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webちくま「資本主義の〈その先〉に」

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第1回 資本主義の〈外の神/内の神〉

1 〈その先〉はあるのか

 資本主義の〈その先〉はあるのか。資本主義を超えた先に、資本主義の向こう側に、資本主義ならざる体制システムはあるのか。それとも、資本主義は、人類にとって最後のゲーム、最後の選択肢なのか。資本主義の終焉は、実質的には、人類そのものの滅亡と同じことになるのか。
 社会についての思考、社会科学に、現在、究極の問いがあるとすれば、まさにこれではないだろうか。だが、マルクス主義的な観念が権威を失墜して以降、現状に対してどんなに批判的な論者でも、資本主義の〈その先〉について積極的に思考し、語ることがなくなった。最も重要な問いだけが、思考の盲点に置かれていることになる。ここで、この連載で、この問いを直視してみよう。
 とはいえ、まずなすべきは、資本主義とは何かを、それがどのような契機によって構成されているのかを徹底的に分析することである。目標を、さしあたってこのように定めることの必然性は、マルクスのことを思えば、理解できるだろう。
 今しがた示唆したように、マルクスの理論が支持されていたとき、人は、資本主義の〈その先〉の存在を信じることができた。しかし、マルクスは、社会主義や共産主義がどのような社会なのか、どのような制度を有するのか、具体的に語ったり、書いたりしたことはなかった。それなのに、どうして、人は、マルクスの理論を媒介にして、資本主義の〈その先〉を見ることになったのか。それは、マルクスが、資本主義社会の存立構造を、少なくとも19世紀のその段階において可能な限界にまで解明し尽くしたからにほかなるまい。人が、少なくともレーニンのようなマルクスの最も重要な継承者が、資本主義の〈その先〉を直観したのは、『共産党宣言』のような政治的文書を通じてよりも、むしろ『資本論』のような学問的著作を通じてだったのではないか。マルクスの分析が含意していたことは、次のことだったからだ。資本主義それ自体が、資本主義を破壊する力を生み出すということ。その力は、「プロレタリアート」という姿をとっているということ。
 今日、われわれは素朴に、マルクスのこうした分析を受け入れることはできない。ただ、われわれがここで教訓とすべきは、資本主義の存立構造への透徹した分析のみが、資本主義の〈その先〉を示唆しえたという事実、その一点である。とするならば、まずなすべきは、資本主義そのものを問うことであろう。マルクスの探究を継承し、あるいは改訂し、発展させるような資本主義への洞察だけが、〈その先〉の(不)可能性について、確定的なことを含意することになるはずだ。

2 内側/外側から見た限界

内側/外側から見た限界

 まずは、資本主義の現況を、その最も先鋭な極限において代表するような二つの事象を観察することから探究を始めよう。一方は、資本主義の内側にありながら、資本主義の限界、資本主義の将来的な破綻を予感させる事象である。他方は、資本主義の外側であると自己主張しつつ、その自己主張において、むしろ資本主義に内在していることが示されてしまう事象だ。興味深い事実は、後で示すように、両者の構造が相似形になっているということ、この点にある。
 前者、すなわち資本主義の内側からその限界を暗示している状況とは、ベストセラーにもなった、トマ・ピケティの大著『21世紀の資本』がそのデータによって示しているような、極端な経済的な格差(不平等)である(1)トマ・ピケティ
『21世紀の資本』山形浩生・守岡桜・森本正史訳、みすず書房、2014年。
。競争が奨励されている以上は、格差は資本主義において容認されてはいるが、大きすぎる格差が資本主義にとって危険だということは、ほとんどの者の共通認識であろう。格差がある「閾値」を超えたときには、資本主義そのものが維持しがたくなり、暴動等の大きな無秩序が到来するのではないか、そして、その「閾値」にすでにわれわれの社会は近づいているのではないか、という漠たる予感は、現在、広く分け持たれているように見える。その証拠は、ほかならぬ『21世紀の資本』が爆発的に売れたという事実である。ピケティ自身は、「社会主義」のような、資本主義の〈その先〉があるとは考えてはいないが、したがって、資本主義には限界がないという見解を有していることになるが、少なくとも、それほど易しくはなく、非常な大部でもある彼の本が、いくつもの先進国でベストセラーになった原因は、多くの人々に、「資本主義の終焉」へのひそかな予感が分け持たれていたことにあったに違いない。『21世紀の資本』は、ピケティの意図に反して、この予感を、理論と実証の両面から裏打ちする書物として受け取られたのだ。
 ピケティが提起している、長期の、かなり信頼できるデータによれば、資本主義諸国の格差が最大になったのは、20世紀の初頭である。現在の格差は、(いくつかの国では)その百年前とほぼ同じレベルにまで戻っている。20世紀の初頭に格差が極大化したときには、ある意味で、資本主義は、一度、破綻した(大恐慌と二回の世界大戦によって)。とすれば、資本主義が早晩破綻するかもしれないという予感に、まったく根拠がないとは言えまい。マルクスの場合には、資本主義を終わらせるのは「階級闘争」である。階級闘争を、分配をめぐる闘争と解釈すれば、マルクス主義的な観点からも、格差の拡大は、資本主義の終結へと連なっている。
 後者、すなわち資本主義の「外部」であると自己主張している現象とは、イスラーム原理主義者たちの過激な活動だ。彼らの一部は、「イスラーム国Islamic State」と自称する疑似国家まで建設している。イスラーム原理主義者たちのテロ攻撃の対象は、資本主義の内部の部分的要素ではなく、資本主義の全体、つまりアメリカを中心にしたグローバルな資本主義そのものである。先にも述べたように、今日、資本主義の外部を具体的に語ることは、一般には、きわめて困難だ。近代の「常識」を無視した極端に走った者のみが、それをなしうる。イスラーム原理主義者が、まさに、その「極端に走った者」である。彼らは、資本主義を律するルールを否定し、イスラーム法(シャリーア)の厳密な施行を要求する。

毎月第1、第3金曜更新