Mr.hのコメントから、改めて自分が何を見てきたかを主張することの大切さについて考えました。
Mr.hのコメントを読み、別にそこに行かずとも、正しい目を持てば判断できるだろうと思いつつ、やはり思い直しました。
そこに行かない者には説得力がないのです。
そして、ツイッターに顕著なように、大勢と同じ意見であれば、いつまで経っても自分のオリジナルな意見が持てません。
もちろん、大勢と同じ意見になることは少なくないとは思います。
しかし大勢と異なる意見、もっと言えば大勢よりも細やかな意見というものが大事なのです。
たとえば、ノイシュバンシュタイン城といえば、撮影ポイント2ヶ所しかないようで、そこからの写真しか見かけません。
然るに本当にノイシュバンシュタイン城に行った人間ならば、いろんな角度からノイシュバンシュタイン城を見られますし、私のように、「生活感がなく、横にあるホーエンシュバンガウ(だったと思う)城の展示のほうがよほど面白い」というような薀蓄を言えたりもします。
そう考えると、手はじめになにかについて、薀蓄が語れるかがひとつのキーでしょう。
とはいえいまの私から見れば、現物も見ずにさも知ったような薀蓄を垂れるのが多いのですが。
"現物も見ずにさも知ったような薀蓄を垂れる"人間と対話しても、「もっと勉強してください」とか言ってアクセスブロックしてきます。
「もっと勉強してください」は言い換えれば、自分が勉強してきた学問体系しか認めないと言っていることなので、こう言う人といくら付き合っても、イノベーションは絶対に生まれません。
イノベーションを起こす人間は、「もっと勉強してください」とは言わずに、「そういう考え方もあるのか!」と、新たに発想できます。
だいたい人間の学問体系なんてまだまだ未熟で、先達とされる人間が好き勝手に構築してみたものを、後世は大事に考えているのです。
アインシュタインの相対性理論とやらが完全には正しくないらしいのですが、それはアインシュタインが天才過ぎて人々の注目を集め過ぎ、アインシュタインのさらに上に行きたい者が出てきたというのもあると思います。
私の学んだことになっている、機械工学とか塑性加工学とか、まあ大学で学ぶ学問なんて、だいぶいびつと思います。
だいたい、歴史教科書がおかしいからケシカランと言っているヤツらがいるのです。
歴史教科書がおかしいならば、現在主流派の意見がおかしいことなんてままあると容易に考えられるはずですが、右翼はその不整合を正す努力をしていません。
そこに行かない者には説得力がないという主張はつまるところ、行ってもない人間の持つ空論の不整合を埋められないのが原因と思います。
私はそこまで深く考えずに、国内海外を問わず、名所旧跡を見て回りました。
しかし、自分の子孫やその他後世の人々に対して、自分の経験を語れる、これはなにものにも替え難い、そう思って、貯金もせずに旅行ほかさまざまな経験に費やしてきました。
その結果、あらゆるものごとに対して、危険や自己矛盾を孕んでいる可能性を検討できるようになりました。
そういう意味では、たとえば1年をかけて世界一周をする世界旅行者よりも、大きな休暇の時期に1週間を当て、効率的な自由旅行を繰り返した私の方が、さまざまな制約が出てくるのですから、実のところハードルが高いことをしているとも言えなくはないと思います。
(世界旅行者でひとくくりにできないのはもちろんで、私よりもハードルが高い旅行をされている方がいる可能性は否定しません)
翻って、大西弘子が自分でどう行動したかを、私は本当に知りません。
新婚旅行は九州の宮崎とか阿蘇山に行ったらしいのですが、具体的にどう面白かったとか聞いたことがありません。
高校までにどんなことを考えていたのかさえ知りません。
大西弘子の高校時代の写真を見せられたのですが、正直ブサイクで、こんなヤツとは結婚したくない見本と思いました。
本人の前ではさすがに言ってませんが。
それも私が、見合いを嫌悪している原因です。
大西弘子はきっと、子供時代はいじめられっ子だったのだろうと想像します。
だから自分の過去を語ることがトラウマになっているのでしょう。
過去だけでなく、自分の意見さえ言えません。「◯◯さんが言っている」という伝聞形でしか言えないのです。(だから私は意見のないリツイートを毛嫌いするのだと思います)
けれどもその大西弘子が、私に対するいじめに加担し、さらに、自分は嫌だったとして私の幼少時より夫婦喧嘩を見せつけてきていたにもかかわらず、私に対して見合いまでをも強要してきたのですから、自分の受けたものと私への仕打ちの不整合には呆れるばかりです。
けれども、大西弘子はその不整合さえをも理解できる知能を有していません。
だから私は大西弘子との対話に関しては放棄するのです。
インターネットによるリツイートではなく、"自分が何を見てきたか"であれば、不整合は起こりません。
"自分が何を見てきたか"を人前で語ることは、それほど重要なのです。
その上で、ヒロシマやナガサキに行き、原爆の展示を見るのが本当に必要か、については、私は絶対に必要とまでは言えません。
原爆って想像できないのです。
沖縄戦ならば、ここをアメリカ兵が行き交って、日本人が殺されたとイメージできます。
しかし原爆は、いくら人々に被害が残ろうとも、どうにもイメージしづらいのです。
核の怖さは、フクイチの近くに行くほうが、リアルにイメージできると思います。
危険とされ、人々が住んでいない地域に実際に行けば、「自分はここで80歳まで生きる自信がある」なんて言い切れる人間はそうそうおらず、ほとんどの人間が、こんなものは作れないと思うでしょう。
東京でさえ、本来避難すればいい地域なのですが。
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