二度と生きて帰れないと覚悟し、中国に赴く直前の1944年3月、東京・渋谷の写真館で隊の友人と撮影した。左が21歳の宮本さん(宮本さん提供)
当時の写真やはがきなどを見せる宮本武之助さん=土浦市内
1944年3月に通信兵として召集され、中国中部、漢口(現在の湖北省武漢市の一部)の部隊本部で、日本軍の中隊同士の通信を傍受する任務に当たった。敗戦により1年の捕虜生活の後、46年6月復員した。
土浦市三好町(現在の大和町)生まれ。4人兄弟の長男で、39歳で死去した父親に代わり、母親がリヤカーを引いて魚を売り子供4人を育てた。
長男の宮本さんは高等小学校を卒業後、土浦郵便局に勤務。その後、東京・麻布の逓信講習所に入学し、1年間寄宿舎生活を送りながら通信技術を学んだ。
再び土浦に戻って郵便局で働いたが、43年10月、教育召集を受け、通信第1連隊で通信訓練を受けた。経験者だった宮本さんは、テストはいつも満点で何の苦労もなかったという。
半年間の教育召集を終え、44年3月、通信専門部隊の電信第28連隊に入隊。北九州の門司港から船で釜山港に上陸し、汽車で朝鮮半島を北上し満州を経て、中国中部の漢口に入った。
中支派遣軍の呂2154部隊本部に所属。宮本さんは年が一番若く、中隊同士の暗号通信を傍受するのが役割だった。
夏には気温が40度にもなり、マラリアで震えがおさまらない隊員の体をたびたび抑えたという。
無線機のチャンネルを回すうち、インドから「日本は負ける」という日本語のデマ放送が流れてきたのを何度か聞いた。一方、日本の戦況はほとんど情報が入らなかったという。前線には赴かなかったため敵に遭遇したことは一度もなかったと振り返る。
45年8月15日、ラジオで玉音放送があった。雑音で内容はよく聞き取れなかったが、無条件降伏したことが分かり、二度と日本に帰ることはできないと思った。
戦後は武装解除を受け、蒋介石率いる中国・国民政府の捕虜となった。郊外の宿舎に全員が集められた。宮本さんは、将校や下士官の食べ物を購入する副食代金の請求書を作成し代金をもらい受ける担当となった。
同じ敷地内で国民政府軍兵士も生活していた。ノートや鉛筆を欲しがったため、あげるととても喜んで中国の酒を買いに行ってくれたという。外出もでき、シーツを腹に巻いて街に出てたばこや餅と交換したこともあった。
捕虜の帰国は45年12月から始まり、宮本さんは46年12月に帰国。汽車で焼け野原になった横浜や東京を通り土浦に戻った。戦後は電電公社(現NTT)で勤めを果たした。
「戦争は人と人との殺し合い。二度と戦争は起こしてはならない」と強調する。安保法案など昨今の動きについては「今の政治家のほとんどが戦争のせの字も知らない戦後生まれ。なぜ今こういう法案を出すのか分からない。黙っていては平和を守れない。憲法9条を守り抜きたい」と話す。
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