想定し、福島市を手始めに、いわき市に3発、郡山市に2発落とされ、計43人が死亡した。
あれから70年。
この夏、安保関連法案が衆議院で強行採決され、参議院に送られた。集団的自衛権の行使が認められ、ひとたび自衛隊が反撃すれば、人の命を奪いかねない。戦禍の記憶がいや応なく呼び覚まされる。国民の多くは法案に納得していない。
ミチさんは言う。「昔は本音を話すだけで刑務所に入れられた。当時と今は違う。戦争が嫌なら嫌だと、おかしいことはおかしいと声に出し続けていくしかない」
[模擬原爆] 愛知県春日井市の市民団体「春日井の戦争を記録する会」によると、1945年7月20日〜8月14日、米軍が原爆投下に向けたデータ収集のため、富山市や名古屋市など30都市に計49発落とし、全国で400人以上が犠牲になった。長崎型原爆と同形状・同重量(約4.5トン)で火薬が詰められた。
2015年08月06日木曜日