(ヒースロー)
京都。
なんと蠱惑的な響きを持つ名か。
我々を引き付けてやまないこの町の魔法の源泉は何か?それは人である。
京都の町はそこで生きる人間に「美しく生きよ」という無言の呪縛をかけている。
この美しい人も京都の町に忠誠を誓った人間の一人だ。
私にとって京都人ほど興味深い研究対象はない。
中でも頭の先から爪先まで京都人であるこの人は最高のサンプルだ
京都は美しい。
しかし京都人は分からない
京都には創業100年くらいの店や会社がごろごろあるため創業200年以上じゃないと老舗とは呼ばないらしい
特に何代も続く老舗や職人の後継者は大変だ。
簡単に廃業する訳にもいかない
長い時をかけて形づくられたソサエティーの一角が崩れると一緒に伝統を守ってきた多くの仲間に迷惑がかかる。
京都人的に言うと難儀をかける事になる。
彼らはこの手の迷惑を他人にかける事を極端に忌み嫌う。
京都という町に対する責任感…とでも言うべきだろうか
京都には名の知られた寺が数々あるが「好きな寺を一つ挙げろ」と京都人に聞かれた時は心して答えなければならない。
彼らはそれで京都に対する理解の深さを測るからだ
私の場合ここ相国寺の塔頭瑞春院と答える。
現在は非公開だが禅寺の塔頭らしく秘蔵の書画も多い。
しかし文学ファンならやはりこの襖絵を見たいに違いない。
ここは水上勉の直木賞受賞作「雁の寺」の舞台になった事でも知られている
福井の寺大工の次男に生まれた水上は口減らしのために9歳でこの瑞春院の小僧に出されたがあまりの修行の厳しさに13歳で脱走した前歴を持っている
(光一)おい何してんねん?人工計算するで。
(純正)はい。
「雁の寺」はその経験を基に書かれた耽美的なフィクションだが主人公の少年僧が寺を出奔する際唯一の慰めであった雁の襖絵を剥がして持ち去るという衝撃的な場面がある
(光一)北は4人やな。
(純正)はい。
(光一)それで…東は2人でええわ。
(純正)はい。
近々修理でもするんですか?いやいや修理やのうて洗わせてもらいます。
洗う?何を。
このお茶室丸ごと。
へえ〜。
建物を洗うんですか?
(光一)ええ。
私らは洗い屋いいまして木で出来てるもんなら何でも洗います。
お寺や神社お茶室や門ヒノキの風呂やタンスも洗いまっせ。
新築みたいにピカピカにするんですか?神社はさらみたいにしてくれ言わはりますな。
こういうお茶室なんかは古色洗いいうて汚れだけ落として経年変化の風合いを消さんようにしてます。
昔からある仕事なんですか?京都は寺社仏閣が多い分商売にもなりますんで。
うちとこも私で四代目です。
ひょっとしてこちらが五代目?あっ…。
どこかでお会いしましたね。
えっ?いえ…すみません。
あ〜私の勘違いのようです。
いい後継ぎをお持ちで。
まあ家業を継ぐとしたらの話ですわ。
おい。
はい。
ほな失礼します。
京都には私の知らない商売がまだまだたくさんある
昔はたくさんいたんですけど時代の流れっていうんですかね。
木を専門に洗うてるっていう洗い屋はもう京都では2〜3軒ぐらいしか無いなあ。
現実ですね。
二条城ですね。
(取材者)二条城を洗ったんですね。
(辻本)二の丸御殿のもう一つ奥にあるんですわ。
同じような大きさのあれが。
本丸御殿。
あの龍安寺なんかは石庭のとこなんかは全部洗いましたので。
蹲踞とか皆観光でありますけども見られないとこを裏から見るとか例えば石庭のほんまの庭に先に下りてっていう事は全然観光の人にはできませんので一般の人なんか。
そういうとこへ入るのは密かな愉しみっていうたらそうなんですけどね。
…で大学卒業して何しようかな思てウロウロしてたんですけどもこの仕事面白いっていうので自然ともう継いでいきましたですね。
仕事的には京都は木は当然たくさん神社仏閣皆ありますのでねまだ維持できますけどね。
僕でちょうど三代目ですけども四代目はどうしようかなっていう形が現実なんですけどもね。
あっ…。
はい。
(文香)どうだった?そろそろ返事が来るはずでしょ?ああ…。
内定した。
本当に?やったじゃない!うん…。
(文香)小説の編集者になるのが夢だったもんね。
おめでとう。
(純正)おおきに。
ねっ2人でお祝いしようよ。
その前にせなあかん事があんねん。
お父さん?うん。
さすがにこれだけはクリアーせなあかん。
何や?何もないよ。
(佐千代)はい栓抜き。
おおきに。
気色悪いやっちゃな。
なんぞ話でもあるんか?ああいや…今日の塔頭の庭きれいやったなぁ思うて。
めったに見れんもんやし。
お前にそんな趣味があったんか。
あの塔頭は水上勉の「雁の寺」の舞台になったお寺さんやから。
ええ勉強させてもろたわ。
ああいう庭をゆっくり見れるいうのんは洗い屋の役得や。
さすがは文学部国文科どすなあ。
露地物の聖護院大根か。
(佐千代)初もんどっせ。
師走が近うなると無性に大根と百合根が食べたなる。
はい。
(光一)百合根はどこにあんねん?
(佐千代)飛竜頭の中どすがな。
ほんまや。
酒に合うわ。
先月面接に行った東京の会社連絡くれはった?いやまだ。
水曜日学校がない言うてたな。
うん。
応援で大法院さんの方丈洗わせてもらうんやけど手伝うてくれるか?人手が足らんねん。
別に構へんけど。
あそこの庭もなかなかやで。
心が洗われる。
あ…。
うまい。
ひと言も言えなかったの?うん。
代々受け継いだ家業を継いでほしいのはよく分かるけど何が何でも継げっていうのはちょっと横暴だね。
おやじは何が何でも洗い屋を継げなんて言うてへん。
でも無言のプレッシャーをかけてくる訳でしょ?親のエゴだと思う。
問題は俺や。
俺が後ろめたいだけなんや。
ご両親に対して?いや…理解できひんかもしれんけどこの町に対して。
京都に?うん…。
うちみたいな珍しい職人の家は数も少ない。
そやから廃業したら困る人がぎょうさんいてはる。
それ考えるとな…。
だから自分が犠牲になるの?私も京都好きだよ4年間暮らした大好きな町。
でもそういう京都の人の考え方はよく分からない。
私は…私は純正が東京で就職したいって言ってくれたから自分も東京に戻って…働く事にしたの。
でも無理はしないで。
私は…。
余計な心配させてごめん。
ちゃんとおやじに話すわ。
自分の人生の事やから。
山本さんのも替えてあげ。
(光一)ええお庭やな。
何や?東京に行かせて下さい。
出版社から内定の通知が来たんや。
そやから…。
(光一)行ったらええがな。
お前の人生や。
好きな事やったらええ。
わしは…できひんかったからなあ。
ハハハ。
ええ夕日やな。
うちにも一口頂戴。
文香ちゃん卒業したら東京に帰らはるん?ああ。
それが京都の大学に行く条件やったらしいから。
弁護士さん目指してはるんやてな。
地元の法律事務所で事務やりながら司法試験に挑戦する言うてた。
…で?あんたはどないすんの?東京の出版社に就職したいっておやじに言うた。
そうか。
いやあっさり認めてくれたから拍子抜けしてんねん。
そらそやがな。
えっ?おとうさんはあんたの名前付けた時からそのつもりやったと思うで。
何やそれ?あんたのひいおじいちゃんは光佑。
おじいちゃんは光則おとうさんは光一。
洗い屋辻光を継ぐ人間は全部名前に屋号の「光」いう字が付いてはるねん。
あんたの名前は純粋の純に正しいで純正や。
そういう名前を付けた時点でおとうさんは覚悟決めてたんちゃうんかなあ。
(佐千代)おとうさんなほんまはフランス料理のシェフになりたかったんやて。
ええ?そんなん初耳やで。
そんな事息子に言うような人違うやろ。
何や?いや…何もない。
はい。
(光一)ぐじやないかどないしたん?どないしたってたまにはぐじぐらい食べてもええん違います?白ぐじやな。
若狭のぐじかいな。
へえ。
そろそろ旬やし就職内定のお祝いやさかい。
何やお前知っとったんか。
母親どっさかいなあ。
はい。
どや一つ仕事任すさかい最後に洗うてみぃひんか?この部屋どすえ。
これなんどすけどなあ。
先々代の女将まあうちらの祖母のもんどすけどな。
妹が嫁入り道具に欲しい言うて。
それやったら辻光さんで洗てもらおういう事になりましたんや。
父から聞いてます。
あっ…この写真が祖母どすわ。
ああへえ〜…。
おきれいですね。
あ…嫌やわもうきれいやなんて。
もうおばちゃんやのに。
ああほな大事に洗わせてもらいます。
へえ。
中のもん全部出してありますしほな男衆に運ぶのを手伝わせますわ。
なっ。
すんません。
(純正)「拝啓つね子様お返事拝読しました。
やはりおうちのご商売をお継ぎになるとの固いご決心よくよく承知しました。
宮仕えの身とはいえ小生も長男。
郷里の両親祖父母の面倒も見ねばならず断腸の思いであなた様の事を諦めます。
無念でなりません。
京都の帝大で学んだ4年の月日は忘れ難くあなた様より頂いたご厚情美しい思い出が胸を巡り暮夜ひそかに涙する事もあります」。
(純正)「情けない男だとお笑い下さい。
終生あなた様の事は忘れません。
どうかどうかいつまでもご健勝で。
草々」。
(呼び出し音)
(純正)明日バイト休みやろ?話があるんや。
会えへんかな?
(文香)お父さんに話したの?
(純正)ああ。
鹿王院まで来てくれるか?
(文香)うん。
分かった。
(チャイム)は〜い。
あら文香ちゃん。
こんにちは。
純正は今いてへんねんけど…。
知ってます。
さっき会いました。
…振られちゃいました私。
(佐千代)そっちで座ってたらええのに…。
いいんです。
何かしてないと泣いちゃいそうだから。
あんたは強い子やなあ。
純正もえらい悩んだみたいやけど…。
彼は責任感が強いですから。
京都人としての。
京都人なあ…。
文香ちゃん「東男に京女」いう言葉知ってはる?「東男に京女」ですか?きっぷのええ東京の男には優しゅうておとなしい京都の女が合うていう昔のことわざなんやけどあれはうそやな。
うそ…?ほんまは「京男に東女」や。
京都の男に一番似合うんは東京の女やで。
どうしてですか?その証拠があんたの隣で栗むいてるがな。
え?お母さん東京のご出身なんですか?いうても八王子やけどな。
30年京都男の女房やってると嫌でもこないなる。
司法試験受かったら胸張って戻ってきたらよろし。
京都人はいろいろ面倒くさいしとっつきにくい。
せやけどな長い事つきあうと優しさが分かるもんえ。
・「あの人の姿懐かしい黄昏の河原町」・「恋は恋は弱い女を」
(光一)今日洗うた事何か所か「ダメ」あるな。
明日もう一回洗い直しや。
分かりました親方。
どうかしはりました?いいや。
何や今日は栗ごはんみたいやで。
・「苦しめないであゝ責めないで」・「別れのつらさ知りながら」・「遠い日は二度と帰らない」・「夕やみの桂川」
(沢藤)さいなら。
1985年8月12日夜。
2015/08/07(金) 01:00〜01:30
NHK総合1・神戸
京都人の密(ひそ)かな愉(たの)しみ「代替わり編」[字]
京都人の密(ひそ)かな愉(たの)しみ 代替わり編。家業か夢か。洗い屋・職人の家に生まれて。出演 常盤貴子 団時朗 林遣都 谷村美月 余貴美子 石橋凌 他
詳細情報
番組内容
京都人の密(ひそ)かな愉(たの)しみ 代替わり編。家業か夢か。洗い屋・職人の家に生まれて。【出演】常盤貴子、団時朗、林遣都、谷村美月、余貴美子、石橋凌 他
出演者
【出演】常盤貴子,団時朗,林遣都,谷村美月,余貴美子,石橋凌
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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