これまでの放送

2015年8月6日(木)

“焦土の街に路面電車を走らせたい”

阿部
「こちらをご覧ください。
あたり一面、焼け野原が広がる広島の市街地です。
そこを、1台の路面電車が走っていくのが見えます。
この路面電車も、原爆で大きな被害を受けました。」

和久田
「そうした中、街の復興のために、いち早く電車を走らせたいと、強い思いを持って作業にあたった人たちがいました。」

焦土の広島に“電車を走らせたい”

今も広島市民にとって欠かせない足となっている路面電車。
1日の利用者は、およそ10万人。
日本一を誇ります。



しかし、原爆によって車両のほとんどが燃え、架線までも大きな被害を受けました。
こうした状況の中でも、いち早く電車を走らせようと、路面電車を運営する広島電鉄は動き始めます。



現場の指揮をとったのが、当時、電気課長を務めていた松浦明孝(まつうら・あきたか)さんです。
松浦さんは、復旧に向けた取り組みを手帳や業務日誌に詳細に書き残していました。




長男の正和(まさかず)さんです。
今も資料を大切に保管しています。

松浦明孝さんの長男 正和さん(84)
「何でもかんでも(手元に)あるものに書いていたから。
小さい字でしょう。
それを何枚も書きよる。」

8月6日の日誌には、目の当たりした広島の惨状が記されています。

“8時15分。
市中心部は被害甚大。
屋外にありたる者は、ほとんど爆死したる状況なり。
死傷者数万と想像。”

焦土の中、松浦さんたちは焼け残った車両の中で会議を行います。
復旧への決意を確認し合ったのです。

“この惨事の中で、果たして電車に乗る人がいるのか。
しかし、電車が走れば人々に勇気が湧き、喜んでくれるに違いない。”

松浦さんが手書きで作った路線図です。
まず、路面電車の被害の状況を調べることから始めました。




赤く記したのは、原爆で被災した場所です。
調査の結果、市の中心部を外れたこの700メートルの区間のみは、レールや電力供給にはほとんど損傷がなく、3日後には、運行できることが分かりました。
しかし、車両の運転士がいませんでした。
戦況の悪化で多くの社員が徴兵され、原爆の被害もあり、人材が不足していたのです。

そこで動員されたのが、広島電鉄が運営する女学校で車掌などの業務を学んでいた、生徒たちでした。





原爆が落ちて3日後に、実際に路面電車を運転をした児玉豊子(こだま・とよこ)さん、当時16歳です。
不安を抱えながらも、強い責任感を持って臨んだと言います。

当時 路面電車を運転 児玉豊子さん(86)
「まあ、せないけんわ、誰もおらんけえね。
私がひとり、わいわい(元気に)しよるけえね。
『せないけんわ』と思う気持ちはありましたよ。」

松浦さんは、市内全域にわたって路面電車を走らせることが、焦土の広島が復興するために重要なことと考えていました。
そのため、破壊された変電所をいち早く修復することが求められたのです。
わずかに残った電線や資材などをかき集め、作業に取りかかりました。
ところが…。

“堪えがたきを堪え、しのびがたきをしのび…”

終戦によって、復旧に向けての機運が急速にしぼんでいったといいます。




“本日、停戦協定。
全員意気消沈。
仕事は中止状態となる。”

それでも、松浦さんは仲間に協力を呼びかけ、連日会社に泊まり込み、作業を続けたといいます。
広島の街に再び電車を通そうとする取り組みは、次第に全国に知れ渡っていきます。
四国や近隣の電鉄会社などが、次々と資材を持って応援に駆けつけるようになりました。

そして、原爆投下から12日後。
ついに焦土の街に、路面電車が走り抜けたのです。




当時 路面電車を運転 児玉豊子さん(86)
「うれしかったですよ。
お客さんがえっと(たくさん)待っているから、並んで。
『ありがとう』と言って乗ったり降りたりしていた。
ありがとう、ありがとう言うてね。」

松浦明孝さんの長男 正和さん(84)
「偉いな、おやじはと思って。
とにかく電車をやるのは一生懸命やったんですよね。
人に言われても、なかなか泊まり込んで家に帰らずにやるのは(できない)。
それがあったから復興したんじゃないか。」

焦土の広島に“電車を走らせたい”

阿部
「極限状態の中で、復興への道筋をつけようとした人たちの取り組みに、本当に頭が下がる思いです。」

和久田
「電車が走りだすことで市民に立ち上がる勇気を与える。
最近では、東日本大震災でもそうでしたが、70年前の広島でも同じように力を与えていたんですね。」