7月30日(土)
今日、「八郎潟の昔と今を語る集い」と題して、
潟船保存会の主催により「打瀬船の見学」が行われました。
場所は、八郎潟町にある八郎潟増殖漁業協同組合前。
八郎潟の目の前です。
打瀬船の待つ湖上へボートで移動。
遠くに打瀬船らしきものを確認できます。
湖上を滑らかにすべるボート。はじめての体験です。なかなか心地いい。
途中、なにやら設備らしきものが。。。
これ、干拓地を維持するのになくてはならないもの。
この奥で営まれている大潟村での農業。
その田んぼに新鮮な水を取り込んでいるのはこの大きなモーター。
その名も「承水路(しょうすいろ)」。
徐々に打瀬船の姿がはっきりと見えてきました。
めったに見ることのできない「打瀬船」。じっくりご覧ください。
打瀬船は漁が目的の船。だから、船の先の湖面には網が張られています。
船頭さん。打瀬船から伸びている魚網の中を確認。
さて、さて、せっかく打瀬船を見ることができたので、
ここで、八郎潟での漁の昔を知ろうと思い、天王グリーンランドへ。
ここ天王グリーンランドのスカイタワー2階には、
「潟の民俗展示室」があります。
そこは、遠くに八郎潟・大潟村を望むことができるところ。
八郎潟ではいろいろな手法の漁があったようです。
「手縄・張切網漁」「間手網漁」そして、「打瀬網漁」。
ここには、八郎潟が干拓される前の、そこで漁業が今よりもっと活発に行われていた頃の、
道具や資料がたくさん展示されています。
では、「打瀬網漁」について少々お勉強を。
打瀬網漁は、明治末期、芦崎の工藤富吉のもとに霞ヶ浦の坂本金吉(あの坂本九さんの祖父とのこと)が
寄宿し、その技法を伝えたのがはじまりとされる。
これは風力を利用しての曳網漁法であり、高度な操業技術を必要とした。
船いっぱいに帆をあげた雄姿は、八郎潟の風物詩として広く知られている。
操業者の地域はあまり多くなく、塩口と羽立の両地域でほぼ75%を占めている。
また「漁業許可証(秋田県)」を必要とした。
そのほかの漁法として、冬の凍った八郎潟で行われる漁法「氷下曳網漁」というのもあった。
昭和35年2月5日付けの秋田魁新報。
「八郎潟の氷下漁」「干拓で消える運命に」とある。
干拓工事の歴史を振り返ると・・・
昭和32年 干拓工事開始
(八郎潟の内側に堤防をつくり、南部都北部の排水機場を建設、堤防に使う石を採るために八郎潟町の山が一つなくなるほどだった。)
昭和38年 堤防や排水機場などが完成
(堤防でかこまれた中の水をかき出しました。)
昭和40年 すべての水をかき出し、八郎潟の底だったところが15600ヘクタールの陸地になりました。
この工事の過程の中で、八郎潟の漁の環境(漁獲量、漁法)も大きく変わっていったようです。
そして、ここ八郎潟で採れた魚達は商人によって町外への運搬されていきました。
八郎潟でとれた魚は加工業にも向けらたが、多くは五十集(いさば=魚の行商人)によって商われた。
魚を入れるガンガはブリキ製の蓋付きの箱で、魚の鮮度を保ち、
多量に運搬できるので、五十集には秤ともども必需な道具であった。
今日は貴重な「打瀬船」の見学ができたほか、
八郎潟を取り巻く漁業の歴史と商いについて勉強することができた。
商人の町に勤める職員としていい一日だったな。