日航機墜落事故12日で30年 飯塚訓さん、これからも祈り続ける
520人が犠牲となった1985年の日航ジャンボ機墜落事故から12日で30年となる。127日間にわたって亡くなった方々の身元の確認作業を続けた元群馬県警の飯塚訓さん(78)は、「遺族に寄り添いたいという思いは当時から全く変わっていません」と語る。身元確認班長として、最前線に立ち続けた飯塚さんは事故から30年を前に、今、何を思うのか。(久保 阿礼)
自宅は群馬県前橋市の赤城山の麓にある。居間に飾った孫の写真に目をやると、飯塚さんは、ゆっくりと語り出した。
「この辺りは昔、蛍がたくさん飛んでいましたが、最近は暑くなって蛍もいなくなりました。事故から七回忌を迎えても、30年たっても、ご遺族に寄り添いたいという気持ちはずっと変わりません。変わったのは、周りの景色だけですね」
1985年8月12日、蒸し暑い夜だった。群馬県警高崎署の刑事官として、捜査1課長らと次に着手する事件について打ち合わせをしていた。「飛行機が墜落した」。血相を変えて、ベテラン刑事が飛び込んできた。
「墜落場所も分からないまま、署を飛び出しました。最初は長野説が強かったが、群馬らしいという話になった。身元確認班長に任命され、群馬県藤岡市の体育館に向かいました」
事故から2日後。警察官168人、医師、看護師とともに、遺体の身元確認作業を行った。「生存者は4人」とされていたが「時間がたっても、その(生存者の)数は増えませんでした…」。
次々と運び込まれる犠牲者を前に、声を失った。体育館内は40度を超え、線香の煙で真っ白になる中、確認を続けた。520人の犠牲者で、遺体状況から、すぐに身元がはっきり分かったのは、わずか60人にすぎなかった。生後3か月の女の子の右手の中には、母の着ていた服のボタンが握りしめられていた。
極限状態の中、着衣、血液型、指紋を一致させるため、医師や看護師と連携して一つ一つ確認した。怒りと悲しみに満ちた遺族を前に「ご遺体を絶対に間違えてはいけない。遺族の元に何としても返さなくては」との思いを強くした。
「日航の社員は跳び蹴りされ、首根っこを押さえられ、ひつぎの中に顔を入れられ、土下座させられたりしていた。ご遺族は警察官も日航の社員も医者も、回し者、敵という感情をお持ちだったと思う。ご遺体に杉の葉1枚、ついていてもお怒りになられた」
「謝るしかない」と頭を下げ、身元確認につながる手がかりを見つけようと、遺族との対話を最後まで続けた。「捜査中は泣かない」と決めていたが、気が付けば、頬を涙がつたう日々。いつしか周囲から「泣き虫隊長」と呼ばれていた。
「夏休み中で(犠牲者には)15歳以下の子供たちが75人もいた。ひつぎの近くで『山でパパを見つけてくる』と言ったり、『僕は泣きません』と言った少年もいました」
夏が過ぎ、秋になり、確認作業を終えたのは冬だった。127日間の任務。終わってこぼれたのは「空虚な涙」だった。
退官から2年後の98年、「墜落遺体」(講談社)を出版した。講演活動では「命の尊さ」「家族の絆」を子供たちに語りかけている。自宅には、墜落現場にあった木材で作った慰霊の牌(はい)があるという。
「牌に数珠をかけて、お線香上げながら、原稿を書きました。ご遺族のお気持ちから、ずっと離れることはありませんから」。飯塚さんの人生はこれからも「祈り」とともにある。
◆飯塚 訓(いいづか・さとし)1937年2月8日、群馬県生まれ。78歳。作家志望だったが、日大法学部卒業後、父の勧めで、60年群馬県警の警察官に採用される。85年県警高崎署刑事官(警視)時代に日航機墜落事故が発生した。警察署長、警察学校長などを経て96年退官。「墜落現場 遺された人たち」(講談社)などを出版。