前節で、われわれは、アメリカ社会の格差の拡大は、ピケティの理論のうちに示されていること──つまり資産の収益率が高いこと──を原因とはしていない、と論じた。このことは、当のピケティが提起しているデータから確認できることだ。念のために、同じことを別のデータで再確認しておこう。図5は、岩井克人が、World Top Incomes Data Baseをもとに作成したグラフである(1)岩井克人『経済学の宇宙』日本経済新聞社、2015年、387頁。。
図5 トップ1%の所得割合の内訳の歴史的変遷(アメリカ、1916〜2011年)
このグラフを見れば、富裕層の資本所得(資産所得)の割合は、1920年代・30年代で最も大きく、第二次世界大戦後に激減した後、この70年ほど、ほとんど増えていないことがわかる。つまり、20世紀終盤から21世紀にかけての格差の拡大には、資産からの収益はほとんど関与していない。
1980年代以降に急激に増えているのは、富裕層の企業所得と、それ以上に賃金である。企業所得とは、成功した起業家が得る利潤や、スポーツ選手や文筆家が得る報酬だ。起業家が成功して法人(会社)を設立すれば、彼が得るのは、賃金や役員報酬になる。それゆえ、成功した起業家と高額な賃金を得ている経営者とは、連続している。図5のグラフから、アメリカ社会の格差の拡大は、主として、企業のトップ経営者が、極端に高い報酬を得ていることに起因していることが一目瞭然である。このような経営者を、ピケティは、スーパー経営者と呼んだのだった。このスーパー経営者は、資本主義の内側の神と見なすべきだ。これが、前節の結論である。
つまり、現代の資本主義、グローバル化した後期の資本主義は、その内側に、神を産み出す。その神こそが、現在の経済格差の最大の原因である。それは、どのような性質の神なのか。現在の神、神としてのスーパー経営者を特徴づけているのは、どのような条件なのか。資本主義の現在を理解するためには、この点を検討する必要がある。
神のごときスーパー経営者の典型としてイメージされる人物は、特にIT系の業界に多い。マイクロソフトのビル・ゲイツ、アップルのスティーヴ・ジョブズ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ等々。これらの神=スーパー経営者は、伝統的な神とはずいぶん異なっている。ここで伝統的な神と呼んだのは、一神教の神のことである。一神教の神は、言うまでもなく、「父」のイメージの延長上にある。それは、家父長的な主人の極限にいる。それに対して、ビル・ゲイツやスティーヴ・ジョブズ等のイメージは、厳格な父とはほど遠い。彼らは、むしろ、「子」のイメージを濃厚に帯びている。本来であれば、父たる神に従う信者たちが、子に喩えられる。しかし、今日の神、後期資本主義の神は、まさに子どものようであることにおいて、神たりえているのである。
それだけではない。彼らは、会社の経営者であり、組織のトップに立っているわけだが、官僚制的な管理の厳格性を代表する権力者、たとえばオーウェルの『1984年』のビッグブラザーとも対照的である。鉄の官僚制の頂点にいるビッグブラザーの(イメージの)要件は、その近づき難さ、「ほんとうに存在しているのか」という疑いをすら覚えてしまうほどの近づき難さであろう。ビッグブラザー的な管理者は、シェルターのような奥まった部屋か、あるいは一般のメンバーが足を踏み入れることがない高層ビルの最上階の広いオフィスにいて、何重にもガードマンによって護られている。それに対してIT系の企業の起業家や経営者に代表されるスーパー経営者たちは、ある意味で、ごく平凡で、親しみやすい人物としてイメージされている。彼らは、ビッグブラザーに対して「リトルブラザーズ」と呼ばれるべきだろう。
もう少し繊細に言い換えれば、神としてのスーパー経営者を特徴づけているのは、奇妙な両義性である。一方で、彼らは、「われわれ」のように、日常的で平凡だ。その意味で、彼らに、われわれは、自分たちの似姿を見る。しかし、他方で、彼らは、われわれを超えており、われわれの先を行っている。現代の神は、凡庸なのに、いや凡庸であるがゆえに、どこか不気味な超越性──というか悪魔性の片鱗──を宿しているのである。彼らは、およそ神らしくない性質によって神になっている。
先端的な資本主義の内側に生まれたこれらの神の性格を正確に言い当てるためには、この神が「悪」に対してどのようなポジションをとっているのかを見るのがよい。この検討から、資本主義の内側の神が、資本主義の「外側」の神と相補的な関係にあることが判明するはずだ。
ビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、そしてザッカーバーグに共通していることは、皆、元はハッカーだったということである。いや、もう少し厳密に言っておこう。実際に、彼らがハッカーだったかは問題ではない。ともかく少なくとも、彼らは、起業する前はハッカーだったと見なされているのである。もちろん、スーパー経営者が全員、元ハッカーだというわけではないし、そのようなイメージをもたれているとも限らない。スーパー経営者は、IT業界にのみいるわけではないので、当然である。しかし、スーパー経営者であることと、ハッカーだったというイメージは、親和性が高い。つまりスーパー経営者には、しばしば、(元)ハッカーのイメージが付与される。どうしてなのか。
ハッカーのイメージを構成する中核的な意味素は、(軽い)反体制のスタンスであろう。ハッカーの活動は、公式の社会秩序をトータルに破壊し尽くすことはないが、官僚的な組織のスムーズな運営を乱すように働くと見なされている。それは、秩序にとって(いくぶんか)壊乱的な要素である、と。要するに、「ハッカー」という語には、「悪」という
ここで、前節で、スーパー経営者を、「桐島」に、『桐島、部活やめるってよ』の桐島に喩えたことを思い起こしてほしい。桐島は、どこの地方にもあるようなごく平均的な高校の、スーパーヒーローであった。ところで、この映画で、どうして、桐島の部活が、運動部(バレーボール)での彼の地位や役割が問題にされているのだろうか。どうして、桐島のスーパーヒーロー性が、主として、部活によって代表されているのだろうか。言い換えれば、勉学においてずばぬけて優秀であるとか、あるいは生徒会長だとか、といったことはスーパーヒーローの証とは見なされておらず、(運動部の)部活でリーダー的な役割を果たしていたということがとりわけ、スーパーヒーローの条件と見なされているのは、どうしてなのか。
学校生活における運動部の部活の位置価は、一般社会におけるハッカーの位置価と似ている。もちろん、「バレーボール」と「ハッカー」は、それ自体として見るならば、互いに類似したところは何もない。しかし、学校生活の主流の秩序に対して(運動部の)部活が占める位置は、一般社会の主流の秩序に対してハッカーがもつ関係に対応している。(運動部の)部活は、学校生活の本来の目的にそった秩序に対して逸脱的なのだ。いや、それを、非行のようなものと一絡げにして「逸脱的」と言ってしまえば、明らかに言い過ぎではあろう。部活は、学校において正式に承認された活動なのだから。とはいえ、部活は、学校にとって主要な目的ではなく、明らかに副次的な活動の方に含まれる。もし、部活を学業よりも優先させれば、本末転倒であって、学校生活の秩序を乱すものと見なされることになるだろう。この意味で、部活は、ハッカーと同様に、微妙に逸脱的である。
桐島が、高校で学業において(のみ)最も優秀な生徒だったとして、彼が、「もう勉強はやめる」と宣言した場合に、同じような物語を思い描くことができるか、試してみるとよい。数学や英語が得意だということ(のみ)が取り柄の生徒が、桐島のようなスーパーヒーローになりえたかを、想像してみるとよい。(2)