2015-08-11
金貸し父さんと評価尺度の囚人
ごきげんよう
お盆の週ですから皆さんのタイムラインも帰郷モード一色ですね。
僕はあまり帰郷したいと思わない方なのですが、父が死んでからというもの余計に帰る頻度が落ちてしまいましたね。
怒ってくれる人がいないとなかなか手を付けられないのは昔から全然変わりません。
帰郷と言って思い出すことといえば、そう。やはりあのナニワのノンバンクのおっちゃんだった父のことです。
私には一人の父が居た。一人は金貸し父さん。以上である。
僕が小学校5〜6年くらいの頃でしょうか。僕は居間に勉強机を置かれていましたが、勉強嫌いだった僕にとって勉強机はもはや前に座ることなどほとんどなくただの物置きになっていました。
金貸し父さんはまぁ古き良き昭和の男でしたから、共働きなのに僕ら子供のことは母に任せきり。通知表に目を通すくらいで、普段の僕の勉強を見てくれることもなければ特に何か口を出すこともありませんでした。
ただ、内容に関しては何も言わないのですが、何かが中途半端になっていることに関してやたらと怒られた記憶があります。
8月31日の夜のことです。
母が買ってくれたドリルを夏休みの間にやるといっていたのに、中途半端なままやっていないことを仕事から帰って母から聞いた父は、もう寝ていた僕を布団の中から引きずり出し、物置のようになっていた机のものを全部ゴッソリ床に放り投げた上で座らせました。
そして「最後まで全部やれ」と言いました。
僕はまたぶん殴られるのが怖かったので、渋々始めたのですがこの算数ドリル。7月に数ページやっただけでほったらかしにしていたので膨大な量が残っています。
必死にやるのですがなかなか終わりません。8割方終わったところで、ここまで頑張ったから許してくれないかなぁと思い机に突っ伏して寝てしまいました。
「そんなになるまでよう頑張ったな。」僕の予定ではそう父は言ってくれるんではないかと淡い期待をしていました。
しかし、後ろにやってきた金貸し父さんは僕のアタマをぶん殴って叩き起こしこう言いました。
「おい。今お前がやってる算数のドリルには肝心なこと書いてないから教えたる。98%と99%はちょっとしか変わらんが、99%と100%にはどえらい差がある。全部やれ。『全部』や。」
泣きながら僕は母が買ったドリルを終わるまでやり続けました。
時は流れます。あの夏の日の夜から15年程が経ちました。
僕は会社員を辞め、会社を立ち上げて2年目の夏、大阪での商談のついでに実家に帰省していました。
僕らの会社は立上げから1年、まだまだ軌道に乗るには程遠く苦しい毎日を送っていました。
父もその頃人生の転機を迎えていました。ノンバンク仕事は変わっていませんでしたが親会社だった電機メーカーが経営危機を迎え、リストラが行われました。父もその対象でしたが、またもや金融屋としての手腕を拾われ当時金融を強化していたGE(ゼネラルエレクトリック)に行くことになったと言いました。
父は「念願かなってやっと電機屋になれたど。しかも世界一や!」と冗談で言っていましたが、金融が嫌いで転職したはずのメーカーで結局金融をやらされ、仕事人生の最晩年にまた金融に救われ転職、しかも転職先はもはや家電を作らなくなった世界最大の電機メーカーとは数奇な運命だなと僕は思いました。
久しぶりに帰省し、顔を出した僕に「おまえらの会社、調子はどうや?」と父は言いました。
僕は、また説教をされてはかなわないと思い、精一杯の虚勢を張りました「おぉ、儲かってしゃーないわ。親父にもベンツ買ったらなあかんなぁ!」
本当は、僕はサラリーマン時代に買ったCLKというベンツの小さなクーペもとっくに立上げの資金の為に売り飛ばしてしまっており、父にベンツを買うどころかもう自転車さえも持っていませんでした。
「親父の方こそ外資なんか行って大丈夫かいな?英語どころか標準語もよう話さんのに。」と僕の話から逸らそうと水を向けると彼は意外なことを言いました。
「GEはおもろいなぁ。全然考え方が違う。」
「わしみたいな年寄りにわざわざ先生がついて、いろいろ教えてくれんねん。黒帯のセンセイやで。」
父が言ってるのはあの名高いGEの品質管理手法「シックスシグマ」のことだと思います。上級のシックスシグマの教育者のことを彼らはブラックベルト(黒帯)と言いますから。
「GEはどういうところが一番ちがうの今までと?やっぱり英語?システムとか?」
僕は興味本位で聞いてみました。そうすると、父は座っていたリビングのテーブルの上の新聞を取り、チラシの裏に〇と×の絵を書き始めます。
そこには「コンプライアンス」という字と「利益目標達成」という2文字が書かれ、その下に〇と×と△の組み合わせのマトリックスを書き言いました。
「コンプライアンスが〇、利益目標達成が△ は △」
「コンプライアンスが×、利益目標達成が〇 は ×」
「これが一番違う」
そう言った後、声は僕が少年の頃正座をさせられて聞いた頃に比べると張りがなくなってしまっていたが、父は昔を懐かしむように話を始めた。
父には生涯の恩人と慕うMさんという方がおり最初の電機メーカーに引っ張ってくれたのはその人だそうです。
その方は大阪を本拠とする都市銀行S銀行の出身で、ビジネスマンとしての父を育てた師でした。(僕も子供の頃から何度も会ったことがあります。とてもいい方でした。)
当時S銀行は猛烈な利益至上主義、目標必達主義で知られ、そのDNAは金融、不動産などの系列企業や出向者を送り込んだ先の企業DNAをも変えるほどだったそうです。
そして父もまたその薫陶を受けていました。
僕はあのぶん殴られながらドリルをやらされたあの日の夜を思い出して納得がいきました。(99%と100%はまったく違う。。か。。。)
父のビジネス人生は、学歴も財産もコネもないところから這い上がる人生でした。その為に人の気乗りのしないことを進んでこなしてきたようです。
父「T君っておったやろ。野球一緒に見に行ったことある。」
僕「あぁ、Tさん、おったね。親父の可愛がってた人じゃなかったっけ同郷の?元気にしてるの?」
父「死んだんや。脳に菌の入る病気やった。急でな。」
僕「・・・・・・・・・・・・・・・・そうなんや。。」
父「T君が死んだ日、わしMさんに呼ばれてな。天理(奈良県天理市)のT君のご両親の所に見舞いに行ってくれと。」
僕「さすがMさんやなぁ。親父だけやなくてTさんのことも心配してくれてたんやね。」
父「いやT君のことはMさんはさして知らん。」
僕「・・・・でも親父が気を落としてると思ってちゃうの」
父「そやな。それもある。でも、その後ワシの前でMさんは、S銀行の奈良支店長に電話して、わしが見舞いに行くさかい若いのも一緒に寄こしてくれと手配してた。」
僕「・・・・それって。」
父「T君は独身やったからな。急に死んだら保険金が親御さんに入るやろ、それをS銀行の定期に入れる為や。もうな、一生抜けんのや。ワシらの仕事の優先順位の表の中には『利益目標』しかなかった。習慣なんや。」
僕「・・・・・・・・・」
父「お前も会社やってるならよう覚えとき。評価の尺度が会社を作る。そして中のもんの性根さえ会社によって変わってしまうこともあるんや。」
「・・・・ということがGEでわかった。おもろいなぁ。」
途中まで子供の頃に見た恐い眼差しだった父は、最後には目を細めて笑った。いつの間にこんなに丸くなってしまったのだろう。そういえばあれほど大きかったように思えた父は少し小さくなってしまったように思います。
僕は飛行機の時間があるので、そこまで話を聞いたところで早々に帰ることにし、支度を始めたが、父はそんな僕の背中に構わず声をかけてきました。
父「そや、この家はわしとお母さんで住むには大きすぎる。売ったらいくらかにはなるやろ。まぁどうせお前になんか銀行は金は貸さんやろうからな。ややこしいこと考える前に言うて来るんやぞ。」
すっかり忘れてました。父はこれまでの人生で何千人という経営者の虚勢とその後の豹変を見てきたのですから、僕如きの下手な芝居で騙せるわけはなかったのです。
僕「アホ言え、そんなことよりどのベンツがええか決めとき。」
最期まで虚勢をはって関空への道のりを急ぎました。
帰りの飛行機で窓の外を見ながら、ある映画を思い出しました。「ショーシャンクの空に」というスティーブンキング原作の名作映画です。
「ショーシャンクの空に」は、アンディ・デュフレーンという銀行員の主人公が無実の罪で刑務所に終身刑で収監されるが、刑務所の中でも希望を捨てず最期に脱獄し、メキシコの海辺で自由を手に入れる人間ドラマです。
アンディは刑務所の中で持前の金融や税務の知識を使って看守や所長の信頼を得ていき、その結果他の囚人とは違う特別扱いを受けれるようになり脱獄のチャンスを得ることになります。
父は毎日毎日スーツを着て、朝から晩まで仕事に行っていました。僕が小さかったころには休日に部屋から債務者に電話で督促などを声を荒げてすることもあり、僕は子供部屋で怯えて両手で耳を塞いでいました。
あまり楽しそうな顔で仕事をしている父は観たことがなかったような気がします。
結局父は「ショーシャンクの空に」のアンディのように最期、金融仕事から結局脱獄をしたわけではありませんでしたが、高卒の彼が人生の最期に単なるリストラではなく世界屈指のグローバル企業に拾われ生き残ったのは、皮肉なことにあれだけ好きではなかった金融仕事をずっと持ち場でがんばってきたおかげでした。
「仕事辞めたらな。わし、夢があるねん。沖縄に住んでみたいんや。わし寒いの嫌いやからな。」父はよくそう言っていました。
しかし、その夢はかなうことはありませんでした。父はこの帰郷をした年の2年後、癌で亡くなることになります。定年退職の3カ月前でした。
映画とは違うところです。
僕は父が死んだ2年後、沖縄にローンで家を買うことにしました。いつかわかりませんが家族で住むためにです。
「しょうもないものを高値でつかまされない為に金貸しは使うんや。」金貸し父さんの教えです。
今は盆暮れの長期の休みに少し行くくらいしかできません。でも僕にとってはしょうもないものどころか借金してでも手に入れたい大切な時間です。
僕の息子達は父のことを知りませんから、いつも「なんで僕にはおじいちゃんが居ないの?」と残念がります。
僕は息子におじいちゃんのことをこう話します。「おじいちゃんはパパより強くてかっこよかったんだよ。見せたかったな。」
息子は沖縄で残念がっていました。
「おじいちゃんとシーサーのおうち(沖縄の家のことを幼稚園生の息子はこう言う)に一緒に来たかったな。」
長い長い金貸し父さんの思い出話も一旦ここで終わりにします。また思い出したら。
さて、世の中盆休みの方も居るようですがまだまだ私は東京で消耗しますよ。
リフレッシュもまずは持ち場でがんばっているからこそ価値があるというものです。
では
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